42812 戦争責任論、歴史認識論考

 (最新見直し2005.9.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 阿修羅政治版9」に2005.5.14日付投稿「まるでナチはドイツ人ではなかったかのように話して、何でもナチのせいにした 町村外相」が投稿されている。原文は、「小林恭子の英国メディア・ウオッチ ドイツから日本を見た記事 過去と向き合う態度」のようである。

 これに対して、木村愛二氏が、2005.5.14日付投稿「ドイツ人はシオニスト・ユダヤ人に締め上げられたので日本人とはまったく事情が違う」で次のようなコメントをしている。

 日本でドイツを見習えという連中は、実に愚かな平和売人で、実はシオニストの手先である。ドイツ人は、戦後、イスラエル建国資金を、シオニスト・ユダヤ人に締め上げられたので、日本人とはまったく事情が違う。議論の水準が低すぎる。


 れんだいこも同感で、さすがに木村兄は、適確ピシャリと言を為すと感心している。れんだいこも又、小林恭子なる者の立論に逐条コメントしてみたいと思う。案外重要な観点の差が認められるように思われるから。

 2005.5.14日 れんだいこ拝


【過去と向き合う態度 】
 以下、「小林恭子の英国メディア・ウオッチ ドイツから日本を見た記事 過去と向き合う態度」の論点を検証する。
 日本の歴史教科書がきっかけとなって、中国や韓国で反日運動が起き、日本が戦時中の行為に関して謝罪をすべきだという声が再度上がった。日本側からは、「もうすでに謝罪済み」「中国、韓国側の事実認識そのものが間違っている」など、様々な議論が出た。両者共に平行線になってしまったなあ、と思って、流れを追っていた。

 一体、ドイツはどうしたのか?「今」のドイツで一般に認識されている考え方、社会の価値観を知りたい・・と思っていたら、ドイツの日刊紙Der Tagesspiegel紙の論説委員クレメンツ・ウエルギンClements Wergin氏の記事が、5月10日号のフィナンシャル・タイムズに載っていた。「歴史と付き合うための、ドイツから日本への教訓」 German lessons for Japan in dealing with historyと題する記事だ。フィナンシャル・タイムズは親欧州で、時々、欧州からの論客の記事も論説面に掲載される。

 日本、中国、韓国間で、どの歴史解釈が正しいのかを、正確に判断するのは歴史家でもないと難しい。ただ、「歴史に対する態度」なら、「過去に十分に向き合ってこなかった日本」という批判は、あたっていると思わざるを得ない。

 ナチドイツの行為と日本の戦時中の行為をイコールにして見るのはおかしい、という指摘も、ドイツ人ならではの視点だと思った。最後が建設的な話になって、心が救われる思いがした。

(私論.私見) れんだいこコメント

 「日本、中国、韓国間で、どの歴史解釈が正しいのかを、正確に判断するのは歴史家でもないと難しい」とあるのが気に食わない。「正確に判断するのは歴史家でもないと難しい」とあるのは学問的権威に対するフェチ追従で、「正確に判断するのは歴史家でも難しい」と記すべきだろう。それが証拠に、れんだいこは、自称歴史家の歴史記述でロクナモノに出会ったことが無い。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

 続いて、次のように述べている。

 今週、〔対独戦勝記念式典が開催されるので〕ドイツの残虐行為の記憶を扱った記事が、再び世界中のメディアに出た。

 過去は消えていなかったードイツ人にとっても、近隣諸国にとってもーこれが、ドイツ人の大部分が認めることになった事実だ。おそらく、中国全土で反日デモが起き、東アジアの攻撃の歴史をうまく受け入れることができないでいる日本の失敗に対する不満という形で、今年歴史がよみがえってきたことに、日本も驚いてはいけないのだろう。

 韓国人や中国人の一部は、歴史の取り扱い方に関して、日本はドイツを見習うべきだ、という。これは、日本の戦時の行為をドイツのナチの行為のレベルにまで上げさせることになり、やや不公平だ。しかし、何故日本が、ドイツがそうしたように、歴史と向き合ってこなかったのかを問いかけるのは理にかなっている。特に、東アジアの諸国が新たな地域統合の枠組み作りを考えているならば、日本がドイツの経験から学べることことは多いかもしれない。

(私論.私見) れんだいこコメント

 日・中・韓・台・北朝鮮の東アジア諸国が、先の大東亜戦争について歴史総括することは必要なことである。問題は、分かっているのにそれがなぜ実現しないかだろう。それはともかく、「先の大東亜戦争についての歴史総括」は必要で、その限りで「日本はドイツを見習うべきだ」と云う観点は必須であるように思う。

