甲斐犬考

 (最新見直し2008.10.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2008.5.19日、2008.10.25日再編集 れんだいこ拝


【日本オオカミ犬死滅】
 1905(明治38)年1月23日、日本オオカミ犬死滅。奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)が確実な最後の生息情報とされる。日本オオカミは、日本の本州、四国、九州に 生息していた。北海道には日本 オオカミの別亜種であるエゾオオカミが分布していたが、明治時代に牧場を荒らす害獣として駆除され、1894年前後に絶滅している。

 なお、1.23日はアメリカ人の動物採集家マルコム・プレイフェア・アンダーソン(1879-1919)と同行していた金井清および猟師の石黒平次郎が、地元の日本人猟師2名からオオカミの死体を8円50銭で購入した日付であり、標本作製の際に金井が、厳冬のさなかに「腹は稍青みをおびて腐敗しかけて居る所からみて数日前に捕れたものらしい」ことに気がついているので、正確な捕獲日は1月23日よりも数日前である。剥製の作製は宿泊していた芳月楼(現在の皆花楼)の近くでおこなった。「ニホンオオカミ絶滅の原因については確定していないが、おおむね狂犬病やジステンパー(明治後には西洋犬の導入に伴い流行)など家畜伝染病と人為的な駆除、開発による餌資源の減少や生息地の分断などの要因が複合したものであると考えられている」。
 「ニホンオオカミ」。
 農耕の守り神と呼ばれた「ニホンオオカミ」

かつてニホンオオカミは日本の、本州、四国、九州の山に数多く生息していました。大きさは1mほどで中型の日本犬ほどの大きさでした。犬との違いは横顔で区別できます。犬は頭から鼻にかけてくぼみがあるのに対して、ニホンオオカミはそれが平らです。日本人とオオカミは古来から深い関係をもっていました。西洋では家畜を襲うオオカミを害獣扱いされていたが、日本で畑を荒らすシカやイノシシを退治してくれるオオカミは農民にとって守り神の存在でした。事実神社にはオオカミを祭っていることが多いです。

 ニホンオオカミかつての暮らし

 ニホンオオカミの生態については不明な点が多く古い文献や世間一般に伝わっている話などから推測するしかありません。それによると、ニホンオオカミは夜だけでなく、昼間も活動し、2~10頭くらいの小さな群れをつくっていました。獲物はシカで弱ったものや、年老いたものを中心に襲い食べていました。時には人里まで降りてきて、飼い犬を襲うこともありました。ニホンオオカミは山麓に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで毎年2~3頭の子を生むが、獲物のシカの数で変化していたといいます。体の毛は冬と夏でそれぞれ目立たないような毛色に変化させていました。ニホンオオカミの遠吠えはオス、メスとも「ウォーン!」と唸るように鳴き、近距離だと障子などを震わせました。その声はきわめて恐ろしかったと言います。

 ニホンオオカミの絶滅まで

 ニホンオオカミの絶滅に関しての決定的な要因ははっきりわかっていません。原因として考えられるのは1つ目としてまず、1732年以降に海外から狂犬病が進入したことで日本人のオオカミに関するイメージが変わってしまいま した。ニホンオオカミは猛獣と化し、人々を襲うようになり、噛まれた人はほぼ100%発病し、発病すると死をまぬかれることはありませんでした。そして人々はニホンオオカミを害獣とし、次々と鉄砲で撃ち殺しました。2つ目として明治以降の開発進行により、山林は切り開かれ、ニホンオオカミの生息地を奪っていきました。獲物の数も減り、ニホンオオカミは減少していきました。3つ目として外来の犬が持ち込んだ犬の伝染病「ジステンバー病」の流行です。群れで生活していたのでまたたくまに伝染病は広まりました。ニホンオオ カミはジステンバー病に対してとても抵抗力が弱く、1900年頃にはニホンオオカミの死体や病気で弱っている姿をたびたび見かけたと語られています。そしてニホンオオカミは1905年に絶滅したとされました。その後も目撃情報はあったが野生化した犬との区別が難しく、その多くは誤認であったと考えられます。

