舞の海の相撲俵論1



 (最新見直し2016.03.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで「舞の海の相撲俵論」考をしておく。

 2013.03.29日 れんだいこ拝



 2016.3.26 、「トップに求められる謙虚さ」。

 

大阪・中之島の川沿いを歩いていると、はかま姿の女子大生と幾人もすれ違った。出立の日を前に心を踊らせているのだろう。みな晴れがましい顔をしている。盛り上がる春場所が終われば、日本相撲協会も次期理事長が選出され、新たなスタートを切る。

 師匠(元横綱佐田の山)が理事長を務めていた頃。ある夜、私は両国のちゃんこ屋に呼ばれた。そこには脚本家の倉本聰さんもいた。

 「私を叱ってくれる人がいなくなってしまいました。何かあったらどうか叱ってください」

 隣に座った師匠を見ると、神妙な顔で倉本さんに頭を下げていた。思わずはっとした。協会トップに君臨してからでも、これほどまでに謙虚な気持ちでいるのか、と。

われわれ弟子もよく言われていた。「お前たち、お客さんに相撲を見せてやっていると思っているんじゃないのか。見ていただいているんだという気持ちで土俵に上がりなさい」

 伝統を守りながらも時代に合った相撲界をつくることを常に考えていた。そこには協会を強固で盤石な組織にして、次世代に受け渡したい思いがあったからだ。

 自身の後任理事長にまだ40代だった北の湖親方(元横綱)が推されそうだと知ると、すぐ動いた。

 互選される理事会の朝。誰よりも早く協会へ行って北の湖親方を出迎え「もう少し待て。まだ若いんだからいろんな部署を経験した方がいい」と言った。そして、続けた言葉に含蓄がある。「担がれて理事長になっても、いつはしごを外されるかわからないぞ」

伝わるものがあったのだろうか。北の湖親方は自ら身を引いたという。

 パリ公演が行われた平成7年。フランスが核実験を強行し、国技館のまわりではパリ行きに対する反対運動も起こった。

 それでも理事長は「日本人は約束を守るんだ」と言い切った。当時のシラク大統領がパリ市長時代からの約束だったという。そして、大統領主催の食事会のあいさつで言い放った。

 「フランスの核実験は残念だ。できるだけ早く止めてもらいたい」と。シラク大統領は苦笑いしながら聞いていたが「佐田の山さんがそう仰るのであればなるべく早く止めましょう」と返礼した。

 のちに聞いた話では、前日に徹夜で文面を練り、自国へ迷惑をかける事態になった場合、即座に理事長の座を退く意思を固めていた、という。大相撲は相撲界だけのものではない。わが国の風土や習慣の中で、時代にもまれながら残してきた英知あふれる日本の宝だ。春場所後に決まる次期理事長には欲望や邪心を捨て、みなをまとめていく覚悟はあるか。(元小結 舞の海秀平)


 あのとき白鵬を残したからこそいまの相撲界が存続できた、という日がいつか来るかもしれない。

 1月の初場所は、琴奨菊が日本出身力士として10年ぶりの優勝を果たし、沸きに沸いた。その陰で気になったことがある。勝負どころの14日目、千秋楽と力強さに欠ける相撲で連敗した白鵬だ。これで3場所続けて優勝を逃している。土俵上の勝負に集中し切れていないようにも見えた。

 以前にも触れたが、今のところ白鵬は日本国籍を取得しておらず、力士名のまま親方になれる「一代年寄」を相撲協会から授与されるめども立っていない。江戸時代から続いてきた横綱というとてつもなく偉大な地位を外国人に授けることを考えたら、断ることのできる一代年寄など、たかがしれたもののようにも思える。おおらかなところが相撲界の魅力でもある。

 新弟子検査で身長が足りないから、と背伸びする受検者を見て見ぬふりをする親方の姿をテレビで見たことのある方も多いのではないか。今では笑ってしまうほどの大胆な改革を断行し、生き延びてきた歴史がある。敗戦後、日本相撲協会は興行開催の許可をGHQ(連合国軍総司令部)にもらわなければならなかった。一説によると、その際、先方の理解を得るのが難しいかもしれないと忖度(そんたく)し、それまで十二神だった土俵の神様を三神に変えたとされる。減らされた中には皇室の祖神とされる天照大神も含まれていた。

 また、テレビ中継が始まるのをきっかけに、観戦の邪魔になるとして土俵を支える4本の柱を取り払ってしまった。もともとその柱には神様が宿るとされていたにもかかわらず。つり屋根の四方に4色の房をぶらさげ、代わりとした。

