42871 軍律について

 (最新見直し2007.3.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、日本軍の軍律と綱紀について検証する。「半月城」氏その他の論考を参照する。


軍人勅諭
 1882(明治15)年、「軍人勅諭」が発布された。山県の発案で、西周(にしあまね)が起草し、自ら訂正し、ジャーナリストの福地源一郎により平易な文体に改めた。

 冒頭、「我が国の軍隊は世世天皇の統率したまうところにぞある」と記し、更に「兵馬の大権は朕が統(す)ぶるところなれば、その大綱は朕親(みすか)らこれをとり、あえて臣下に委ぬべきものにあらず」と述べ、天皇集中制を明らかにしている。更に、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ。汝らを股肱と頼み、汝らは朕を頭首と仰ぎてぞ、その親しみととくに深かるべき」と宣べ、天皇の私兵観を打ち出している。これは、ドイツ帝国憲法の「ドイツ帝国の軍平は平時戦時を問わずすべて皇帝の指揮に属し純一の陸軍足るべし」条文を範例にしていた。

 1、軍人は忠節を尽くすを本文とすべし。1、軍人は礼儀を正しくすべし。1、軍人は信義を重んずべし。1、軍人は質素を旨とすべし。

 「軍人勅諭」は、日本軍隊の精神的バックボーンとなり、教育勅語と並ぶ国民教育の基本書となった。同年、軍制改革の一つとして軍事警察を司る憲兵制度が陸軍兵科の一つとして設置された。

【「義和団事件」の際に見せた日本軍の規律】

 これが最初に注目されたのは、「義和団事件」の際に北京に進駐した日本軍の規律であった。軍規の厳しさと秩序の良さは列強諸国の中でも「折り紙付き」であった。柴五郎中佐の指揮する日本軍は、北京市民から「大日本順民」と書いた布や紙で歓迎されるほどであった。参謀本部の「明治33年清国事変史」には次のように記されている。

 「他国の軍の占領区域は荒涼、寂莫たるに関わらず、ひとり我が占領区域内は人心安堵し、ところどころに市場開設し、売買日に盛んに至れり」。

 当初このように評価されていた日本軍の規律はその後、軍の独走兆候と共に次第に軍紀を弛緩させていくことになる。1928.6月に起こった河本大作大佐による張作霖爆殺事件と、その後の処理を検証する。これを、高級参謀である河本大佐など関東軍の一部軍人による 暴走と見るか、あるいは関東軍全体の謀略であったと見るのか意見の分かれる ところではある。当時、事件の真相は軍の強い反対で公表されず、そのうえ河本大佐も予備役になった後も固く口を閉ざしてしまったので、真相は長い間極秘のまま封印 されることになった。

 事件後、河本大佐の秘密を守る努力はたいへんなもので、 うわ言で真相を漏らすのを恐れ、盲腸の手術で麻酔すら拒んだほどであったと伝えられている。そのため真相は不明であるが、これほどの大事件を大佐あたりが独断でやっ たというのは前代未聞で、ちょっと考えにくいところである。このような受けとめ方は事件当時から強く、元老の西園寺などは事件の報をうけとると「どうも 怪しいぞ、人には言えぬが、どうも日本の陸軍あたりが元凶ぢやあるまいか」 と疑いをもっていたと伝えられている。  

 これをある程度裏づけるような証言を、河本大佐本人がしていたことが読売新聞社により明らかにされた。最近、同社は河本大佐が中国に捕らえられたときの供述書を公表した。それによると、河本高級参謀は、「(事件は)関東軍が全責任を負うべきであり、私には主たる責任がある」、「だれを首謀者に仕立てるかで関東軍司令官がひどく悩んでいたので、私が責任をかぶると自分から申し出た」と、爆殺は 関東軍の総意であることを中国当局者に供述した。もっとも河本大佐の証言は、自分の罪を軽くするために責任転嫁をしている可能性もあり、本当にどこまで信用できるのか不明ではあるが、関東軍主導説は信憑性が高いのではないかと思われる。 

