42812 | 戦争責任論、歴史認識論考 |
(最新見直し2005.9.29日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
「阿修羅政治版9」に2005.5.14日付投稿「まるでナチはドイツ人ではなかったかのように話して、何でもナチのせいにした 町村外相」が投稿されている。原文は、「小林恭子の英国メディア・ウオッチ ドイツから日本を見た記事 過去と向き合う態度」のようである。 これに対して、木村愛二氏が、2005.5.14日付投稿「ドイツ人はシオニスト・ユダヤ人に締め上げられたので日本人とはまったく事情が違う」で次のようなコメントをしている。
れんだいこも同感で、さすがに木村兄は、適確ピシャリと言を為すと感心している。れんだいこも又、小林恭子なる者の立論に逐条コメントしてみたいと思う。案外重要な観点の差が認められるように思われるから。 2005.5.14日 れんだいこ拝 |
【過去と向き合う態度 】 | ||||||||||||||||||||||||||||||
以下、「小林恭子の英国メディア・ウオッチ ドイツから日本を見た記事 過去と向き合う態度」の論点を検証する。
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【「『戦争責任』用語の発生史」考 】 | ||
2005.9.29日付読売新聞の「検証・戦争責任」を参照する。 歴史学者・林健太郎氏の著書「歴史からの警告」は、「戦争責任」について次のように記している。
1928年、第一次世界大戦後、非戦の思潮が生まれ、「戦争放棄に関する条約」(不戦条約)が調印された。だが条約は、戦争は違法としたが、多くの国が自衛戦争を留保、条約違反への制裁もなかったため実効性に乏しかった。事実、第二次大戦が勃発してしまう。第二次世界大戦後、米国と連合国は、これ以上の戦争を阻むためとして、「戦争犯罪思想の確立と裁判による戦争犯罪人の処罰を案出した(戦争史研究家・児島襄、シンポジウム「人類は戦争を防げるか」)。これに基づき、ニュルンベルク裁判、極東国債軍事裁判が行われた。しかし、戦勝国側が事後法に基づき敗戦国を一方的に裁いた観が免れない。 |
【「戦争責任」に伴う諸議論考 】 | |
元内大臣秘書官長・松平康昌氏による例え話「お祭りの神輿(みこし)」(丸山真男氏の論文「日本支配層の戦争責任」)は、「戦前軍部の戦争指導責任」を次のように比喩している。
「戦争指導責任」を廻っては、戦争遂行犯罪に対する責任だけでなく、不作為責任も論じられている。特に、政治的指導者の「結果責任」は重いとされている。戦争局面を廻る「開戦責任」、「敗戦責任」を問う議論もある。 |
【読売新聞の「検証・戦争責任」の指摘】 | |
2005.9.29日付読売新聞の「検証・戦争責任」の指摘に拠れば、大東亜戦争責任を廻る国内的対応の動きはあるにはあったようである。だがしかし内外の圧力で潰されたと云う。これを参照する。 1945(昭和20).9月、東久邇首相は、連合国側の裁判の前に自主的裁判を行う決意があるとの声明案を決定した。「天皇の名に於いて処断するのは忍びない」と渋る昭和天皇から許可を得たが、GHQによって中止された。 1946(昭和21).3月、幣原喜重郎首相は、前年11月に設置した「戦争調査会」の第一回総会で次のように述べている。
同調査会は、総裁・幣原。委員は、馬場恒吾(読売新聞社長)、大内兵衛(東大教授)、和辻哲郎(同)ら民間の学識者、斎藤隆夫(衆院議員)ら貴衆両院議員を含む20名が就いた。又、臨時委員として、各省庁の次官、旧陸海軍の幕僚ら18名が加わった。調査活動の活動期間は5年間とされた。 幣原首相は、総会の席で、調査会の任務について、1・戦争敗北の原因及び実相を明らかにするため、政治、軍事、経済、思想、文化等あらゆる部門にわたり、徹底的な調査を行う。2・戦争犯罪者の責任を追及するような考えは持っていない、と説明。これに対し、委員からは「戦争責任」を問う意見も出た。 調査会は、「政治、外交」、「軍事」、「財政、経済」、「思想、文化」、「科学技術」の5部会に分かれて、元駐米大使・野村吉三郎や元陸軍省軍事課長・岩畔豪雄(いわくろひでお)らからも聴取を進めた。 