 但し、「日本の戦時の行為をドイツのナチの行為のレベルにまで上げさせることにななり、やや不公平だ」というあらかじめの観点は俗論だ。「ナチの行為」に対する先入観を前提にしており、いただけない。「ナチの行為」も含めて一切の「再検証」に向うべきだろう。よって、この箇所の主張の前半は首肯できるが、後半には疑問符がつく。


 2005.5.14日 れんだいこ拝

 丁度中国で反日運動が高まっていた時に、私は日本を訪問した。与党自民党の政治家から、ドイツの経験に関する奇妙なコメントを耳にした。割と若い議員は、ドイツにとっては、過去の歴史を処理することが簡単だったろう、と言った。「何でもヒットラーが悪かった、ということにしておけばいいのだから。日本は、アメリカ人がそう望んだために、天皇制を維持しなけれならなかった(だから、過去の清算は難しかった)」。

 また、町村外相は、ドイツ人はヒットラーをスケープゴートに使った、と言った。「まるでナチはドイツ人ではなかったかのように話して、何でもナチのせいにした。

(私論.私見) れんだいこコメント

 日本の与党自民党の政治家が、概要「ドイツ式歴史責任総括は、何でもヒットラーが悪かった論、何でもナチのせいにした論でしかない」と見立てているのは、れんだいこには的確な指摘であるように思われる。恐らく今や、世界を席巻するシオニズム的歴史観に添わないと認められないのだろうと思われる。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

 実際は、逆だった。ドイツ社会の中で、戦後間もなくは、少数のナチドイツに加わった人たちが戦争犯罪に手を染めたとする考え方があった。1968年の学生ストの頃からこうした考え方は崩壊しだした。学生たちは、ドイツが戦争犯罪での責任を明確にすることを望んだからだ。

 それから40年間、国民の間で熱狂的な議論が起きて、社会の大部分がナチドイツの犯罪の共犯者であったことに、ドイツ人は直面せざるを得なくなった。歴史はドイツの熱狂的トピックとなった。

(私論.私見) れんだいこコメント

 「実際は、逆だった」と云うが、どこが逆だったのだろう。「何でもヒットラーが悪かった論、何でもナチのせいにした論」に帰着したのだから、「実際は、逆だった」と述べるのはオカシイ。一種の言葉の煽り効果を持つ無責任な言い回しでしかない。正確には、「実際は、議論の末の結論だった」と述べるべきだろう。

 但し、やや癖の有る見立てには違いない。戦争犯罪に手を染めたナチドイツに加わった人たちが当初は少数だと考えられていたが、調べていくと、社会の大部分がナチドイツの犯罪の共犯者であったことが判明したというのは事実問題であり、本来考察すべきは「当時のドイツ人が何ゆえナチドイツに加わったり支持したのか」であろう。これに触れないと無責任である。筆者は意図的かどうか分からないがこれに触れていない。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

 過去のことばかりが話題に上る、と考えるドイツ人は多いが、ドイツ人の残虐行為を記憶に残すには、後悔や良心の呵責を持ち続けることが正しいやり方だ、とする考え方が広く社会の中で受け止められている。ドイツのケーラー大統領が「私達には、こうした苦しみを覚えておく責任がある、過去に関する議論に終わりは無い」と述べている。

 過去を思い出し、現在の問題として考えようという社会のコンセンサスが、日本にはないようだ。

(私論.私見) れんだいこコメント

 「ドイツ的総括」が何の制約の無い充分な議論を経てもたらされたのなら、「ドイツ人の残虐行為を記憶に残すには、後悔や良心の呵責を持ち続けることが正しいやり方だ、とする考え方が広く社会の中で受け止められている」で良かろう。問題は、あらかじめ決められた結論に至るまでのヤラセ議論に過ぎないものだとしたら、後生大事にするほどのものだろうか。大統領が述べようが首相が述べようがそれは箔がつくだけで、値打ちにはならない。

 後段の「過去を思い出し、現在の問題として考えようという社会のコンセンサスが、日本にはないようだ」の指摘はその通りと云える。しかしそれも、コンセンサス妨害勢力が居てのことで我々が拒否している訳ではあるまい。


