4289823 | 靖国神社の祭神(英霊の御霊)について |
(最新見直し2005.10.22日)
Re:れんだいこのカンテラ時評その115 | れんだいこ | 2005/10/20 | |
【「靖国神社の祭神が兵士英霊であることについて」】 靖国神社では、兵士英霊の御霊を祭神としている。こういう例は極めて珍しいのではなかろうか。れんだいこは、数々の神社を思いめぐらせているが見当たらない。これにより真実、兵士英霊の御霊が慰霊されるのならそれも方法かも知れない。事実、靖国神社派は次のように述べている。
しかし、この方法に拠って更に英霊の御霊が増やされていく仕掛けにされていたとしたら、それは多いに問題であろう。国が靖国されるばかりで兵士英霊が慰霊されないのなら、靖国神社の社是の原理原則からしておかしかろう。史実は、日本人民大衆は、靖国思想をも含む天皇制軍国主義的日帝イデオロギーにより戦地に狩り出され、屍を晒していくことになった。ここに靖国問題の本質的課題がある。 靖国問題はこう問いかけるべきではなかろうか。しかるに史実は、特に左派運動は、英霊の御霊を祀ること自体に対する批判運動をしてきたのではなかろうか。それを強く言えば云うほど左派的であるかのように欺瞞してきたのではないのか。それは多いに間違いであると、今になってれんだいこは思う。これでは戦没者遺族は二重に且つ両面から凌辱されていることになろう。 かっての国策戦争に殉じた英霊の御霊は、それはそれで慰霊されるべきではないのか。かっての戦争の要因も複合的に捉えねばならない。この観点を封殺するために、大東亜戦争を極力悪し様に描き、南京大虐殺事件を煽り、百人斬り事件を誇大させ、戦犯を極悪犯人視させる歴史観を生み出しているのではなかろうか。仮に、個々の事例でそうであっても、歴史的位相は又別の物差しで計らねばならないのではなかろうか。A級戦犯論も本来は、生易しい問題ではない。 日共の最高指導者・不破は、最新の著作「私の戦後60年」で、かっての戦争を「連合国民主主義軍対ファシズム枢軸国軍」の闘いに描き、ファシズム枢軸国軍として闘った戦前日本を落し込めれば込めるほど左派的という観点を披瀝している。 何を馬鹿な、と思うのはれんだいこだけだろうか。あの戦争は、旧制帝国主義対新制帝国主義の利権と覇権を廻る帝国主義間戦争であり、「民主主義対ファシズムの闘い」である訳が無い。不破の観点は、今日になっては明らかなネオ・シオニズムの歴史観そのものの請け売りでしかないのではないのか。正統を任じる共産党の指導者が採る歴史観ではあるまいに。 れんだいこは、我々が慣らされてきた歴史観そのものの再検証を要求したい。あまりに馬鹿げた歴史観が「左」から鼓吹され続けている。左ではないのに「左」からというところがミソではあるが。それは何の役にも立たないばかりかむしろ有害無益ではなかろうか。 2005.10.20日 れんだいこ拝 |
【靖国神社の祭神(人柱)について】 |
我が国は、戊辰戦争より以来、西南戦争、日清戦争、台湾出兵、義和団事変、日ロ戦争、第一次大戦、シベリア干渉戦争、山東出兵、満洲事変、大東亜戦争へと戦争の歴史を重ねていったが、その度ごとに戦没軍人が英霊として祀られていくことになった。祀られる者の基準は、軍人・軍属か、その要請で戦争に参加した人であり、これを軍が認定し、天皇の裁定で祀られるという手法となっている。 日清戦争では日本軍の戦死者・戦病死者は1万4千人に及んだ。明治天皇は、戦死者を合祀する臨時大祭に、二度にわたって参拝した。この後、合祀の臨時大祭には、大元帥(だいげんすい)の軍装に身を固めた天皇が靖国神社に行き、社殿に昇って祭神に一礼する「親拝」が通例となった。 続く日露戦争では、日本軍の戦死者・戦病死者は9万人に及んだ。社会主義者の幸徳秋水やキリスト者の内村鑑三らは非戦論を展開し、人民の間にも厭戦(えんせん)気分が広がった。政府は、戦意を高め、遺族の不満を抑え込むために、靖国神社で盛大な合祀の臨時大祭を行った。 第一次世界大戦では、公然と中国大陸に軍靴を進めていくことになった。そのイデオロギーとして、現人神(あらひとがみ)である天皇が指針する「聖戦」だと宣伝され、これに抵抗する諸国人民は、「聖戦」に逆らう「内外の荒振寇等(あらぶるあらども)」つまり賊徒と見なされた。逆に皇軍兵士は、天皇のために死んだという一点で祭神として崇(あが)められることが約束されていた。 靖国神社の祭神を「英霊」と呼ぶことも、この頃から一般化した。「英霊」は天皇に忠誠を尽くして死んだ霊の美称となった。国民は、「天皇に忠義を尽くし、靖国神社に神として祭られることこそが『臣民』の名誉であると教え込まれていった。こうして靖国神社は、軍靴の足音と共に、天皇崇拝と帝国主義的民族主義・排外主義・国家主義を普及させる上で、絶大な役割を発揮していった。 1931年に日帝が15年戦争に突入すると靖国神社と全国の神社は、労働者人民を総動員するために一層重んじられていった。各道府県にあった招魂社は護国神社と改められ、市町村レベルでは忠魂碑・忠魂塔が建立された。そして忠魂祭、慰霊祭がさかんに行われ、忠君愛国教育として、子どもたちの参拝が行われた。 このように靖国神社−護国神社−忠魂碑・忠魂塔という「靖国」のネットワークが全国にくまなく張り巡らされた。それが戦死者の慰霊だけではなく、兵士の壮行、戦勝と兵士の武運長久の祈願、日本軍の勝利の祝勝行事などの儀式の場となり、労働者人民を戦争に駆り立てていった。 学校では、死んでもラッパを放さなかったという木口小平のラッパ美談や「水平の母」(老いたる母の願いはひとつ。軍に行かば、体をいとえ。弾丸に死すとも、病に死すな)、肉弾三勇士などの軍国美談が鼓舞された。靖国神社についても修身の教科書で子どもたちに徹底的に教えられた。最後には「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」が兵士にたたき込まれ、「死んで靖国神社で会おう」と、天皇と国のために死ぬことこそが天皇の軍隊の兵士の名誉だとされ、「玉砕」や「特攻隊」が強要されていった。 |
【靖国神社の祭神(人柱)分類】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在靖国に祀られている英霊たちは、総数246万6532人(柱)で(2004.10.17日現在)、次のように分類することが出来る。
靖国神社の特徴は、アメリカのアーリントン墓地には遺体が埋葬されているのに比して、そうした墳墓ではなく、戦歿者の御霊が祀られているという違いがある。
2004.8.14日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)