428988 日共の靖国神社批判について

 日共なぞ左翼でも何でもなかろうが、一応さもらしく述べているので、関連資料として次の記事をサイトアップしておく。

 2004.8.14日再編集 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評その56 れんだいこ 2005/06/17
 【日共の靖国神社批判について 】
  daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._left.htm

 「小泉首相の靖国神社参拝」を廻って議論が為されているようで空回りしている。宮顕ー不破系日共の靖国神社論を検討してみるのに、表面的な左派的言辞を取り除けば、その中身は粗雑である。これを検証する。

 日共は、靖国神社について次のように規定している。
 意訳概要「靖国神社は、軍国主義と侵略戦争推進の精神的支柱であり、内務省所管の一般の神社とは違い、陸・海軍省所管で、。文字通り別格の、『天皇のための名誉の戦死』をとげた人々を『英霊』としてまつる軍事的宗教施設であった」。

 この規定は、日本左派運動の本家としてそれなりのものであるように思える。しかし、実は問題が隠されている。靖国神社が日帝の精神的支柱であり、軍事的宗教施設であった云々は事実認定であるからして異論は無かろうが、要は中身である。「軍国主義と侵略戦争論」がそれに当たるが、この認識に於いて、日共は共産党とは思えぬ独特の観点を披瀝しているからして割り引かねばならない。

 2005.5.13日け赤旗掲載の「日本外交のゆきづまりをどう打開するか 戦争終結60周年・アジア諸国との最近の関係をめぐって 時局報告会 不破哲三議長の講演」(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-05-13/25_01_0.html)に拠れば、宮顕ー不破系日共党中央の歴史観による第二次世界大戦とは、次のようなものである。

 意訳概要「第二次世界大戦に於ける日独伊枢軸同盟は、いかなる大義もない侵略戦争―不正不義の犯罪的戦争だった。先の戦争に於ける日本軍の蛮行は、『現に行われているイラク戦争にくらべても、不正不義の度合いがケタ違いにひどい』。日本とドイツの侵略戦争を断罪し、このような戦争を二度と引き起こさない世界をめざすことが戦後の世界政治の共通の原点となったおり、日独伊のファシズム・軍国主義の侵略陣営とたたかった反ファッショ連合国の聖戦の意義を再確認せねばならない」。
 
 不破は、いつもヌルヌル述べはっきり云わないが、れんだいこが要約すれば上述のようになる。不破演説のこの観点が特段に問題にされていないので、これが現下日共党中央の第二次世界大戦観として受け取れば良かろう。以下、れんだいこが、これを批判する。

 諸君! 第二次世界大戦をこれほど連合国側に立って弁論するのは異常ではなかろうか。かの戦争は、旧帝国主義派の連合国側と新帝国主義派の日独伊枢軸同盟側との世界再分割戦争であった、と看做すのが左派見識ではなかろうか。不破にはこの観点は微塵もない。あるのは、連合国側=反ファッショ=正義、日独伊枢軸同盟側=ファッショ=不正義という漫画的な善悪論による断罪史観である。これは余りにも子供だましの論理であり馬鹿げていないか。

 更に許せないことに、「先の戦争に於ける日本軍の蛮行は、『現に行われているイラク戦争にくらべても、不正不義の度合いがケタ違いにひどい」の一節である。不破は、日本軍の蛮行を際立たせるために敢えてこのように述べているのであろうが、断じて許せない。現在進行中の米英ユ同盟によるイラク戦争の残虐非道さよりも、かっての日本軍の蛮行の方が「不正不義の度合いがケタ違いにひどい」とは。

 この見解は、目下進行中の米英ユ同盟によるイラク蹂躙を余りにも免罪せしめていよう。これが、永らく日共の最高指導者として君臨してきた不破の見解だと。不破にはイラク人民の声は聞こえないらしい。米英ユ同盟軍の「ファールジャでの蛮行」は目に入らぬらしい。れんだいこに云わせれば、目下の米英ユ軍の残虐非道さこそ最新兵器を交えたものであるだけに、国際法蹂躙の質に於いても史上最大のものとして糾弾せねばならぬというのに、これを逆に描くとは。

 一体、不破のオツムの中はどうなっていいるのだろう。それを咎めない左派運動のオツムの中はどうなっているのだろう。この発言が問題にならないとすればその方が問題であろうに。

