42881 陸軍考

参謀本部は、天皇の持つ統帥大権を補佐する陸軍中央統括機関で、陸軍の最高作戦指導機関であった。参謀総長は、閑院宮戴仁(かんいんのみやことひと)親王元帥で、次長は今井清中将。今井が病気欠勤中のため、参謀本部第一作戦部長・石原莞爾少将が次長を代行して任に当たっていた。

 ろ溝橋事件をきっかけに陸軍中央は、不拡大派と拡大派の深刻な対立が生じ、後者が前者を駆逐して次第に作戦の主導権を握っていった。

 不拡大派の参謀本部第一作戦部長・石原莞爾少将は、「満州国建設の完成に専念すべし」として、「事件不拡大、現地解決」方針。これに対し、

同作戦課長・武藤章大佐は、その部下の立場であり、通例ならば上官の決定に従うところであったが、そうした態度を取らず、石原部長に強硬に対抗した。「願っても無い好機の到来」であり、概要「支那は、日本が強い態度を示せば直ちに屈従する」として、「事件拡大、一挙解決」方針。この二人の部長室での遣り取りが伝えられている。「激論が交わされ、大声で怒鳴りあい、遂には石原が『君が辞めるか、私が辞めるかどっちかだ』と吐き捨てる声が聞こえることもあった」。


不拡大派
参謀本部第一作戦部長・石原莞爾少将
参謀本部第一部戦争指導課長・河辺虎四郎大佐

拡大派
同作戦課長・武藤章大佐(東京裁判で絞首刑になる)

運輸の第三部長・塚田攻少将
戦史の第四部長・下村定少将めるめる他()運輸


 「結局、石原が拡大派に押し切られ、参謀本部は内地3個師団の華北派遣と支那駐屯軍の武力行使を指示、せっかくろ溝橋事件の現地停戦協定が成立したにも関らず、『北支事変』は一挙に華北に拡大した」。36年頃の話として、石原作戦部長が、関東軍の勝手な行動を難詰すると、その時関東軍参謀の武藤大佐が次のように応えたと伝えられている。「我々は満州事変の時のあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」と答え、「そういうや否や、他の青年参謀どもが口を合わせてロ共笑した」。






(私論.私見)