428412 義和団事件考

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「義和団事件」の考察は、思われているよりもずっとその史的意義が大きい。れんだいこ史観に拠れば、「義和団事件」こそは、日清戦争で勝利した日帝が調子に乗って白色帝国主義の猿真似をしてアジアの憲兵として名乗りを上げ、その道を押し進めていく結節点となった対中侵略ではなかったか。以下、この観点から考察してみたい。

 2005.5.7日 れんだいこ拝

 1900(明治33)年の義和団事変は中国清代に華北地方でおこった排外主義を伴った大衆運動と、その後の欧米列国軍との一連の戦闘を指す。義和団の乱とも。また北清事変(ほくしんじへん)との呼び方もある。

 義和団の興りは、清の中期に山東省に生まれた義和拳という宗教的秘密結社であり、白蓮教の流れを汲んでいた。信者らは拳法の修練によって身体を鍛え上げ、呪文を唱えれば刀や鉄砲でも身体が傷つかないと信じていた。また、各集団ごとに民間小説のヒーローである諸葛孔明(『三国志演義』)や孫悟空(『西遊記』)などを神として祭るなど、その信仰も極めて土俗的なものであった。


 清末の山東省は元来の農業生産力の低さと人口過多のために、多くの民衆が生活の苦しさにあえいでいた。加えて19世紀末以降の市場開放に伴う欧米諸国の製品の流入は地域経済を破壊するに至った。そうした状況の中に多くの外国人宣教師が山東省に入り込み、与えられた特権をたてに強引な布教活動や用地の取得を行うと、住民の怒りは彼らに向かい、教会の破壊・教徒の殺害を行うに至った。義和拳はこうした民衆と結びついて急速に巨大化し、盛んに排外活動を行った。1899年の年初から年末にかけての時期のことである。

 排外活動を行う中で巨大化する義和団に対して、欧米諸国の手前もあり、清朝は当初鎮圧の意向を見せた。1899.12月より山東巡撫の任を受けた袁世凱は、持ち前の軍事力で弾圧し、「刀や鉄砲を受け付けない」と自称する義和団の幹部を公開銃殺して民衆の信仰心をそぐなどの強硬な姿勢を見せた。その結果、1900年の春には義和団は山東を駆逐され、直隷など華北各地に流入するようになった。また、この春は山東省一帯を中心に大干ばつが起き、大量の浮浪民が発生。義和団を更に膨れ上がらせた。

 しかし、こうした経過の中で義和団は「西教排斥、扶清仇教、扶清滅洋」(邪教を斥け、清朝を助け、西洋を滅ぼせ)をスローガンとして掲げるようになる。これが清朝内部の満州族を中心とした守旧派の歓心を誘い、「義和団を保護すべきである」との声もあがるようになった。李鴻章などの漢族大官や光緒帝はそうした動きに反発し、議論は紛糾した。この間も義和団は京漢鉄道沿線・東三省(満州)・内モンゴルの漢族を取り込んで鉄道や電信の破壊、西洋商店の打ち壊しなどを継続し、欧米諸国からの義和団鎮圧要請はひきもきらなかったが、清朝内部は活動を活発化する義和団に対して有効な手立てがとれないでいた。

 6.21日、清朝の事実上の最高権力者西太后がついに義和団側に傾き、欧米列国に宣戦を布告した。清朝の公認を受けた義和団はついに北京まで侵入し、各国大公使館を包囲攻撃、日独の外交官を殺害した。北京周辺の清朝の軍隊も、西太后の命令のもと列国を攻撃し、事態は清朝と列国との武力衝突に至った。

 他方、漢族官僚は同調せず、6.27日、両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞・山東巡撫袁世凱などの地方長官らは、宣戦布告以降の上諭を無効として、諸外国と東南互保の盟約を結んだ。この盟約は、自ら統治する領域内の列国の利権を保障し、独自の友好関係を保つものであった。

