日本の儒学の系譜考

 徳川幕府は明朝と同じように朱子学を擁護していた。朱子学の理は太極という人知を超越した外在するものから与えられているという思想が権威主義や保守主義につながりやすかったためと考えられる。幕府の寛政異学の禁により、幕府及び諸藩の学校内では朱子学だけが公認されていた。

 
しかし、権威には異端が付き物であり、異端学を信奉する者を押さえれば押さえるほど却って燃え盛るというのがいわば歴史法則であろう。朱子学と決定的に対立していた陽明学が伝えられ、中江藤樹はその第一人者であった。江戸後期に至ると大塩平八郎、佐藤一斎、佐久間象山、吉田松陰ら数多くのイデオローグを輩出させていった。やがて、陽明学は、国学思想と共に幕末から明治維新を演出する思想の底流として政局に多大な影響を与えていった。



〔日本の儒教〕

 儒教は,日本には5世紀のころつたえられたといわれ,政治や社会に影響をあたえてきたが,最もさかんになったのは江戸時代である。徳川家康に仕えた藤原惺窩(ふじわらせいか)や林羅山は朱子学者であったため,朱子学が幕府や諸藩でさかんになり,封建制度をささえる道徳として発達した。

 やがて朱子学を批判する立場の陽明学派(中江藤樹や,熊沢蕃山などが有名)や,伊藤仁斎らの古学派もおこり,多くの学者が活躍した。その系譜を図示すれば次のようになる。
(学研学習事典データベース (C)Gakken 1999 無断転載・複製・翻訳・リンクを禁ず、このデータについて、暫し許されよ−れんだいこ)


朱子学派
 朱子学は、江戸幕府に奨励された当代一の学問であった。

 日本近世の儒学の祖と言われる藤原惺窩(ふじわらせいか/1561〜1619)はもともとは相国寺で仏教を学んでいたんだけど、公家や僧侶の教養として学ばれていた儒教を独立させて、儒教定着のきっかけを作ったんだ。彼自身は徳川家康に仕官、つまり召し抱えられることはせずに、弟子を推挙、もっと簡単な言葉を使おう、推薦したんだ。

 その弟子が林羅山(1583〜1657)。彼もまた、幼い頃から建仁寺に入ってたんだけど、朱子の書を呼んで、朱子学を志したんだ。そして21歳の時、藤原惺窩に師事して、24歳の時に幕府に仕えることになった。彼の思想は、武士に対して人間関係と人間のあり方について目を開かせ、このころ安定しはじめた身分秩序を正当化する理論を築くものだった。その理論は、上下定分の理を重んじた。これは、天が上にあって地が下にあるは、あらかじめ定まってることで、それとおんなじように、身分にも上下があるとして、これによって当時の士農工商身分秩序を正当化した。

 また、彼は存心持敬と説いた。常に心の中に敬を持ち、また上下定分の理を身をもって体現することを意味させていた。これは、朱子学でいう「居敬」であり、この「」というのは、「うやまう」ではなくって「つつしむ」(自分の心の中に私利私欲が少しでもあることを戒めて、常に道理と一つであることを求める)ということを指していた。

 こういった、高貴な人格を保とうとする考え方は、武士たちに深い共感を持って受け入れられた。彼の著書に『春鑑抄』『三徳抄』などがある。また、彼の死後も、林家は代々幕府に登用された。1690年に綱吉の援助で昌平坂に林家の私塾がつくられ、のちに昌平坂学問所(昌平黌)として幕府公式の学問所になった。
 その他の朱子学者として山崎闇斎(1618〜1682)。彼は敬と義を原理とする倫理を説いて、修養主義を唱えた。また、彼は神道も学んでいて、儒教と神道を結合した垂加(すいか)神道を唱えた。彼の学派を崎門(きもん)学派と呼ぶ。

 貝原益軒(1630〜1714)。彼は非常に博学で、本草学(中国から伝わった、動植物や鉱物などの効用を中心とした薬物学)や教育・経済・歴史などにも大きな業績を残した。益軒の著書には『大和本草』『養生訓』などがある。朱子学というのは、一面では身分制度を守るものであったが、一方で窮理を重視する傾向があり、合理的で批判的だったために、益軒のような「信ずべきを信じ、疑うべきを疑う」という、実証主義的な思想も育った。これが、西洋科学を受け入れる素地になったとも言われている。

 その他の朱子学者として、木下順庵(1621〜1698)、佐藤直方(1650〜1719)雨森芳州(1668〜1755)などがいる。

古学派

 古学派の思想は、それまで学んでいた、漢・宋以後の儒学者の解釈ではなく、孔子や孟子の原典に直接触れて、その真意を読みとろうとしたことに特徴がある。ここから古学派と呼ばれる。古学派として有名なのは、山鹿素行の古学、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学である。

 古学の山鹿素行(やまがそこう/1622〜1685)。彼は武士に対して、天下の政治を担当するものとしての自覚を求めた。武士の職分は農工商の三民を率いて、その長となって、生きていく上で必要な道を実現することだ、とした。武士には武士道という心構えがあり、主君のためにいつでも死ぬことができる潔さとか、支配階級である武士としての徳性とかいろいろあるが、山鹿素行が初めてこれを理論化し、武士道(「士道」)を確立せんとした。