 「吉田道昌の学舎  2010-01-28」の「日本のオオカミはなぜ絶滅したか」。

 公立学校の教職にあったとき、夏休み、ぼくは中学生たちと吉野地方の山々へよく出かけた。「つちのこ探検隊」という空想的シナリオだが、子どもたちは山の不思議にロマンをかきたてられ、冒険心がふつふつ湧いてくるようであった。「つちのこ」という伝説の蛇の話と、もうひとつは絶滅した実在のニホンオオカミにまつわる話、キャンプファイアーの火を見つめながらぼくは子どもたちに語った。ニホンオオカミはいまだ生存しているのではないかと思われるような不思議を、この山系に入っていくつも体験したことがある。それが子どもたちへの話の種になった。子どもらはかたずをのんで耳を傾けた。テントの中でも登山の時も、彼らは探検気分でわくわくしていた。大峰山脈、大台ケ原、台高山脈などの奈良県、三重県、和歌山県にまたがる紀伊山地は、植物相の多様さ、樹木の繁茂の濃密さは尋常ではない。そこは日本一の多雨地域であり、山も渓谷も深く、険しい。生徒たちと登った弥山谷源流の狼平で野性の匂いを嗅ぎ、台高山脈の明神平の霧の夜には、不思議な動物の鳴き声に取り囲まれた。生徒たちは山の原始におびえ、畏敬の念を抱いた。史実で明らかなことは、ニホンオオカミの最後の一頭が殺されたのは1905年、東吉野だった。毛皮はイギリスに送られた。

 今年、オオカミの生きていた山の日々を突如思い出す一冊の本に出会った。昨年の暮れの12月25日に出版された、『絶滅した日本のオオカミ  その歴史と生態学』(北海道大学出版会)という本である。驚くなかれ、この本はアメリカの学者が書いている。著者ブレット・ウォーカーは、モンタナ州立大学歴史、哲学科教授。専攻は日本の近世史。内容は詳細を極める大著である。ブレット・ウォーカーは、北海道大学に留学し、日本各地を歩き、日本の古文書、古典、歴史書、あらゆる文献を読み、ニホンオオカミ最後の一頭が狩られた東吉野にも、その他のオオカミゆかりの地にも出かけて現地調査をしている。そして容赦なく迫害されたアメリカのオオカミがかろうじて一部の地域で生き残り、江戸時代までは神として崇められた日本のオオカミがなぜ完全に滅亡したのか、ブレット・ウォーカーは考察する。北海道にいたエゾオオカミも、本州にいたニホンオオカミも、どちらも完全に滅んだ。それでもまだ生き残っていると言う人もいる。昔、日本人はオオカミを大口の真神と崇め尊敬し、農民はこの幻のような動物に、イノシシやシカの被害から農作物を守ってもらっていた。東吉野ではオオカミの巣穴の傍らに祝いの赤飯を置いてくることさえしていた。オオカミはどのように生きていたか。人間にとってどんな存在だったか。なぜ滅んだのか。滅んだ後、日本の自然界はどうなったか、ブレット・ウォーカーはニホンオオカミの世界に深く入っていく。

 日本でもオオカミを調査し研究した人はたくさんいる。柳田國男は、ニホンオオカミ最期の地、吉野地方に修験者のように分け入り、神聖な山々と古代国家が存在した地に没入して調査した。そして、棲息地の消失と人口増が、オオカミにとって何より重要な群れ生活を崩壊させるに至った、と論じた。日本人が山間地に入植したためにオオカミの棲息地に環境変化を生じ、その変化がオオカミの群れを崩壊させ、孤狼を生み出した。孤狼になってしまうと、本来社会性動物であるオオカミは生存競争に苦しみ、最後には日本列島から消えてしまった、そしてオオカミの血は日本犬と交配して受け継がれた、という。京大学士山岳会を創設した今西錦司は、柳田の民俗学の世界観から分離して、生態学から山に入って調査研究している。オオカミの目撃談は1934年まであり、絶滅年よりも長く生存していただろうと、今西は信じていた。大台ケ原や四国の脊梁山脈で、雪の上に残されたイヌよりも大きな足跡を見たという山の住人にも出会った。紀伊の山に住み、エッセイや記録を書く山人、宇江敏勝は、1905年より後もオオカミは生き残っていたが、戦後の日本産業の大規模な森林伐採による環境変化によって滅びたと主張した。人間の飼い犬から伝染した狂犬病がオオカミの社会に蔓延したという説、人間がオオカミ退治に奔走したという説、人間がオオカミの棲息環境を破壊し、奪い取っていったという説、いろいろな滅亡原因説があるが、オオカミの絶滅は人間に起因していることは間違いがない。