 しかし列国側に援軍が到着するとともに戦況は清朝に不利となり、同年7月には天津が落城。

 7月、アメリカは国務長官ヘイの名で、門戸開放宣言 (Open Door Doctrine)を発した。1899年の宣言を再度繰り返したもので、終戦後の列強諸国による利権争いの牽制を目的としているが、とりわけ東三省(満州)へ派兵したロシアへの警戒がその最たる理由であった。ロシアは既に清国より遼東半島を租借して港湾都市大連・旅順を建設し、さらに東清鉄道の敷設やハルピンなどの植民都市を整備するなど、着々と東三省への勢力扶植を行っていた。一方で大豆粕など肥料を中心として、日本・アメリカ・イギリスなどは年々東三省との貿易額を増しており、当地のロシアの植民地化は望むところではなかったのである。また、南下するロシアに対する防波堤を朝鮮に設定していた日本からすれば、東三省がロシアの勢力下に落ちてしまうことは大きな恐怖であった。その警戒を裏付けるようにして同年8月、ロシアは東三省を完全に占領し、官庁・軍隊なども完全に自らの支配下に置いた。

 8.14日、日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリアの8国の連合軍が北京を陥落させたことで事変は終焉した。各国の公使館は包囲されて実に55日目の開放となった。

 これと相前後して西太后と光緒帝は西安に逃亡、西太后の別荘であった頤和園は列強の軍隊に略奪・破壊し尽くされた。また、ロシアは居留民の救出と東清鉄道の保護を理由として同年7月に東三省に侵攻、八旗兵を中心とした清朝の軍隊を撃破し、8月にはほぼ全域を占領下に置いた。

 同年9月7日、ついに西太后は列国との和議に応じることを決断し、慶親王奕?李鴻章を全権に指名して交渉に当たらせた。同時に清朝の軍隊に転じて義和団を攻撃するように命じ、ここに義和団は壊滅した。その後、ロシアが清朝(李鴻章)と極秘に交渉し、東三省での利権を一方的を確保しようとしたために英・日・米の猛反対を受けるなどの列国間の利害の衝突が発生、和議調印が長引いたが、翌1901年9月7日、列国と清朝の間で北京議定書が調印された。

 

 ロシアの東三省占領と諸外国の利権争い

 11月、ロシア極東総督アレクセーエフ中将と清朝の奉天駐留の盛京将軍増祺との間で満州還付予備条約が締結された。これは奉天などの主要都市にロシアの駐兵権を認めるなどの一方的なものであった。しかしこの条約は清朝中央の認めるものではなく、李鴻章が対露交渉の全権となり、新たに交渉に当たらせたが、ロシア側の強気の姿勢は変わらず、交渉は難航した。さらに

明けて1901年2月16日、ロシアは清朝の楊儒駐露公使に対して、極秘に12カ条からなる満州返還条約案を提示した。この文案には、ロシアの東三省における軍事・行政権の掌握、鉄道・鉱山・土地に対する特権取得など、さらに強硬なものであった。3月1日にはロシアは清朝に対して、もし調印を拒否すれば、東三省を永遠に返還しないと脅迫し、李鴻章は清朝にこの条約を早く締結するよう求めた。

こうした中、2月27日に駐露公使楊儒が日本にこの情報をリークした。日本はアメリカ・イギリスとともにロシアに抗議し、さらに対露交渉全権の李鴻章と仲の悪い劉坤一・張之洞にこの情報を流し、彼らを通して清朝の内部へもこの条約を調印しないよう圧力をかけた。

結局こうした圧力にロシアは屈し、東三省から無条件で全面的に撤兵する旨を列強諸国に約束した。しかし北京議定書調印後もその約束は履行されず、日英同盟日露戦争へとつながっていくのである。

 革命派でこの騒乱を利用しようとする勢力が現れた。孫文鄭士良らを中心とする興中会で、1900年10月8日広東省恵州で600余名を率いて蜂起した。これを恵州事件という。一時は清国軍相手に善戦し、軍勢も1万以上になるが、連携の悪さなどから11月には壊滅した。

 この蜂起には、後に大陸浪人とよばれることとなる日本人も多く参加し、戦死者も出している。また、台湾総督兒玉源太郎は武器援助と軍事顧問の派遣を極秘に約束したが、10月19日に児玉と親しい山県有朋の内閣が倒れ、その後日本政府からは援助禁止の指示が出たために、実行に移せなかった。





(私論.私見)