同年7月、対日理事会の席上で、調査会の活動に批判が浴びせられた。ソ連代表が、「日本政府は、次の戦争には絶対負けないように戦争計画を準備しているのだ」と、即刻廃止するよう主張し、英連邦代表も同調した。調査会の事務局長官だった青木得三の回想によると、この後、対日理事会のアチソン議長(米国)側から、軍人出身者を外すよう示唆され、当時の吉田茂首相も同調した。幣原は、「軍人を皆抜いてしまってやれば、どんな調査や結果が出きるかね」と憤慨した、と云う。結局、調査会は、マッカーサーと吉田の相談の結果、9.30日、廃止された。 論壇では、後に最高裁長官となる横田喜三郎らが戦争責任者の処罰などを主張したが、幅広い運動にはならなかった。 |
Re:れんだいこのカンテラ時評223 | れんだいこ | 2006/10/11 |
【「2006.10月、与野党国会質疑の歴史認識論の貧困」考】 2006.10月、安倍新政権の初国会質疑で、安倍首相の歴史認識が槍玉に上がり、「攻める野党、引く首相」の珍芸が披露された。れんだいこは思うところがあるので一言しておく。 大東亜戦争の責任を問うなら、1・開戦責任、2・指導責任、3・敗戦責任の三種を議論せねばならない。これを議論することは重要であることに異存は無い。更に云うならこの時併せて、幕末維新から説き起こし、明治新政府の内外政策を検証し、大正政変を検証し、昭和の御世に於ける軍国ファシズム化の流れをも検証したい。その流れに大東亜戦争を見据えて「歴史認識」を議論したい。2006.10月の国会質疑はこれをよく為しえたのであろうか。 れんだいこは実際にはテレビ中継も、新聞報道にも興味が無いので、遣り取りの実際は知らない。しかしながら大概の見当がついている。なぜなら、政界レベルでの議論は1970年代よりもなお後退しており、このところずっとワンパターンだからである。従って、れんだいこが最近のテレビ中継や新聞報道を確認しなくとも的を外さない。その、ワンパターンを俎上に乗せて検証してみようと思う。では、どういうワンパターン遣り取りなのか。 それは、戦前の日本帝国主義の植民地政策に伴う当該国に於ける人的物的被害等々に対する歴史責任を問うものであり、それでしかない。この範囲のものを、旧社共がこれを強く問い、政府与党が旧社共ほどには問わないというものである。但し、田中政権下での日中国交回復交渉で、1・日本の侵略謝罪、2・A級戦犯責任論、3・賠償責任放棄が約定されて以来は、日中両国が取り決めたこの「歴史的合意」が雛形となり、これに拘束されてきている。 この「日中歴史的合意」が反故にされつつあるのが目下の政治情勢であるが、旧社共がこのように見立てることは無い。なぜなら、「歴史的合意の雛形」を作った田中首相をロッキード事件で葬った際に最もはしゃいでお先棒を担いだのが旧社共であり、その「田中政権時の歴史的合意」を好評価するのは具合が悪いからであろう。この時以来、旧社共運動はますます捩れてしまい、以来迷走酩酊状態に有ると、れんだいこは見立てている。 更に云えば、1970年代に出現した政府自民党内の主流派田中ー大平同盟こそ、日本の在地型社会主義政権であった可能性が強い。今でこそ市場性社会主義が理論創造されつつあるが、そうなると何のことは無い戦後日本こそ市場性社会主義実践の最優等生であったのではなかろうか。思えば、官民上げて国富に努め、内治優先諸政策に邁進し、世界史上未曾有の成功裡の発展を遂げてきたのではないのか。 もとへ。では、良きにせよ悪しきにせよ「日中歴史的合意」はどのように変化しつつあるのか、これを確認する。1・日本の侵略謝罪については、これを強く認識するのか極力否定するのかに再び分岐しつつある。最新の動きとしては、侵略否定思想が生み出されつつある。しかし、ナチス問題となると別で、あれは別格本山というスタンスの者が多い。少数派としてナチスのホローコースト冤罪説が登場しつつある。あるいはナチス犯罪を極力薄めて理解しようとする動きが出始めている。代わりに、ネオ・シオニズム犯罪を見つめようとする動きが出始めている。 2・A級戦犯責任論についても、これを強く認識するのか極力否定するのかに再び分岐しつつある。これに絡んでA級戦犯を合祀した靖国神社への政府閣僚の公式参拝の是非論が生まれつつある。特に、終戦記念日8.15日の小泉首相の公式参拝の是非が国内外を問わず注目を浴びた。