 2005.5.14日 れんだいこ拝
 近年、日本の歴史の教科書の中には、南京の大虐殺での戦争犯罪を省略するようなものも出てきた。日本の歴史に対する態度に関する本を書いた、ドイツの歴史家スベン・サーラー氏によると、日本の教科書が、戦争中の行為を以前より批判的に書くようになったのは、1980年代から1990年代の最初の頃だ。この傾向は、今は逆になったようだ。
(私論.私見) れんだいこコメント

 これは事実問題でその通りだろう。いずれにせよ検証と議論無きまま振り子が左右されるのは嘆かわしいことではある。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

 日本が何故ドイツとは違うアプローチをするようになったのかには、いろいろな理由がある。一つには、アメリカの指示の下、天皇制を維持することになったこと。これで、戦時中の行為を批判することが難しくなった。

 また、日本への原子爆弾の投下もある。広島と長崎へでの大きな被害のために、日本人は自分たちが戦争の加害者でなく被害者であると思うようになった。

 多くの日本人は、中国人や韓国人の政治家達は、自分たちの政治的目的のために、反日感情を使っている、という。一理ある。しかし、だからといって、日本が過去とどのように向き合ってきたかに関して、不満を言う理由がない、とはいえない。

(私論.私見) れんだいこコメント

 アバウトではあるがこれらの指摘は聞き流せる。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

 歴史を否定するのは国家のプライドに関わる、と思っている保守派のグループが日本にいる。靖国神社を訪問する小泉首相もそうだ。多くの保守派の人たちは、日本の歴史を批判的に見ることは、日本を国際的、対外的に弱くする、と思っている。ドイツの例をみると、こうした懸念は一部あたっている。多くのドイツ人は、ドイツ人であることを何か肯定的なものとしてみることを難しいと感じているからだ。

 一方では、繰り返し過去の歴史を議論してきたおかげで、社会が強くなったという部分もある。ドイツが「普通の国」になるには、必要なプロセスだった。文明国家の仲間として再度認められるには必要な作業だった。

(私論.私見) れんだいこコメント

 アバウトではあるがこれらの指摘は聞き流せるようにも思うが、「ドイツが『普通の国』になるには、必要なプロセスだった。問題は、文明国家の仲間として再度認められるには必要な作業だった」という観点の指し示す内実が問題だ。

 2005.5.14日 れんだいこ拝
 過去の償いは、ドイツの近隣諸国が、東西を分けた鉄のカーテンがなくなった後に東西ドイツが統一するための、条件でもあった。現在、日本同様に、ドイツは経済力をばねに、政治的影響力を世界で行使しようとしているし、国連安全保障理事会の常任理事国にもなろうとしている。かつて敵国だったフランスや英国がドイツの常任理事国入りに賛成し、かつての同盟国だったイタリアが反対しているのを見ると、戦後、いかに物事が変わったかと思う。
(私論.私見) れんだいこコメント

 確かに隔世の感がある。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

 こうして、政治の世界でも、過去と向き合うという痛みを伴った努力が実を結んでいる。確かに、謝罪は、片一方だけがして成立するものではない。謝罪を受け止める側にも良い態度が必要だ。この点からは、欧州がドイツに対してとった態度を考えると、東アジア諸国の日本に対する態度ははるかに厳しい。

 欧州では、ある合意がある。それは、ドイツが自ら後悔の念を繰り返す限り、近隣諸国は、過去の歴史を政治的道具としてドイツに対しては使わない、というものだ。この点は、中国や韓国も、欧州から学ぶことがありそうだ。

 しかし、アジア地域のねじれた関係を変えていくのは、日本の動きにかかっている。日本はこれまで数十億ドルの資金を東アジアに投資し、経済の活況をになってきた。政治的投資をする時期にきているのかもしれない。

(私論.私見) れんだいこコメント

 何と評すべきか。「政治的投資をする」とはどういう意味で使っているのだろう。

 2005.5.14日 れんだいこ拝
 将来的に近隣諸国からの信頼を得るために、日本は、おそらく、もっと徹底した過去の実態調査をするべきだろう。
(私論.私見) れんだいこコメント

 それはまさにその通りなのだが、問題は、日本の自主外交、「過去の実態の共同調査」を誰があるいはどの勢力が妨害しているのかにある。それを述べずして一般評論しても詰まらない。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