 当時の状況をふりかえると、田中首相は張作霖を利用し満州での利権を拡大しようとしたのに対し、関東軍は日本の意のままにならない張作霖を排除し、 満州を日本の強力な影響下におこうとして対立していた。そのため関東軍は、蒋介石の北伐に追われた張作霖が奉天に入ることに強 く反対し、侵入阻止のための出動命令を首を長くして待っていた。しかし その命令は出されなかったので、関東軍は政府方針に逆らって凶行に及んだのではないかと推定されている。

 そうした関東軍の動向は、参謀長の斉藤が記した日記からある程度明らかになっている。斉藤の日記は、閣議決定を受けた5月20日と思われる村岡軍司令官の訓示「満蒙の治安維持に害あると認めるものは直ちに武装解除し、若しこれに応 ぜざるものは断固その侵入を阻止し、殊に南軍は絶対に其侵入を阻止する」で 書き始まり、張作霖軍をも阻止して満州を中国本土から切り離し、日本の強い 影響下に置こうとする考えを示している。斉藤等関東軍は、「あれ(張作霖、半月城注)を生かして置けば仕事がで きると云う考へがある様だ」と田中首相の考えを批判し、「要するに司令官の考えは可なるも、首相が不決断なることが結局虻蜂(あぶはち)取らずとなるならん 噫(ああ)!」と憤っている。結局武装解除を実行する「奉勅命令」 は出されず、張の奉天到着の日を迎えている。

 こうしてみると、張作霖の奉天到着阻止が不可能になった時点で、関東軍 は邪魔者は殺すという短絡的な方針を決定したのではないかと思われる。こう した単純な発想は、事件が引き起こす国際的影響などを無視しがちで、結果は 思わぬ方向に走りがちである。その誤算について横浜市立大学の遠山茂樹名誉教 授はこう記している。

 「張作霖の下野ないしは抹殺をめざした軍部の動きには、大きな誤算があった。張が日本の要求をなかなか容れなかったのは、張の意志によるよりも、む しろその背後にある民族運動につきあげられたものであったからである。しかも張の爆殺の背景には日本軍閥があるのではないかという疑惑は、中国をはじめ世界にただちにひろまった。満州における対日感情はさらに悪化していった。ただ日本国民だけが報道を統制されてつんぼさじきにおかれていた」。

 やはりこの事件は対日感情をさらに悪化させ、小川平吉鉄相のいうように 「有害無益の結果」に終わったようでした。同じ帝国主義侵略者でもイギリスの場合は、中国の民族運動が燃えさかると漢口、九江租界を返還するなど譲歩の姿勢をとり排英運動を鎮めようとしたが、日本は抑圧一辺倒だったようである。こうした民心を無視した硬直した政策が後日、南京大虐殺などの一因になったのではないかと思われる。一方、事件の処理では田中義一内閣は断固たる処罰をとれず自滅したが、このように軍人をしっかり抑えきれなかった政治が軍部を増長、暴走させ「満州事変」など不幸な日中15年戦争を招く一因になったのではな いかと思われる。


 組織内暴力、下に厳しく上に大甘。トップ・エリートの軍人官僚には適用除外。アメリカでは、対極的な「ソルジャーズ・ファイト」という慣行がある。

 軍人の最高規範は「軍人勅諭」。「戦陣訓」は、時の陸軍大臣東条英機中将が勝手に公布したもの。

日本軍のなかの頽廃

 日本の軍隊の内部は、例えば野間宏の『真空地帯』に描かれたように、天皇=上官の命令には絶対服従、苛酷で恣意的な懲罰など、抑圧構造が兵士たちを圧迫していた。このような抑圧構造の最下層にあった兵士たちが、その憤懣をより弱い者、無力な捕虜や一般市民に向けることになったと推定される。



 南京大虐殺事件の原因や背景について

 ○現地軍の暴走  

 日本軍変貌の第一は「満州事変」を契機に、軍内に中央の統制にさからう 「下剋上」の雰囲気が生まれたことです。32年、関東軍の石原莞爾らは軍中央の方針にそむき、中国東北地方で戦火を勝手に拡大した。この下剋上は罰せられるどころか、この暴走が成果をおさめるや逆に殊勲賞が与え られ、彼らは中央の要職に栄転した。