これを積極的に後押しするのか極力否定するのか、という論争及び国家間対立が発生している。これは、「日中歴史的合意外」の新たな悶着であり、内政干渉論も絡まり複雑な駆け引きに転じている。 3・賠償責任放棄については、国家的賠償は放棄されたが、個々の被害者の民事的損害賠償請求を強く認めるのか極力否定するのかを廻って係争が絶えない。強制労働、慰安婦問題、外国人原爆被害等々広範に争われている。 もとへ。この状況下で、2006.10月、安倍新政権の初国会質疑で、安倍首相の歴史認識が問われた。旧社共の漫画性は次のことにある。彼らの論法を聞けば概ね、大東亜戦争をネオ・シオニズムの第二次世界大戦論理即ち「民主主義対ファシズムの戦いであった」とみなして、大東亜戦争をそういう西側論理で批判している。 これによれば、大東亜戦争の1・開戦責任、2・指導責任、3・敗戦責任の全てが断罪されることになる。しかしながら、ネオ・シオニズムの第二次世界大戦論は戦勝国論理であり、彼らの世界支配戦略に基づいたプロパガンダでしかないとする視点は微塵もない。要するに尻馬に乗ってはしゃいでいるだけである。 本来は、戦後憲法が指針せしめた「非武装・反戦平和・国際協調友好政策・財政健全」に立って、第二次世界大戦総体の批判へ向けた視点に立たねばならない。願うらくは、近現代史の好戦勢力を見据え、大東亜戦争が胚胎し捻じ曲げたとはいえ戦後それなりの成果をもたらした植民地解放の意義を称揚せねばならない。 この観点に立たない大東亜戦争論は無意味であるにも拘らず、旧社共のそれは、単に戦前軍部を罵詈雑言することばかりに傾斜し過ぎている。あの戦争が「民主主義対ファシズムの戦いであった」などとは噴飯もののネオ・シオニスト・イデオロギーに依拠して政府批判するものだから、底が浅いものになるのは致し方ない。 傑作なのは、小泉前首相は、何しろ日本の現役首相としてユダヤ帽被って「嘆きの壁詣で」するほどユダヤべったりであったから、そういう意味では「あれは民主主義対ファシズムの戦いであった」、「A級戦犯の罪は重い」と述べ、歴史認識に於いて旧社共と奇妙に一致していたことである。 ただ、8.15日の首相としての靖国神社公的参拝を強行せんとしたことにより、この点のみが見解の不一致となり政争となったという訳である。実に、小泉前首相は愉快犯お騒がせ資質の珍妙な首相であった。そこが受けるという政治貧困現象が生み出されていた。れんだいこに云わせれば、首相も取り巻きもマスコミもまさに狂気の時代を脚色した。 ところで、安倍政権は、小泉政権の嫡出児として生み出された。当然、小泉政権時の変態史観を継承するはずであるが、安倍首相には小泉前首相のような愉快犯お騒がせ資質は無い。そのイデオロギーはこれまでのところ、戦前の皇国史観を継承しているかに見える。これに、勝共連合の統一原理史観が被さっているように見える。皇国史観と統一原理史観が不恰好に並存しているのが安倍史観であろう。 故に、質疑されれば、どちらで答えるのかというジレンマに陥ることになる。しかし、これに正面から答えるとなると痛しかゆしとなる。即ち、大東亜戦争の聖戦を称えればネオ・シオニズムの歴史認識テキストと齟齬せざるを得ない、統一原理史観で答えれば皇国史観を自ら否定することになるというジレンマに陥らざるを得ない。 よって、「万事宜しく逃げる答弁」にならざるを得なかった。よって、いくら押し問答しても結局は、「攻める質疑」と「逃げる答弁」のやじろべえにならざるを得ない。どちらが勝ったのかは、攻める方の観点が観点だから疑問である。 結論。歴史認識というのは、かなり難しいものである。野党のように、何やらこれが正しいする護符を持って相手の史観を批判し得るようなやわなものではない。当然、政治家はその上に立って政治をするもので、求められれば開陳するのが筋であり政治である。これから逃げるのは、口で云うのと反対の政治をするからに他ならない。安倍政権の危険な体質はここに宿されている。そういう意味で、安倍政権の場合、これまで述べた言辞のあれこれ突くより、今現にやっていること、これからやることを凝視するのが良い。 2006.10.11日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)