339―5 | 戦争倫理考 |
2003.8.19日毎日新聞のマイ・オピニオン欄に加藤尚武鳥取環境大学学長の「戦争倫理学」が紹介されていた。興味深いのでこれを要点整理しながら私見を添える。 「戦争倫理学」とは皮肉なネーミングであるが、案外こういうところの考察も大事かも知れぬ。 「戦争倫理」とは、戦争のルール学とでも云えるもので、「戦争目的規制」と「戦闘経過規制」の二つから考察される。「戦争目的規制」とは、どんな条件なら開戦が許されるのかというものである。「戦闘経過規制」とは、捕虜の虐待や非戦闘員の殺傷を禁止するといったルールのことを云う。 「戦争目的規制」について。第二次世界大戦を経て冷戦時代となったが、この頃は米ソ両大国を陣営とする体制間拮抗で容易には戦争を起こすことが出来なかった。武力行使を正当化するぎりぎりの基準として自衛目的というものが要求されており、いわゆる正当防衛論に依拠せずんば国際世論の支持を取り付けることが出来なかった。 ソ連邦及び東欧圏の解体による米国の一極型支配の確立つまり冷戦体制の崩壊は強大な軍事力を持つ米国のユニラテラリズム(単独行動主義)を生み出し、。歴史的に蓄積されてきた戦争発動の際の抑制を外した観がある。「9.11同時多発テロ」以降、米国は先制攻撃に乗り出しており、誰もどの国も国連もこれを掣肘できない。ウサマ・ビンラディン引渡し要求を廻ってのアフガニスタンのタリバン政権批判、それに続くアフガニスタン攻撃、大量破壊兵器の存在を口実とするイラクのフセイン政権批判、それに続くイラク攻撃等々は、自衛目的論から大きく逸脱している。公然たる世界の憲兵論でこれらを遂行した。 国際法では報復戦争は認められていない。なぜなら、その種の論理を認めると歯止めが利かなくなるからである。先制攻撃論もその一種であるからしてこれを認めないという原則を確立する必要がある。現在、国連以外に軍事行動を正当化できる機関は無いが、国連は米国のこれらの行為に追随している。アナン事務総長は、「国連決議の無い戦争は許されない」との断固たる態度を示すべきであるが、強い国に対しては機能していない。 99年のユーゴスラビア空爆は、人権侵害を理由に開始された。「人道的介入主義」の場合どう対処すべきか、これにつき理論が生み出されていない。しかしながら少なくとも、どういう条件なら軍事介入が認められるのかこれをはっきりさせるべきだ。国連の手続きを経て、近隣諸国の同意が為される場合にはじめて認めるというルールを確立すれば良い、というのが加藤氏の見解のようである。 「戦闘経過規制」について。第二次大戦初期には非戦闘員の殺傷は抑制されていたが、戦争終結を早めるに有効だとして次第に空爆が許容されるようになった。その行き着いた果てに日本への原爆投下がある。これも未だ理論的に解明されていない。戦争は深刻な環境破壊をもたらすという認識も生み出されつつある。環境という共同の運命を担った人類意識の形成が望まれている。 今のところ、軍事力を廃絶するための非軍事的手段は無い。経済的制裁も絶対的方法ではない。「軍事依存は非合理、非採算的だ」という認識をもてるようになる社会的合意を生み出すことが必要ではないか。それが永久平和の道のりだ。 |
(私論.私見)