 それとうらはらに、彼らを抑えて中央による統制維持に努めた人たちは逆に中央の要職を追われるしまつであった。このような組織の秩序を無視した論功行賞がその後の日本軍の気風を左右した。すなわち、軍人は戦果を挙げ結果さえ良ければ暴走はすべて許されるという統制軽視の風潮が軍にはびこることになった。 その弊害について、「満州事変」当時、参謀本部作戦課長で関東軍の独走 に手を焼いた経験をもつ今村均は、その回顧録で次のように述べている。 「満州事変というものが、陸軍の中央部参謀将校と外地の軍幕僚多数の思想に不良な感作を及ぼし、爾後(じご)大きく軍紀を紊(みだ)すようにしたことは争えない事実である。これとても、現地の人々がそうしたというよりは、 時の陸軍中央当局の人事上の過失に起因したものと、私は感じている。板垣、石原両氏の行動は、君国百年のためと信じた純心に発したものではある。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた。 にもかかわらず、新たに中央首脳者になった人々は満州事変は、成功裏に 収め得たとし、両官を東京に招き、最大の讃辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後、これを中央の要職に栄転させると同時に、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた諸官を、一人のこらず中央から出してしまった。

 これを眼の前に見た中央三官衙や各軍の幕僚たちは「上の者の統制などに服することは、第二義のもののようだ。軍人の第一義は大功を収めることにある。功さえたてれば、どんな下剋上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、それらを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってかわって統制者になり得るものだ」というような気分を感ぜしめられた。又、上級責任者たる将官の中にも、幾らかは「若い者の据えたお膳はだまって箸をつけるべきだ。下手に参謀の手綱をひかえようとすれば、たいていは 評判をわるくし、己の位置を失うことになる」と思うような人を生じさせ、軍統率の本質上悪影響を及ぼした。 (今村均『私記・一軍人60年の哀歓』扶養書房、1971)

  このように下剋上が助長される軍隊であってみれば、出先の軍隊は功名心から時には中央の意図に逆らい、きっかけさえあれば戦火をどんどん広げがちとなる。こうように統制がきかず、軍紀の弛緩した軍隊はとかく暴走しがちで、 侵略戦争は止めどなく拡大してしまうものである。南京攻略もそのいい例であった。 それについて、現代史研究会の大杉一雄代表はこう記している。 「 南京への道   この間、上海攻略後の日本軍は中国軍退却のあとを追って、南京に向かった戦線を拡大していったが、このとき軍中央は南京占領という明確な計画をもっていたわけではなかった。むしろ作戦の実質的責任者多田駿参謀次長は石原 (莞爾)系の不拡大論者で、最後まで占領には反対であったのである。しかし 中支那方面軍最高司令官として赴任する松井石根大将は、見送りに来た杉山陸 相に対し、南京攻撃を訴えていたという(近衛文麿『失はれし政治』朝日新聞社)。
 
 ここでも現地軍が独走し、中央がそれを黙過し最終的には追認するという、 満州事変以来繰り返されてきた陸軍の典型的パターンの再現を防ぐことはできなかった。下村作戦部長によれば杭州湾上陸、白茆口上陸以外の作戦は現地の企画、出先の意見によるものであったという。(回想応答録『現代史資料』)。

 あの南京事件という大不祥事も、このような軍部全体の恐るべき綱紀の弛緩というなかで起きたものといえよう。なぜ日本軍はこのように統制のとれない集団になってしまったのであろう か。柳川平助中将の指揮する第十軍が、11月5日、杭州湾に上陸したとき、 上海戦線の大勢はすでに決しており、中国軍は南京方面に敗走しつつあった。 したがって第十軍は目標をそちらに定め、それを追撃したいという心理になったのである。ここにやはり満州事変以来の「石原現象」を認めざるを得な い。すなわち下剋上が是認されるような風潮のもとでは、第一線に出征した軍人としては、中央の方針に従うよりは、とにかく行動して勲功を立てたいとい う誘惑には勝てないのである。参謀本部もついに南京攻略を認めざるを得なく なった。