 生態系が狂い出して、シカやイノシシの被害が大きくなると、オオカミのいなくなった自然界の異常が浮き彫りになっている。北海道では、生態系のバランスを保つためにオオカミの再導入を検討している人たちがいる。アメリカのイエローストーンでは実際に滅び去ったオオカミを復活させる取り組みをしている。日本の「トキ」のように。ブレット・ウォーカーは、人間が地球の資産を管理継承しているが、もし社会的動物のオオカミが地球の管財人になっていたら、彼らのほうがよい継承者になったであろうと言う。人間の科学文明が力を持ちすぎた結果、世界中で環境破壊が進み、多くの生物が絶滅した。イエローストーン地域と中部アイダホにオオカミを再導入しようとしたとき、アメリカでは国を二分する論争が行なわれた。反対も多かったが、政府はこの思いきった計画を断行した。地球は人類だけのものではない。

 ブレット・ウォーカーは次の話でこの著作を締めくくっている。日本の山奥にオオカミが生き残っているかどうか確かめるために、奈良県野生生物保護委員会のメンバーが神聖な吉野の山々で、オオカミのハウル(遠吠え)の録音を一晩中流して、縄張り意識の強いオオカミをおびきよせようとした。しかし、かつて活気に満ちたオオカミの群れのいた吉野の山々は沈黙したままだった。「この国の神聖な山々でオオカミの声を聴こうとしたが、何も聴こえなかった。これは私にとって悲しい話だ。人びとは自然界、国の遺産の生命の鼓動を探り当てようとしたが、それはもうなかった。この人々が聴いたのは、オオカミ絶滅に伴う沈黙だけでなく、いまのベースで環境と生物を無慈悲に侵し続けるなら、それは私たち人類全体を待ち受けているもっと大きな地球上の沈黙の一例だった」。


【甲斐犬史】
 甲斐犬(かいけん)は、日本オオカミ犬種の血筋を引く貴重品種と思われる。紀元前から日本に生息していたと思われる。このうち飼犬化し、山梨県・長野県の山間部の山岳地帯で虎犬と呼ばれて、シカやイノシシなどの狩猟の猟犬として飼われてきた日本犬が甲斐犬である。甲斐犬の故郷は、日本第二の高峰北岳(標高3192m)をはじめとする3000m級の山々の登山口として知られる山梨県中巨摩郡芦安村だと云われている。甲斐犬は同種で群れ、他種を嫌う性質を持つ。このことが甲斐犬の純粋性を保ったと考えられる。
 1924(大正13)年、小林承吉(元甲府動物園長、獣医師)が発見、調査研究し、1930(昭和5)年、「甲斐日本犬」と命名発表した。

 1929(昭和4).3月、当時甲府地方検察庁に横浜より赴任した安達太助が発見した。

 1931(昭和6)年、「甲斐日本犬愛護会」(後の甲斐犬愛護会)を創立。初代会長になった。この人が現在の甲斐犬保存の礎になった。

 氏は山梨県内の虎毛の地犬に惹かれて原産地(甲斐の秘境)をもとめ幻の犬探しに遁走した。そして当時、中巨摩郡芦安村(現、南アルプス市)、南巨摩郡奈良田村に群生していた地犬を愛護会で譲り受け、この犬を基礎犬にして天然記念物「甲斐犬(かいけん)」を固定していった。

 1932(昭和7)年、日本犬保存会の初代会長斎藤弘吉、獣医師の小林承吉等が中巨摩郡芦安村(現南アルプス市)や西山村、奈良田村(現南巨摩郡早川町)に群生していた立耳の甲斐地犬を調査し、「甲斐犬(かいけん)」と命名、保存活動を開始した。