 白鵬の原点はあくまでもモンゴルにある。広漠とした大草原を吹き抜ける風のにおい、手を伸ばせば届きそうな無数の星、生まれた頃から慣れ親しんだ故郷の味-。私たち日本人が異国の歴史あるスポーツで認められ、この世界に骨を埋めようと願ったとき。国籍を変えろといわれたら、簡単に応じられるだろうか。

 初場所前に白鵬と話をする機会があった。「父は一度も帰化に反対したことはないんですよ。ただね、自分が帰化したら、両親が寂しい思いをするんじゃないかと」。「やっぱり帰化しないで親方になりたいでしょ」と問いかけると、「自分の国を愛せない者が他の国を愛せますか」と私の目を見つめた。(元小結 舞の海秀平)


 2015.11.19日、「九州場所はなくなっていたかもしれない 開催支えた1人の社長の人生」。
 九州場所はなくなっていたかもしれない。かつて存続が危ぶまれたこの地での開催を陰で支えた人がいた。昭和40年代後半。運営元との交渉がこじれ、日本相撲協会は会場の変更を余儀なくされた。北海道や宮城県などから誘致を受け、九州以外の代替地選定に入る段階まで進んでいたという。危機感を覚え、立ち上がったのがタグチ工業社長の田口一幸氏だった。時期を同じくして、プロ野球西鉄ライオンズの身売り騒動があり「九州から国民的なスポーツである野球と相撲がなくなれば、青少年に与える夢がなくなる」との思いからだった。 九州電力幹部の瓦林潔氏とともに相撲協会へ陳情に行き、九電体育館の使用と、現在も使われている福岡国際センター建設への道筋をつけ、九州で本場所が続けられることになった。

 田口氏は大正14年、長崎県小(お)値(ぢ)賀(か)町に生まれた。開戦とともに応召、復員後に福岡で研磨材の製造・販売を始め、トンネル内で使えるベルトコンベヤーを開発し、会社を発展させた。社是は「売(ばい)誠(せい)買(ばい)信(しん)」。誠心誠意を持って商売に当たることで信頼を得る。戦後の混乱期の中で「人からの恩は一生忘れるな。人に世話したことはすぐに忘れろ」と母からたたき込まれた。同郷の力士を激励するため、出羽海部屋を訪ねたときに同じ五島列島出身で当時三段目だった佐々田晋松(のちの横綱佐田の山)を紹介される。その出会いが2人の運命を変えた。

 昭和36年1月、新入幕を果たした佐田の山は5月の夏場所で初優勝を飾る。千秋楽の宴も終わり、2人は浅草の小料理屋で酒を酌み交わしていた。すると、佐田の山はおもむろに「あなたにはお世話になりました」と池田勇人総理大臣から優勝記念に贈られた時計を渡した。「こんな大事なものを」と固辞しても聞かない。口に運んだ酒の味がしょっぱかったのは、杯(さかずき)にこぼれ落ちた涙のせいだった。

 平成7年6月には、東京大の小堀桂一郎名誉教授らと協力し、防衛庁などへ掛け合い硫黄島での曙、貴乃花の日米両横綱による鎮魂土俵入りを実現させ、両国の英霊にささげた。代を継いだ長男いわく「会社は二の次。とにかく相撲が優先だった」という。佐田の山が部屋を継げば出羽海部屋を、相撲協会の理事長になれば角界全体の発展を考えた。

 病床で余命が少ないとわかったとき。家族に「葬式はするな。戒名もいらない。小値賀の海に散骨してくれ。みんな忙しいんだから誰にも言わなくていい」と言った。「佐田の山さんにも?」と聞くと、一瞬ためらったが惜別の情を振り払うように「うん。言わなくていい」と。佐田の山にかけた人生は23年1月30日に86歳で終えた。いま福岡国際センターに響き渡る歓声が小値賀の海にも届いてくれと祈っている。(元小結 舞の海秀平)