 また当時の雰囲気としては、政府は敵国首府の占領により戦意を喪失させ、 有利な条件で講和ができると考え、国民も単純な勝利感に酔うようになっていたのである。敵国の首府を攻撃するに際しては、単に軍事的な観点のみならず、政治的な配慮も必要であり、いわゆる政戦略の一致が要求される。まして中国は面子を重んじる国である。しかも第三国に調停を依頼しているときである。南京占領と和平問題との連携は考えられて当然であった。しかしこのころ軍部は勝手に戦線を拡大し、その報告を受けない近衛や文民閣僚はジリジリ、イライラしているだけであった。まさに国務・統帥の乖離という戦前の日本のもつ致命的な欠陥に直面していたといえる。  

 近衛首相は軍から戦線拡大の報告すら受けることができなかったというのはなさけない話です。政治体制に致命的な構造的欠陥があったのは確かなよう です。一方、現地軍隊は中央のあまい統制を軽視し、中央が指示した制令線な どを次々に無視し、独善的な判断により戦線を急速に拡大していっ。 そのような暴走に対し、これに懲罰を与えるどころか逆に追認した軍中央は、その戦線を支えるために必然的に兵の大量動員を必要とした。そのため常備兵だけでは不足をきたし、予備兵や後備兵、さらには補充兵などを大量にかり出すようになった。

 彼ら、特に後備兵はだいたい30歳代で、妻子を持ち一家の大黒柱である場合が多いのですが、それが予期しないときに突然赤紙で召集されるものですから、とても戦争に没頭できるものではありません。規律や戦闘意欲が十分ではなく、志気や軍紀は「満州事変」当時の日本軍とは比べるべくもなかった。

 この召集兵こそ軍紀退廃の原因であるという見方が軍中央にさえあっ た。陸軍省軍務局軍事課長・田中新一大佐は、「軍紀粛正問題」と題してこう 所見を書いている。 「軍紀退廃の根源は、召集兵にある。高年次召集者にある。召集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、 掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである・・・補給の定滞(停滞)から 第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる」 (田中新一『田中新一』/ 支那事変記録、其の三)。  

 高年次召集兵もさることながら、問題は小隊長や中隊長などの現役初級幹部にもあった。このような陸軍現役将校の補充は基本的に陸軍士官学校卒業生からなされたが、軍縮や諸般の事情で士官学校学生を減員した影響がこのころになって出始め、これら将校が極端に不足した。そこでやむなく知識や経験の浅い予備役将校が急きょ当てられたが、 統率力に欠けており、軍紀のたるみに拍車をかけたようでした。しかし、たとえこのように高年兵と予備役将校とのコンビでも、戦争目的 が祖国防衛などといった誰もが納得するような大義名分なら、気を引き締めて 戦うのでしょうが、そのころの対中国戦は宣戦布告はおろか「戦争」の名前す らつけられず、出先軍に引きずられた行き当たりばったりの泥沼戦でした。  

 そもそも、近衛内閣が37年に発表した戦争目的の声明は「支那軍の暴戻 (ぼうれい)を鷹徴(ようちょう)し、以て南京政府の反省を促す為」とする ものでした。「悪者の支那」をこらしめるため戦うという、たとえてみれば、 おとぎ話に出てくる「桃太郎の鬼退治」もどきの大義名分でした。このような「支那鷹徴」論の背景には、軍拡大派を中心とする打算的な意見や、それに引きずられた政府の存在を見落とすことはできません。「近衛は結局、軍部拡大派の『戦いそのものは好まぬところだが、とにかく 国防国家をつくるにも、産業拡大をやるにも、今のままでは政府も国民も容易について来ん、それだから戦いでも始まって--現実に戦いでもあれば国民もしかたなくついて来る、それがためにこの戦いをやったら良いじゃないか』とい う思惑に沿って、国民を戦時体制に総動員していく国家指導者の役割 を演じたのである」。「国民も仕方なしについてくる」、そのために戦争を始める、このように理 念のひとかけらもない侵略戦争を仕掛けられたのでは、相手国はたまったものではない。こうした中国に対する傍若無人ぶりのうらには、軍事大国・ 日本が「支那に一撃」を加えれば中国は簡単に折れるだろうという読みがあった。ここに日本の誤算があった。中国人の抗 日意識や抗日戦線の強い抵抗をみくびっていた。