 このような発言を不問している日共党内の「民主集中制」とは何ものぞ。要するに「民主集中制」とは、党中央の言説を学習するばかりの上から下への機関主義の代名詞であって、党中央見解批判が許されない集中制でしかないシステムであるということだろう。そういう次第で、不破は言いたい放題でこれまで来れたし、これから先もボケるまで云いたい放題するのだろう。

 このような歴史観に立っているものだから、A級戦犯は、その悪逆非道戦争を指揮した最高司令官ということになるようである。次のように規定している。

 意訳概要「A級戦犯は、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で、侵略戦争を計画・実行したとして『平和に対する罪』で裁かれました。太平洋戦争を始めた東条英機元首相ら25名に有罪判決が下り絞首刑されましたが、当然の措置です。

 そもそも、日本が無条件降伏して受け入れたポツダム宣言は、『一切ノ戦争犯罪人』にたいし『厳重ナル処罰』を加えることを明記しております。サンフランシスコ条約でも、日本は、東京裁判をはじめ連合国戦争犯罪法廷の『裁判を受諾し、刑を執行する』ことを受け入れました」。
 
 日共ははっきり云わないが、れんだいこ理解に拠れば上述のように云っている。この「A級戦犯論」も本来の左派的見解ではない。A級戦犯に限って云えば、誰の眼にも、勝者側が都合の良い理屈で敗者側を裁いたのが国際軍事法廷であり、その結果生み出されたのが「A・B・C級戦犯」であろうに。

 れんだいこに云わせれば、「A・B・C級戦犯問題」には、指導者か否かという識別以上の意味は無い。戦争で負けたことにより責任を問われ、スケープゴートにされただけのことではないか。それをどうしても悪玉のチャンピオンとして描き出す日共流歴史観の心理には何が影響しているのだろうか。

 本来なら、左派は、特殊日本的には天皇制軍国主義批判に向うものであり、世界的には世界の再分割戦争批判に向うべきであろう。歴史は善悪道徳では測れないのに、何故善悪道徳基準で裁こうとするのだろう。理屈は後から貨車でやって来る、とは有名な言葉ではないか。

 宮顕ー不破系日共党中央は、A級戦犯そのように規定しているものだから、「A級戦犯の靖国神社合祀」は心情的にも許し難いものになるようである。「A級戦犯を祀った靖国神社を首相が参拝することは、侵略戦争を肯定することになる」として、首相の靖国神社公式参拝を批判している。

 今現在で云えば、「小泉首相は、憲法違反という判決がすでに確定しているのに、なぜ公式参拝にこだわるのか」と難詰することになる。その挙句に、次のように云う。「どうしても行くなら国立の千鳥が淵戦没者墓苑へ行け」。なぜなら、「国立の千鳥が淵戦没者墓苑は特定の宗教には関係のない施設であるから」。例によって、お気に入りの最高裁判決を持ち出し、「さきの最高裁判決でも、戦没者の慰霊自体は、特定の宗教とかかわりを持った形でなくても行うことができるとのべているからしてそうすべきだ」と云う。

 日共ははっきり云わないが、れんだいこ理解に拠れば上述のように述べている。しかし、これもオカシナ話だ。本来なら、小泉首相の「戦没者追悼」名目での靖国神社参拝は、次の点から批判されねばならない。

 第一に、何故8.15日に拘るのかの批判に目を向けるべきである。それは余りにも侵略された側の神経を逆撫でしよう。8.15日には大東亜戦争史的総括の国家的行事があっても良さそうなのに。

 第二に、小泉首相は、「戦没者追悼」と云いながら新たな参戦を仕掛けている。しかも英霊が闘った相手の配下軍として派遣している。その理屈の非をこそ衝くべきではないのか。「国立の千鳥が淵戦没者墓苑へ行け」などは、お門違いの話だろう。

 不破は、先の講演で、「なぜ靖国なのか。今日の靖国問題には、互いに深くかかわりあった二つの側面があります。一つは、戦没者追悼に名を借りた侵略戦争の美化。歴史教科書問題と軌を一にした歴史の偽造です」と述べている。