【「『戦争責任』用語の発生史」考 】
 2005.9.29日付読売新聞の「検証・戦争責任」を参照する。

 歴史学者・林健太郎氏の著書「歴史からの警告」は、「戦争責任」について次のように記している。
 概要「『戦争責任』という用語は、第一次大戦後のドイツで発生した。それ故、ドイツ語で覚えた。大戦後のベルサイユ条約で、連合国及び協力国は、ドイツ及びその同盟国の侵略によって引き起こされた戦争の結果生じたあらゆる損害に対し、ドイツ及びその同盟国が責任を負うことを確認し、ドイツはそれを承認すると規定されており、これが始まりとなった」。
(私論.私見) れんだいこコメント

 留意すべきは、ここで問われたの戦争責任は、「戦争の結果生じた損害」に対して、敗戦国が戦勝国に対して負わされたものであり、相互に補填しあうものではないことである。だから、必要以上に道義的に説教される謂われは無かろう。当然、「戦争を行ったこと」に対するものではなかった。更に云えば、近代史史上の西欧列強による植民地主義的蛮行は一切咎められていないことも特徴である。してみれば、戦勝国プロパガンダイデオロギーとして「戦争責任論」が持ち出されていることになる。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

 1928年、第一次世界大戦後、非戦の思潮が生まれ、「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)が調印された。だが条約は、戦争は違法としたが、多くの国が自衛戦争を留保、条約違反への制裁もなかったため実効性に乏しかった。事実、第二次大戦が勃発してしまう。第二次世界大戦後、米国と連合国は、これ以上の戦争を阻むためとして、「戦争犯罪思想の確立と裁判による戦争犯罪人の処罰を案出した(戦争史研究家・児島襄、シンポジウム「人類は戦争を防げるか」)。これに基づき、ニュルンベルク裁判、極東国債軍事裁判が行われた。しかし、戦勝国側が事後法に基づき敗戦国を一方的に裁いた観が免れない。

【「戦争責任」に伴う諸議論考 】
 元内大臣秘書官長・松平康昌氏による例え話「お祭りの神輿(みこし)」(丸山真男氏の論文「日本支配層の戦争責任」)は、「戦前軍部の戦争指導責任」を次のように比喩している。
 「はじめはあるグループが神輿を担いでいたが、ある所まで行くと疲れ、降ろしてしまった。放り出してもおけず、新たに担ぐ者が出てきたが、ある所でまた神輿を降ろしてしまう。次から次へと担ぎ手が代わって、ついに神輿は谷底に落ちてしまう。が、責任を誰もとろうとしない」。

 「戦争指導責任」を廻っては、戦争遂行犯罪に対する責任だけでなく、不作為責任も論じられている。特に、政治的指導者の「結果責任」は重いとされている。戦争局面を廻る「開戦責任」、「敗戦責任」を問う議論もある。

【読売新聞の「検証・戦争責任」の指摘】
 2005.9.29日付読売新聞の「検証・戦争責任」の指摘に拠れば、大東亜戦争責任を廻る国内的対応の動きはあるにはあったようである。だがしかし内外の圧力で潰されたと云う。これを参照する。

 1945(昭和20).9月、東久邇首相は、連合国側の裁判の前に自主的裁判を行う決意があるとの声明案を決定した。「天皇の名に於いて処断するのは忍びない」と渋る昭和天皇から許可を得たが、GHQによって中止された。

 1946(昭和21).3月、幣原喜重郎首相は、前年11月に設置した「戦争調査会」の第一回総会で次のように述べている。
 「後世、国民を反省せしめ納得せしむるに、十分、力のあるものに致したい」。

 同調査会は、総裁・幣原。委員は、馬場恒吾(読売新聞社長)、大内兵衛(東大教授)、和辻哲郎(同)ら民間の学識者、斎藤隆夫(衆院議員)ら貴衆両院議員を含む20名が就いた。又、臨時委員として、各省庁の次官、旧陸海軍の幕僚ら18名が加わった。調査活動の活動期間は5年間とされた。

 幣原首相は、総会の席で、調査会の任務について、1・戦争敗北の原因及び実相を明らかにするため、政治、軍事、経済、思想、文化等あらゆる部門にわたり、徹底的な調査を行う。2・戦争犯罪者の責任を追及するような考えは持っていない、と説明。これに対し、委員からは「戦争責任」を問う意見も出た。

 調査会は、「政治、外交」、「軍事」、「財政、経済」、「思想、文化」、「科学技術」の5部会に分かれて、元駐米大使・野村吉三郎や元陸軍省軍事課長・岩畔豪雄(いわくろひでお)らからも聴取を進めた。