 誤算はさらに続きました。日本は首都の南京さえ落とせば戦争はほぼ終わ るだろうとみていたようでした。そのあまい考えも手伝って、上海派遣軍と第 十軍は先陣争いをしながら南京に進撃しました。その際、兵站補給問題は二の 次で食糧の補給を軽視したため、必然的に徴発という名の略奪を日常茶飯事に 繰り返し、それをきっかけに次第に道徳的に堕ちていきました。

 しかし、政府や軍だけを責めるのは酷かもしれません。侵略戦争に積極的に荷担した当時のマスコミなども検証が必要ではないかと思います。

○マスコミの対応

 当時、マスコミや日本国民は南京占領を待望し、陥落を熱狂的に迎えまし た。新聞の見出しでは、活字が歓喜に踊っていました。「はやる歓喜!、大祝賀の催促!、神速の皇軍・紫金山占領の快報をうけて 早くも銀座に戦勝飾」 (読売新聞、37.12.8)、「踊出した提燈(ちょうちん)行列 、昨夜・雨の帝都の賑ひ(にぎわい)、 ”陥落公表”を待ち祝賀の大行進、畫夜・歓喜の坩堝(るつぼ)へ」(朝日新聞、37.12.11)、「百万人の旗行列 」(東京)「府市が公電着次第催し種々 」(読売新聞、37.12.12) 。これら新聞をみると、日本中が南京攻略に沸き立っていたようで、侵略戦争に疑問をはさむ記事はほとんど見当たらない。それどころか報道は過熱し、なかには「人殺し競争」をあおる新聞まで登場した。毎日新聞の 前身で三大紙のひとつである東京日日新聞は、ある殺人ゲームをこう伝えまし た。「百人斬り競争!」 (37.11.30)、「両少尉早くも80人、”百人斬り”大接戦、勇壮!向井、野田両少尉」 (37.12.6) 、「勇壮な」向井、野田両少尉は、軍刀を前にして写真入りで大きく紹介された。

 しかし、この記事はそれほどには注目されなかったのかもしれません。 その印象を作家の安岡章太郎氏は次のように記している。「昭和12年12月13日から、翌13年1月末まで、6週間のうちに日本 兵は中国人を15万5千人以上を殺し、5千人以上の女性に暴行をはたらいた うえに、市民の財貨を掠奪し、街を焼き払ったということは、戦後になるまで、 日本人のほとんどが知らなかったことだ。しかし、いまになって思うのだが、もしこれをあの当時、日本の新聞やラジオでこのとおりに報道されていたとしても、果たして僕らはそれを信じる気になったかどうか、僕には自身がない。 たしかに僕らは、南京虐殺事件というものについては知らされていなかったし、細かい数字や何かは無論、全然知らなかった。しかし、15万5千人と いうような数字を聞かされても、それだけでは何も驚かなかったのではないか。すくなくとも、それだけの数の死体が街に転がっているということがどう いうことなのか、自分の眼でそれを見てみるまで、何のことだか見当もつかな かったに違いない。--要するに、チャンコロが死んでいる。ただそう思っただけだったかもしれないのだ。だいいち僕自身は、その頃、日本人の将校が二人で中国人の「百人斬り競 争」をやったという新聞記事が出ていたことを、全然憶えていないのである。『百人斬り、”超記録” 向井、百六 -- 野田、百五 両少尉さらに延長戦』  こういう記事が、昭和12年12月13日づけの東京日日新聞にでていた というのだが、僕はそんなものをまったく見過ごしてしまっていた。僕の家では、新聞は朝日と日日とをとっていたが、日本の将校がシナ人の首をいくつ切 ろうが、そんなことには少しも興味が持てなかったからであろう。この僕の無関心は当時の新聞に軍部の検閲が加えられていたということと は直接関係のないことだ 」。  


 1941(昭和16)年、陸軍大臣東条英機の名で将兵向けの戦陣訓が出された。その第8は、『生きて虜 囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ』は有名で、全将兵に死を強制する役割を果した。