 1934(昭和9).1.22日、秋田犬に次いで国の天然記念物に指定された。
 甲斐犬の特徴は次の通り。 

 
甲斐犬は、日本犬本来の素朴で野性味にあふれた犬である。精悍な体格体型で、体長よりも体高が高く、がっしりした骨格をもち、腰も胸も力強い筋肉に富んでいる。四肢もたくましく、実に伸びやかだ。足の開き方のバランスで跳節の角度があり、独特の飛節を持つ。

 大きさは、日本犬種のなかでは中型と小型のあいだである。体高は、オスは48cm前後、メスは45cm前後である。体重は10~15キロ前後。


 
「鹿犬型」(鹿型犬)と「猪犬型」(猪型犬)のタイプがあるが、その区別はあまり明確でない。シカ型は鹿を追っていたとされ、細身で体が長めで、岩場に適応して垂直に飛び上がる力に優れている。イノシシ型は猪を追っていたとされ、胴は短め、体も太めで、真っすぐに突き進む力に優れている。

 毛色は、黒虎毛と中虎毛と赤虎毛に分かれる。

 毛並みは、太く長い毛と、細くてやわらかい短毛が密集している。上毛は硬い直毛、下毛は柔らかく密生している。黒一枚に見える個体も多いが、年齢を重ねるに従って虎毛がはっきりしてくる。虎毛は山野で狩りをするときの保護色である。虎毛部分の色がビール瓶色のような茶褐色で、縞のある虎毛を特徴とするため、「甲斐虎毛犬(かいとらげいぬ)」の別名をもつ。 

 耳は、他の日本犬と比較してやや大きくやや前方に傾いている。三角で厚く前傾(90度)、立ち耳。その聴力は優れている。 

 額は広く、額段は浅く落ち込む。
 
 目は、小さいながら鋭く、やや三角で瞳は葡萄(ぶとう)色。広く見据える雰囲気をもっている。

 鼻はまっすぐで先がやや細い。口はやや長い。舌は、桃色。歯は丈夫。

 尾は、やや長く差し尾、巻尾、太刀尾で、背中の上で巻くか半円を描く。巻尾の犬も疾走時に差尾と同様の形になるのが甲斐犬の特徴である。食事の時や飼主に甘える時には横に尾を振る。
 寒暖の差の大きい山岳地帯の盆地風土に適した敏捷な犬で、疾走する姿が美しく、疾風のごとくで甲斐犬ほど山野に似合う犬はいない。気性が比較的荒いとも云われているが、且つ警戒心が強いことでも知られる。飼い主以外の人間には心を開かず、唯一人の飼い主に一生忠誠をつくすことから「一代一主の犬」と評される。帰家性がある。

 非常に賢い犬とも評されている。一説に、シェパードよりも学習能力が高い犬として知られている。

 絶滅種の「高安犬」も甲斐犬がルーツだとされている。

【日本犬史】
 日本犬にほんけんにほんいぬ)は、古くから日本に住んでいる犬の総称である。日本犬という言葉が使われるときは、1934年(昭和9年)に日本犬保存会によって定められたスタンダードである「日本犬標準」に名前の挙げられている6つの在来犬種を特に指すことが多い。6犬種は大型・中型・小型の3型に分類される。1931年から37年にかけて、各犬種が順次、文部省によって天然記念物に指定されたが、太平洋戦争後、その管理は都道府県教育委員会に委ねられた。
犬種 天然記念物への指定年月日
秋田犬 大型 1931年(昭和6年)7月31日
甲斐犬 中型 1934年(昭和9年)1月22日
紀州犬 中型 1934年(昭和9年)5月1日
柴犬 小型 1936年(昭和11年)12月16日
四国犬 中型 1937年(昭和12年)6月15日
北海道犬 中型 1937年(昭和12年)12月21日

現存の6犬種のほか、1934年12月28日に「越(こし)の犬」(福井県石川県富山県)が国の天然記念物に指定されているが、その後数が減り、1971年に純血種が絶えている。