 これもオカシナ話である。自衛隊のイラクへの武装派兵、米英ユ軍の手下の同盟軍としての派遣との絡みでこそ「小泉首相の靖国神社参拝問題」を論うのなら分かる。その目下喫急の問題と結びつけず、かっての侵略戦争の美化である云々とはこれ如何に。

 不破の手に掛かると、一事万事がこういう味気ない調子のものになってしまう。それと、不破が、「歴史の偽造批判」をするのはおこがましい。お前は、党史を偽造し抜いているではないか。何なら、党史全編にわたってれんだいこと突き合せて議論してみようか。幾らでも暴いてしんぜよう。

 なお、蛇足しておくと、日共は、「靖国神社の遊就館批判」を好んでいる。その論拠は、靖国神社の遊就館はかっての戦争を聖戦化し、歴史責任を正当化しようとしているからだと云う。意訳概要「日本の総理大臣の行為によって、『靖国神社式歴史観』に市民権を与えることは、絶対にあってはならないことです」と云う。

 れんだいこが思うに、「日本の首相の行為が『靖国神社式歴史観』に市民権を与える」ことを批判するのなら正しい。しかし、「『靖国神社式歴史観』に市民権を与えること自体」を批判するのなら正しくない。なぜなら、教科書問題も然りだが、右派が右派系教科書作って採択運動起こすなり、遊就館で聖戦イデオロギーをプロパガンダするのは基本的に自由であろうから。

 気に入らないのなら、左派も又負けずとばかりに左派系教科書作って採択運動起こせば良い。「人民の日本史」でも作って太古から現代まで記述したものを作成し普及を目指せばよい。遊就館イデオロギーに対抗するのにどこかにそれなりの反戦平和館あるいは人民大衆闘争館なり作って反戦平和、抵抗革命イデオロギーをプロパガンダすれば良い。そういう正々堂々とした運動こそ望まれているのではないのか。

 そういうことをしなくてケチ付け批判ばかりでお茶を濁している。原水禁運動の分裂固定化、憲法記念日のオザナリ集会を改め、年々盛大化させれば良いのに。なぜそれをしないで、保守反動派、米英ユ配下売国派の動きにのみ過敏なふりをするのだろう。それはあらかじめ負ける戦ではないのか。だから、世の中が右へ右へとたなびいているのではないのか。

 不破は、「日本外交のゆきづまりをどう打開するか」などと云う前に、「日本左派運動のゆきづまりをどう打開するか」と問いかけてみるべきだろう。俺のようにやればこうなると胸をふさいで見せるのがよかろう。

 2005.6.17日 れんだいこ拝

 当會會員より日本共産党への質問メールとその回答
 
以下は、靖国参拝問題で中心課題となる「政教分離」「A級戦犯合祀」について、平成13年7月、当會會員が日本共産党に向けて書いた質問メールと、それに対する共産党側の回答文である。回答の署名には、「日本共産党中央委員会質問回答係」とあった。公明党・社会民主党にも同様の質問メールを送付したが、回答は得られなかった。日本共産党中央委員会質問回答係の誠意ある対処にまず御礼申し上げたい。

(鐵扇會會員)
 さて、このところ、小泉首相の靖国参拝が日本国内だけではなく、アジア周辺の国々からも非難されています。しかし、先日、靖国神社のホームページを見たときに、「千鳥ヶ淵は無縁様の供養の場所であり、戦没者全体を意味するところではない」との表示がありました。私はいままで千鳥ヶ淵は戦災犠牲者を含む戦没者が眠っているところとの知識しかなく、また、御党も、同様のことを言っていたと思います。もし、よろしければ、御党の靖国と千鳥ヶ淵への考え方をお聞かせ願えませんでしょうか?(特に、御党の靖国と千鳥ヶ淵への考え方の違いや、俗に言う政教分離についてなどです)。よろしく御願いいたします。

(日本共産党中央委員会)
 メール拝見しました。靖国神社は、戦前、国家と宗教が結合した国家神道の体制下、陸軍省と海軍省が共同で管理(1887年以後)する軍事的宗教施設でした。「天皇のため名誉の戦死」をしたものを祭神(「英霊」)としてまつり、国民に「九段の桜花と散る」ことを誓わせ、軍国主義と侵略戦争推進の精神的支柱の役割を果たしました。