 同年7月、対日理事会の席上で、調査会の活動に批判が浴びせられた。ソ連代表が、「日本政府は、次の戦争には絶対負けないように戦争計画を準備しているのだ」と、即刻廃止するよう主張し、英連邦代表も同調した。調査会の事務局長官だった青木得三の回想によると、この後、対日理事会のアチソン議長(米国)側から、軍人出身者を外すよう示唆され、当時の吉田茂首相も同調した。幣原は、「軍人を皆抜いてしまってやれば、どんな調査や結果が出きるかね」と憤慨した、と云う。結局、調査会は、マッカーサーと吉田の相談の結果、9.30日、廃止された。


 論壇では、後に最高裁長官となる横田喜三郎らが戦争責任者の処罰などを主張したが、幅広い運動にはならなかった。

Re:れんだいこのカンテラ時評223 れんだいこ 2006/10/11
 【「2006.10月、与野党国会質疑の歴史認識論の貧困」考】

 2006.10月、安倍新政権の初国会質疑で、安倍首相の歴史認識が槍玉に上がり、「攻める野党、引く首相」の珍芸が披露された。れんだいこは思うところがあるので一言しておく。

 大東亜戦争の責任を問うなら、1・開戦責任、2・指導責任、3・敗戦責任の三種を議論せねばならない。これを議論することは重要であることに異存は無い。更に云うならこの時併せて、幕末維新から説き起こし、明治新政府の内外政策を検証し、大正政変を検証し、昭和の御世に於ける軍国ファシズム化の流れをも検証したい。その流れに大東亜戦争を見据えて「歴史認識」を議論したい。2006.10月の国会質疑はこれをよく為しえたのであろうか。

 れんだいこは実際にはテレビ中継も、新聞報道にも興味が無いので、遣り取りの実際は知らない。しかしながら大概の見当がついている。なぜなら、政界レベルでの議論は1970年代よりもなお後退しており、このところずっとワンパターンだからである。従って、れんだいこが最近のテレビ中継や新聞報道を確認しなくとも的を外さない。その、ワンパターンを俎上に乗せて検証してみようと思う。では、どういうワンパターン遣り取りなのか。

 それは、戦前の日本帝国主義の植民地政策に伴う当該国に於ける人的物的被害等々に対する歴史責任を問うものであり、それでしかない。この範囲のものを、旧社共がこれを強く問い、政府与党が旧社共ほどには問わないというものである。但し、田中政権下での日中国交回復交渉で、1・日本の侵略謝罪、2・A級戦犯責任論、3・賠償責任放棄が約定されて以来は、日中両国が取り決めたこの「歴史的合意」が雛形となり、これに拘束されてきている。

 この「日中歴史的合意」が反故にされつつあるのが目下の政治情勢であるが、旧社共がこのように見立てることは無い。なぜなら、「歴史的合意の雛形」を作った田中首相をロッキード事件で葬った際に最もはしゃいでお先棒を担いだのが旧社共であり、その「田中政権時の歴史的合意」を好評価するのは具合が悪いからであろう。この時以来、旧社共運動はますます捩れてしまい、以来迷走酩酊状態に有ると、れんだいこは見立てている。

 更に云えば、1970年代に出現した政府自民党内の主流派田中ー大平同盟こそ、日本の在地型社会主義政権であった可能性が強い。今でこそ市場性社会主義が理論創造されつつあるが、そうなると何のことは無い戦後日本こそ市場性社会主義実践の最優等生であったのではなかろうか。思えば、官民上げて国富に努め、内治優先諸政策に邁進し、世界史上未曾有の成功裡の発展を遂げてきたのではないのか。

 もとへ。では、良きにせよ悪しきにせよ「日中歴史的合意」はどのように変化しつつあるのか、これを確認する。1・日本の侵略謝罪については、これを強く認識するのか極力否定するのかに再び分岐しつつある。最新の動きとしては、侵略否定思想が生み出されつつある。しかし、ナチス問題となると別で、あれは別格本山というスタンスの者が多い。少数派としてナチスのホローコースト冤罪説が登場しつつある。あるいはナチス犯罪を極力薄めて理解しようとする動きが出始めている。代わりに、ネオ・シオニズム犯罪を見つめようとする動きが出始めている。

 2・A級戦犯責任論についても、これを強く認識するのか極力否定するのかに再び分岐しつつある。これに絡んでA級戦犯を合祀した靖国神社への政府閣僚の公式参拝の是非論が生まれつつある。特に、終戦記念日8.15日の小泉首相の公式参拝の是非が国内外を問わず注目を浴びた。これを積極的に後押しするのか極力否定するのか、という論争及び国家間対立が発生している。これは、「日中歴史的合意外」の新たな悶着であり、内政干渉論も絡まり複雑な駆け引きに転じている。