特定の地域のみに以前から生息する犬を「地犬(じいぬ)」と言うが、天然記念物に指定された8犬種のほかにも、かつては各地に数多くの地犬が存在した。 このうち、

  • 川上犬は、信州系の柴犬である信州柴の1種だが、国の天然記念物に指定されている柴犬とは別に、1983年に長野県の天然記念物に指定されており、地元で独自に保存活動が続けられている。同様に、縄文時代以来の古い犬の形質を残すとされる琉球犬も、1995年に沖縄県の天然記念物に指定されている。
  • 薩摩犬鹿児島県)については、地元の保存会で、現在、保存・固定化の努力がなされている。
  • 十石犬群馬県長野県)については、戻し交配による再作出の試みがなされており、美濃柴(美濃犬、飛騨柴とも、岐阜県)、山陰柴(石州柴、因幡犬とも、島根県)などでも、固定化の努力が続けられている。
  • 肥後狼犬熊本県)にも保存会があるが、会員の高齢化という問題に悩まされている。
  • 岩手犬岩手県)は、純血種の個体の存在が確認されているが、すでに保存は難しいとされる。三河犬愛知県)も個体数が著しく少なく、絶滅寸前とされている。大東犬沖縄県)は、残された純血種の個体はいずれもオスで、しかも老体であるため、保存は絶望視されていたが、地元住民の活動により繁殖が行われている。
  • 仙台犬宮城県)、越路犬(同)は、純血種は絶えたものの、その血を引く和系犬は、今も地元に残されているという。
  • 屋久島犬鹿児島県)は、すでに純血種の個体は存在せず、雑種のもの等が「屋久島犬」として販売されているという。

このほか、すでに絶滅していると見られる地犬には、津軽犬青森県)、高安犬山形県)、会津犬福島県)、越後柴(越後犬とも、新潟県)、秩父犬埼玉県)、赤城犬(群馬県)、前田犬(加賀犬とも、石川県)、阿波犬徳島県)、椎葉犬大分県宮崎県)、山仮屋犬(同)、綾地犬(同)、日向奥古新田犬(宮崎県)、日向犬(同)、甑山犬(鹿児島県)などがある。これらの中にも、雑種化した和系犬の戻し交配による再作出・固定化という道が残されているものが存在するかもしれない。

 日本犬の特徴

  • 日本犬は温暖湿潤気候に対する耐性が強い。
  • 狩猟犬として山野を駆け回り、人間と協力して野生鳥獣の狩猟およびそれに伴う諸作業に従事してきた犬たちであり、高い身体能力を誇る。
  • 素朴・忠実・勇敢といった性質が日本犬らしいとされ、日本犬が国内外の愛好者たちに愛されてきた理由も、そのような特質に負うところが大きい。
  • 体、肢、吻は、がっしりとしている。
ピンとした三角の立ち耳、吻のとがったくさび形の頭部、クルリと巻いた巻き尾(または前方にのびて腰の上にかぶさる差し尾)などを特徴とする。
  • 日本犬の体型は、数千年前の犬の姿とほとんど変わっておらず、犬そのものの原型を色濃く残していると言われる。
  • 主人には非常に忠実だが、よそ者には警戒心をみせてなれなれしくしないため番犬に最適である。

    保存小史 [編集]

    明治から昭和初期にかけて、洋犬の移入や交通の発展によって雑化の進んだ時期は、日本犬絶滅の危機であった。明治以来、舶来万能の風潮によって、輸入された洋犬による日本犬の雑種化が、全国で意図的に行われた。そのため、大正末期までには、純粋な日本犬は、特に都市部ではほとんど姿を消してしまった。

    当時内務省にあった史跡名勝天然記念物保存協会とともに、この現状に危機感を抱いた斎藤弘吉は、日本犬の復興を呼びかけ、1928年6月に日本犬保存会を創立して、保存運動を展開した。 1931年から37年にかけての天然記念物指定が、この運動の追い風となった(国粋的な物を尊ぶ当時の時流がもう一つの追い風となったが、保存されたのは猟犬だけだった)。

    また、物資の不足から犬の撲殺・毛皮の供出が求められた太平洋戦争末期は、日本犬にとって第2の受難の時期であったが、有志の情熱と努力によって、日本犬の血は絶えることなく継承された。





(私論.私見)