 この戦前の歴史の反省の上にたって、政教分離の原則をうたった日本国憲法がつくられました。憲法第20条は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」「国及びその機関は…いかなる宗教的活動もしてはならない」と明記しています。

 靖国神社は戦後、都知事認証の私的な宗教法人となりました。神社という宗教施設であることには変わりがありません。同神社は、1978年、侵略戦争推進の責任者のA級戦犯が合祀(ごうし=一緒にまつられる)されるなど、軍国主義と侵略戦争を美化し、憲法の恒久平和の精神に反する実態となっています。欧米のマスコミは、同神社を「戦争神社」(ウオー・シュライン)と特徴づけています。日本を「戦争する国」に変えようとする勢力は、戦死者が出た場合に備え、靖国神社への首相の公式参拝、さらに同神社の国営化をねらっています。

 靖国神社という特定の宗教施設に、国民を代表する首相という「公的機関」が「参拝」という「宗教的活動」をおこなうことは、国による一宗教団体の特別扱いにほかならず、政教分離の原則を定めた憲法に反します。司法でも「天皇や首相の公式参拝は違憲」という岩手靖国訴訟仙台高裁判決(91年確定)をはじめ、福岡高裁(92年)や大阪高裁(同年)でも、公式参拝は違憲とされました。靖国神社への玉ぐし料公費支出を違憲とする愛媛玉ぐし料訴訟最高裁判決(97年)もあります。

 もちろん、国民のみなさんが七五三や初詣などで近くのお宮さんに参拝するのは政教分離の原則とまったく関係がありませんし、民間の「私人」が靖国神社に参拝することも自由です。


 千鳥ケ淵墓苑は、名前の特定できない戦没者の遺骨を納める国立の無宗教の墓苑です。戦後、政府と民間団体が海外各地で収集した戦没者遺骨のうち引き取り手のない遺骨は、厚生省が保管していました。無名の遺骨は増え続け、収納施設が必要になりました。

 靖国神社側は、同神社と関係のない納骨施設ができると神社の衰退につながるとして反対しましたが、59年3月、無宗教の千鳥ケ淵戦没者墓苑ができました。現在、墓苑は、環境省が管理し、諸外国の「無名戦士の墓」(メモリアル・パーク=共同墓地)と同様の性格です。

 なお、“戦没者全員が眠っているわけではない”ということでいえば、靖国神社も同様です。「神」になることができたのは「天皇の軍隊」に従ったものだけでした。同神社にだれを祭るかは軍が決めて、天皇の裁可をあおいでいたのです。

 以上でお答えとします。ご理解をお願いします。日本共産党中央委員会 質問回答係

【ル・モンド紙のフィリップ・ポンス記者の靖国神社規定】
 2001.8.14日付け仏国の有力紙ル・モンド紙のフィリップ・ポンス記者による小泉首相の靖国参拝記事。「日本、軍国主義の過去へ回帰 」 の見出しで次のように記している。 
 「日本遺族会の意向を斟酌し、政治家的配慮から決行された今回の参拝。靖国神社は、宗教的なものと政治的なものがない交ぜになった帝国の礼拝所であり、軍国主義のあまたの犯罪と残虐の原因となったファナティズムの基盤であった」。

 「冷戦というチェス盤で、日本が合衆国の歩駒になってから、忘れられてしまった。そして、アメリカ占領軍は、この忘却を促進した。天皇を審判なしに免責し、戦犯裁判を手っ取り早く片づけ、罪障をうやむやにし、1950年代になると、政治や行政の要路に右翼を復職させることさえし、さらには、その研究成果を入手するために、細菌戦の人体実験を行った「731部隊」の罪過にすら目をつむったのである。

 『赤化』するアジアのなかで、日本は『善玉』であり、ホロコーストの場合にように、その戦争犯罪に向き合うことはなく、連合国側も、ドイツの場合とは違って、みずからの良心を検証するような状況に置くような圧力を日本にかけるようなことはなかった。日本当局は、もっぱら原子爆弾の犠牲者であるという、良心を安んじる立場に安住していた。ここ十年来、日本政府は、過去の侵略について率直に悔悟の念を表明するようになったが、その厳かな宣言も、たちまち歴史修正主義のメディアの上げ潮に窒息させられ、日本は再び健忘症に陥っていると見なされるようになってしまった」。




(私論.私見)