 これにより、戦死者は英雄だが、
捕虜になることは最大の屈辱という価値観の形成が促された。それゆえ、生きて捕虜になった場合、「非国民」と非難された「戦陣訓の歌」、捕虜第1号
 それ戦陣は、大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御陵威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば、戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。

 惟うに、軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜りたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘並びに練習等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、ともすれば眼前の事象に捉われて大本を逸し、人の本分に戻る如きことはなしとせず。深く慎まざるべけんや。すなわち、既往の経験に鑑み、常に戦陣に於いて勅諭の完璧を期せんが為、具体的行動の準拠を示し、以って皇軍道義の昂揚を図らんとす。これ戦陣訓の本旨とする所なり。

本 訓  其の1
第1 皇  国
 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光
被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり

 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。
第2 皇  軍

 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。常に大御心を奉じ、正にして武、武に
して仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々た
る武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。

 仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は
驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御綾威を仰がしむるに在り。

第3 皇  紀

 皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、
上は大意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなき
は、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。

 特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として
献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

第4 団  結

 軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥(アツ)き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず
。

 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、鞏固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし。

 上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟
なかるべからず。

第5 協  同

 諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。

 各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざ
るべからず。

第6 攻撃精神

  凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。

 攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動
の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。

 勇往邁進百事懼れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

第7 必勝の信念

 信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。

 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。

 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべから
ず。

本 訓 其の2

第1 敬  神

   神霊上に在りて照覧し給ふ。

 心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

第2 孝  道

   忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。

  戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。

第3 敬礼挙措

 敬礼は至純の服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。

 礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。

第4 戦 友 道

 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分
を完うするに在り。

第5 率先躬行

 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざけば下必ず紊る。

 戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。

第6 責  任

 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期す
べし。

  責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

第7 生 死 観

   死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。

  生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

第8 名を惜しむ

 
 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の
汚名を残すこと勿れ。

第9 質実剛健

 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる士気を振起すべし。

 
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。

第10 清廉潔白

   清廉潔白は、武人気質の由つて立つ所なり。己に克つこと能はずして物慾に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。

 身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。

本 訓 其の3

第1 戦陣の戒

 1 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警めざるべからず。敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭
ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。
      
 2 軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
      
 3 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。哨
兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
      
 4 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇
道の宣布に勉むべし。
      
 5 流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
      
 6 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
      
 7 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
      
 8 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず
。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
      
 9 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。

   軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙か
に思を父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。


第2 戦陣の嗜
      
1 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。「毎事退屈する勿れ」とは古き武の言葉にも見えたり。
      
2 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。屍を戦野に曝すは固より軍人の
覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。
      
3 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。

4 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹を愛護せよ。
      
5 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。「立つ鳥跡を濁さず」と言へり
。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
      
6 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が
誠の足らざるを思ふべし。
      
7 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。
      
8 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。国際の儀礼亦軽んずべからず。
      
9 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具(ツブサ)に思を護国の英霊に致し、言行 を慎みて国民の範となり、愈
々奉公の覚悟を固くすべし。

      
 以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざ
るべからず。
      
 戦陣の将兵、須く此趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。
                                                        (陸軍省、昭和16年1月)

      


参考文献

  1. 作戦要務令 −現代企業に生かす軍隊組織軍隊内務令戦陣訓:日本文芸社 (1962.10)
  2. 戦陣訓読本―斉藤瀏/編:三省堂 (1941.3)
  3. 独逸戦陣訓―ハンス・エレンベック/[]//木暮浪夫/訳:肇書房 (1942.1)
  4. ビジネスに活かす古典の知恵−知っておきたい心の戦陣訓:藤田公道/著日本文芸社 (1986.11)


陸軍刑法(1908年制定)
第9章掠奪の罪
第86条戦地または帝国軍の占領地において住民の財物を掠奪したる者は、一年以上の有期懲役に処す。前項の罪を犯すにあたり、婦女を強姦したるときは、無期または七年以上の懲役に処す。


「戦功をたてし将兵に対し余りに迎合的態度」




(私論.私見)







(私論.私見)