 3・賠償責任放棄については、国家的賠償は放棄されたが、個々の被害者の民事的損害賠償請求を強く認めるのか極力否定するのかを廻って係争が絶えない。強制労働、慰安婦問題、外国人原爆被害等々広範に争われている。

 もとへ。この状況下で、2006.10月、安倍新政権の初国会質疑で、安倍首相の歴史認識が問われた。旧社共の漫画性は次のことにある。彼らの論法を聞けば概ね、大東亜戦争をネオ・シオニズムの第二次世界大戦論理即ち「民主主義対ファシズムの戦いであった」とみなして、大東亜戦争をそういう西側論理で批判している。

 これによれば、大東亜戦争の1・開戦責任、2・指導責任、3・敗戦責任の全てが断罪されることになる。しかしながら、ネオ・シオニズムの第二次世界大戦論は戦勝国論理であり、彼らの世界支配戦略に基づいたプロパガンダでしかないとする視点は微塵もない。要するに尻馬に乗ってはしゃいでいるだけである。

 本来は、戦後憲法が指針せしめた「非武装・反戦平和・国際協調友好政策・財政健全」に立って、第二次世界大戦総体の批判へ向けた視点に立たねばならない。願うらくは、近現代史の好戦勢力を見据え、大東亜戦争が胚胎し捻じ曲げたとはいえ戦後それなりの成果をもたらした植民地解放の意義を称揚せねばならない。

 この観点に立たない大東亜戦争論は無意味であるにも拘らず、旧社共のそれは、単に戦前軍部を罵詈雑言することばかりに傾斜し過ぎている。あの戦争が「民主主義対ファシズムの戦いであった」などとは噴飯もののネオ・シオニスト・イデオロギーに依拠して政府批判するものだから、底が浅いものになるのは致し方ない。

 傑作なのは、小泉前首相は、何しろ日本の現役首相としてユダヤ帽被って「嘆きの壁詣で」するほどユダヤべったりであったから、そういう意味では「あれは民主主義対ファシズムの戦いであった」、「A級戦犯の罪は重い」と述べ、歴史認識に於いて旧社共と奇妙に一致していたことである。

 ただ、8.15日の首相としての靖国神社公的参拝を強行せんとしたことにより、この点のみが見解の不一致となり政争となったという訳である。実に、小泉前首相は愉快犯お騒がせ資質の珍妙な首相であった。そこが受けるという政治貧困現象が生み出されていた。れんだいこに云わせれば、首相も取り巻きもマスコミもまさに狂気の時代を脚色した。

 ところで、安倍政権は、小泉政権の嫡出児として生み出された。当然、小泉政権時の変態史観を継承するはずであるが、安倍首相には小泉前首相のような愉快犯お騒がせ資質は無い。そのイデオロギーはこれまでのところ、戦前の皇国史観を継承しているかに見える。これに、勝共連合の統一原理史観が被さっているように見える。皇国史観と統一原理史観が不恰好に並存しているのが安倍史観であろう。

 故に、質疑されれば、どちらで答えるのかというジレンマに陥ることになる。しかし、これに正面から答えるとなると痛しかゆしとなる。即ち、大東亜戦争の聖戦を称えればネオ・シオニズムの歴史認識テキストと齟齬せざるを得ない、統一原理史観で答えれば皇国史観を自ら否定することになるというジレンマに陥らざるを得ない。

 よって、「万事宜しく逃げる答弁」にならざるを得なかった。よって、いくら押し問答しても結局は、「攻める質疑」と「逃げる答弁」のやじろべえにならざるを得ない。どちらが勝ったのかは、攻める方の観点が観点だから疑問である。

 結論。歴史認識というのは、かなり難しいものである。野党のように、何やらこれが正しいする護符を持って相手の史観を批判し得るようなやわなものではない。当然、政治家はその上に立って政治をするもので、求められれば開陳するのが筋であり政治である。これから逃げるのは、口で云うのと反対の政治をするからに他ならない。安倍政権の危険な体質はここに宿されている。そういう意味で、安倍政権の場合、これまで述べた言辞のあれこれ突くより、今現にやっていること、これからやることを凝視するのが良い。

 2006.10.11日 れんだいこ拝




(私論.私見)