42874 | 日本軍の戦闘行為、戦闘能力考 |
(最新見直し2007.4.1日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこは、本稿で、今まで誰もしてこなかったであろう観点から「日本軍の戦闘能力考」をものしてみようと思う。どこが異色かというと、戦後左派運動が批判するばかりで永らく見失ってきた「日本軍の戦闘能力」を見直し、その優秀性を露見させ、更にこれを、「捻じ曲げられた革命運動能力の愁嘆場」として評価し直そう、という点にある。この観点は、れんだいこが知らないだけで既にどなたかが為されているのかも知れない。しかし、れんだいこが知らないということは、大衆的に認知されていないことを意味する。つまり、れんだいこの仕事として突きつけられていることになる。 れんだいこは、「戦後左派運動が批判するばかりで永らく見失ってきた」と書き記した。実にそうだ。戦後左派運動は、旧権力の産軍独裁体制を批判するばかりで、その下士官たる軍隊に対しても同様のまなざしを向け、その残虐行為をプロパガンダすることのみに意味を見出してきた。しかし、それは、歴史眼としては愚昧な片手落ち手法でしか無かろう。そういう暗愚な者に啓蒙され指導された左派運動は、その暗愚ゆえに実践的に役立たない、大衆の心を捉えない。いつの頃からか分からないが、れんだいこはそういう事に気づいた。 れんだいこは、大東亜戦争に散った兵士を加害者としてのみ位置付けず、その殉死を「捻じ曲げられた革命運動能力の愁嘆場」という観点から意義付け直してみたい。彼らの哀しみを理解し、その遺志を継承したい。この観点こそが歴史の連続性というものでは無かろうか。「歴史の連続性が失われると正気が失われる」と云われる。そう、我々は、「正気を喪失した左派運動」に参集したゆえに、挙句の果てに不毛な荒野に捨てられたのでは無かったか。しかるに、現下の流れは、未だこの洗脳が解けていないばかりかむしろ更に袋小路にのめりつつあるやにさえ思われる。 れんだいこは、袋小路に追い詰められ自死しつつある左派運動の変態性を露見させて見たい。自負的に述べれば、れんだいこがこの逆立ちを質したい。戦没遺族が納得し得るような評価を与え、無駄な軋轢を排したい。むしろ、その遺志を継いでいる日本新左派運動の思いを画然とさせることで手向けしたい。課題に正面に向えば、こういうれんだいこの観点こそが自然に導き出される。そうならなかったのは、半身構えの自称インテリたちの指導の悪さゆえであろう。あるいは究極能力が狭いのかも知れない。もっとはっきり云えば「厚顔のウソツキ理論」提灯士ばかりが跋扈してきたせいだろう。 2003.12.26日 れんだいこ拝 |
【「英霊」考】 | |
上記のような思いを確定させたのは、「殉國之碑」氏のサイトのトップページに「くにのため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな 時うつれども」とあり、「はじめに」には次のように書かれている。
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(私論.私見)