42871 | 軍律について |
(最新見直し2007.3.7日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、日本軍の軍律と綱紀について検証する。「半月城」氏その他の論考を参照する。 |
【軍人勅諭】 |
1882(明治15)年、「軍人勅諭」が発布された。山県の発案で、西周(にしあまね)が起草し、自ら訂正し、ジャーナリストの福地源一郎により平易な文体に改めた。 冒頭、「我が国の軍隊は世世天皇の統率したまうところにぞある」と記し、更に「兵馬の大権は朕が統(す)ぶるところなれば、その大綱は朕親(みすか)らこれをとり、あえて臣下に委ぬべきものにあらず」と述べ、天皇集中制を明らかにしている。更に、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ。汝らを股肱と頼み、汝らは朕を頭首と仰ぎてぞ、その親しみととくに深かるべき」と宣べ、天皇の私兵観を打ち出している。これは、ドイツ帝国憲法の「ドイツ帝国の軍平は平時戦時を問わずすべて皇帝の指揮に属し純一の陸軍足るべし」条文を範例にしていた。 1、軍人は忠節を尽くすを本文とすべし。1、軍人は礼儀を正しくすべし。1、軍人は信義を重んずべし。1、軍人は質素を旨とすべし。 「軍人勅諭」は、日本軍隊の精神的バックボーンとなり、教育勅語と並ぶ国民教育の基本書となった。同年、軍制改革の一つとして軍事警察を司る憲兵制度が陸軍兵科の一つとして設置された。 |
【「義和団事件」の際に見せた日本軍の規律】 | |
これが最初に注目されたのは、「義和団事件」の際に北京に進駐した日本軍の規律であった。軍規の厳しさと秩序の良さは列強諸国の中でも「折り紙付き」であった。柴五郎中佐の指揮する日本軍は、北京市民から「大日本順民」と書いた布や紙で歓迎されるほどであった。参謀本部の「明治33年清国事変史」には次のように記されている。
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当初このように評価されていた日本軍の規律はその後、軍の独走兆候と共に次第に軍紀を弛緩させていくことになる。1928.6月に起こった河本大作大佐による張作霖爆殺事件と、その後の処理を検証する。これを、高級参謀である河本大佐など関東軍の一部軍人による
暴走と見るか、あるいは関東軍全体の謀略であったと見るのか意見の分かれる ところではある。当時、事件の真相は軍の強い反対で公表されず、そのうえ河本大佐も予備役になった後も固く口を閉ざしてしまったので、真相は長い間極秘のまま封印
されることになった。
やはりこの事件は対日感情をさらに悪化させ、小川平吉鉄相のいうように 「有害無益の結果」に終わったようでした。同じ帝国主義侵略者でもイギリスの場合は、中国の民族運動が燃えさかると漢口、九江租界を返還するなど譲歩の姿勢をとり排英運動を鎮めようとしたが、日本は抑圧一辺倒だったようである。こうした民心を無視した硬直した政策が後日、南京大虐殺などの一因になったのではないかと思われる。一方、事件の処理では田中義一内閣は断固たる処罰をとれず自滅したが、このように軍人をしっかり抑えきれなかった政治が軍部を増長、暴走させ「満州事変」など不幸な日中15年戦争を招く一因になったのではな いかと思われる。 |
組織内暴力、下に厳しく上に大甘。トップ・エリートの軍人官僚には適用除外。アメリカでは、対極的な「ソルジャーズ・ファイト」という慣行がある。 日本軍のなかの頽廃日本の軍隊の内部は、例えば野間宏の『真空地帯』に描かれたように、天皇=上官の命令には絶対服従、苛酷で恣意的な懲罰など、抑圧構造が兵士たちを圧迫していた。このような抑圧構造の最下層にあった兵士たちが、その憤懣をより弱い者、無力な捕虜や一般市民に向けることになったと推定される。 南京大虐殺事件の原因や背景について |
1941(昭和16)年、陸軍大臣東条英機の名で将兵向けの戦陣訓が出された。その第8は、『生きて虜 囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ』は有名で、全将兵に死を強制する役割を果した。 これにより、戦死者は英雄だが、捕虜になることは最大の屈辱という価値観の形成が促された。それゆえ、生きて捕虜になった場合、「非国民」と非難された。「戦陣訓の歌」、捕虜第1号。 |
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(私論.私見)