 彼は兵学も教えた。「忠臣蔵」で、討ち入りの時、大石内蔵介が鳴らしていた太鼓。あの太鼓の鳴らし方、山鹿流陣太鼓と云う。これは、彼が著書『聖教要録』で朱子学を批判して、赤穂に配流されたとき、藩主浅野長直に優遇されて、藩の武士たちに彼の学説と兵学を学ばせたことに由来する。彼のその他の著書として『山鹿語録』などがある。

 古義学の伊藤仁斎(1627〜1705)。江戸初期の儒者で彼もまた孔子や孟子に直接学ぶ態度だったんだけど、彼が特に強調したのは、『論語』や『孟子』に書かれている言葉の、もともとの意味を明らかにして、孔子や孟子の精神を求めたんだ。もともとの意味のことを「古義」というから、古義学と呼ばれる。

 彼が、孔子の教えの根本だととらえたのは、「仁愛」。そして、人間相互の愛を人倫の道だと説いた。仁愛の根底にあるものを、彼は「」とした。「誠ならざれば、仁、仁にあらず」という言葉に示されるとおり、仁愛を実践するためには、心のあり方としての誠が重要だと考えた。その際、「誠」とは、「自分に対しても、他人に対しても偽ることのない、純粋な心情」としていた。そして、誠の具体的な実践として、「忠信」、つまり、他者への思いやりや信頼を実践せよと説いた。この「誠」というのは、古代日本人の清明心に通じるところがある。また彼は、単に心情が誠実であっても、人間社会についての学問を修めなければ、行為についての判断を誤ることがある、とした。

 伊藤は次のように説いた。「君主たるものは、どんなに善政を布き、民がそれを喜んでおろうとも“それを施したのは私だ、私のお蔭だ”と民に知らせるようなことがあってはならぬ」。「学問の道は“学んで知る”ところにはなく、“みづから思って得る”ところにあり」。しかし江戸時代の徳川御用の儒学者、すなわち体制派の朱子学者からすれば、容認できない異端の説として退けられた。

 彼の著書として『童子問』『論語古義』『語孟古義』などがある。 

 古文辞学の荻生徂徠(おぎゅうそらい/1666〜1728)。古文辞学という名前は、古い時代の文章とか言葉の文辞を研究したことから付けられた。彼によれば、儒学の根本は天下を安泰させることであり、これまでの儒学はどっちかっていうと道徳論を中心にして、いわば私的な面を重視し過ぎていると批判した。むしろ、公の秩序を目的とした政治の独自性を重視すべしとした。彼は、社会を安定させるためには経世済民(世を治め民を救うこと)の学を主張した。

 その方法論として、中国古代の聖人たちが社会を安定させるためにつくった安天下の道をつくるべしと説いた。これを先王の道ともいう。具体的には、礼楽刑政(儀礼・音楽・刑罰・政治)などの制度とか習俗を確立し、これによって、人々がそれぞれ持つ能力を発揮して、社会が調和的に発展することになるとした。彼の著書として『弁道』『政談』などがある。


日本陽明学派の系譜
 日本の陽明学の開祖は中江藤樹。その高弟に熊沢蕃山。次に有名どころは、赤穂浪士の堀部安兵衛・弥兵衛親子の友人でありました、討ち入りを陰で応援した細井広沢という陽明学者がいます。あと赤穂浪士のメンバーに木村岡右衛門と吉田忠左衛門という、この忠左右衛門が一番年配ですから大石内蔵助の一番の片腕になりますけども、この2人が陽明学者です。

 幕末期にはいりますと、山田方谷よりちょっとさかのぼりますが、浦上玉堂(1745〜1820)。大阪に懐徳堂が開塾され、東の昌平黌と並び称される学校となった。懐徳堂は、陽明学者の中井甃庵と中井竹山らが指南していた。大塩平八郎。

 江戸の昌平黌の佐藤一斉。

 佐久間象山。その弟子筋として吉田松陰。その弟子筋として高杉晋作。漢詩人で梁川星厳という京都で主に活躍した方がおります。西郷隆盛、西郷の盟友大久保利通。河井継之助。

 二・二六事件で刑死した北一輝。安岡正篤。変わり種とでも申しますか、実は陽明学を勉強した人、学んだ人の中には三菱財閥の岩崎弥太郎、伊藤忠商事の創始者の伊藤忠兵衛、それから藤田観光・同和鉱業のいわゆる藤田組の創始者の藤田伝三郎も陽明学を学んでいます。

 最近では作家の三島由紀夫も晩年約5年間ほど、やはり陽明学を学んだと言います。学んでいても、正しく理解しているということとは別問題ですので、その辺はお考え下さい。

林田明大講演録より抜粋 日本陽明学派の系譜については、「真説・陽明学」入門(三五館)に詳しく書かれてますので参考にして下さい。[HOMEに戻る]

日本における儒学の展開

日本近世の思想(1)

1.儒教の受け入れ

2.朱子学の発展

3.古学派の思想

4.陽明学





(私論.私見)