 2015.11.17日、「舞の海氏「横綱相撲を捨ててでもの思いだろう」 白鵬の猫だましに」。
 大相撲九州場所10日目の17日、横綱白鵬が関脇栃煌山に対して奇策の猫だましを2度仕掛けたことについて、現役時代に数回用いた舞の海秀平氏(元小結)が産経新聞の取材に応じ、「白鵬にとって栃煌山は好きな相手じゃない。押し込めないのを嫌がって考えた策ではないか」との見方を示した。また術中にはまった栃煌山には「相手をよく見て立てば、猫だましは食わない。(外国出身力士は)日本人が子供の頃から相撲はこうだと思っている感覚とは違う。もっと想像力を働かせないといけない」と奮起を促した。小兵だった舞の海氏はなかなか勝てない大柄力士対策として猫だましを使った。体格に恵まれる白鵬が繰り出したことには「ファンは消化不良というか、納得しないところはあると思う。がっちり挑戦者を受け止めるのが横綱。横綱相撲をかなぐり捨ててでも今日の一番に勝ちたいと思ったのだろう」と語った。

 2015.9.19日、「デモも景気も祭典も「祖国があってこそ」 元小結・舞の海秀平」。

 今回はどうしても相撲のことを書く気になれない。テレビの天気図には、初めて耳にする線状降水帯が居座っていた。早く太平洋側にそれてくれないかと、手で払いのけたくなる。暴れ出した川は堤防を決壊し、民家や田畑を飲み込んでいった。津波よ、雨よ。まだ復興を遂げていない東北を、そして東日本を沈める気か。現場には勇敢に自然災害に立ち向かい、次から次に命を救う自衛隊員の姿があった。男性がしがみつく電信柱にもう少し踏ん張ってくれと祈る。男女がそれぞれ抱えた2匹の犬には、ヘリコプターに乗り込むまで大人しく抱かれていてくれと手を合わせた。強風で苦戦しながらも必死に助け出す隊員を見ていると、「いとしきニッポン」(石井英夫著、清流出版)の最終章「祖国」で引かれた画家藤田嗣治(つぐはる)のエピソードを思い出した。彼は戦時下に戦争画を描いたことで「戦争協力者」として、戦後になって画家仲間からの非難を浴びた。人が無数に重なり合って刺し合ったり打ち合ったりする絵を見たことがある。実際は国民の戦意をあおるものではなく、戦争の恐ろしさを伝える、むしろ“反戦画”だったのではないか。

 藤田は追われるように日本を離れ、パリに移住。再び祖国の地を踏むことはなかった。「祖国を捨てたのではない。祖国に捨てられたのだ」と夫人は聞いた。もっとも、繰り返し聞く音楽、普段口にする食事は日本のものばかりだったという。

 のちに手記で戦争にまつわる絵を描いた理由について語っている。「この恐ろしい危機に接して、わが国のため、祖国のため子孫のために戦わぬものがあったろうか。平和になってから自分の仕事をすればいい。戦争になったこの際は、自己の職業をよりよく戦争のために努力して然るべきものだと思った」。言葉を失い、ひれ伏すしかない。

 いま、事が起これば存在自体を“違憲”とされがちな自衛隊に頼るしかなくなる。災害だけに限ったことではない。有事が起きたとき、海外で同胞が命の危機にあってもこのままでは黙って見ているしかない。自衛隊がここまでしてくれたら救えたのにと悔やむのか、自衛隊がここまでしてくれたからこそ救えたと感謝するのか。デモで声を張り上げるのも、景気対策も、スポーツの祭典も「全ては祖国があってこそ」。藤田はこうも語っている。「何んとでも口は重宝に理屈をつけるが、真の愛情も真の熱情も無い者に何ができるものか」と。(元小結 舞の海秀平)


 2015.8.12日、「恩師は頑固な数学教師」。

 熱風を浴びながら蔵前橋から隅田川を渡ると、すぐに蔵前国技館があった場所が見えてくる。今から32年前。その土俵に立っていた。中学3年で青森県予選を勝ち抜き、夢だった8月の全国中学校相撲選手権大会(全中)に出場した。監督は数学教師の鈴木久徳先生だった。先生はアルコール依存症と言えるほどの酒好きで、ウイスキーをジュースの小瓶に移し替えて持ち歩いていた。全中の予選を勝ち抜き、決勝トーナメントが始まる頃には酩酊状態。ついには土俵まわりを徘徊し出した。

 大会役員が血相を変えて「あの人は何ですか」と言ってきたときに、親たちが「うちの監督ではありませんよ」と返して事なきを得た。いま思うと、大舞台で誰よりも不安だったのは先生だったのかもしれない。相撲経験がなく、試合前は「いいか、やるしかないんだからな」と背中をばしばしたたくばかりだった。

 授業中はアルコールのにおいが教室中に充満していることもあった。もっとも、数学を教えるのは抜群にうまい。「Xはこっち来ーい、Yはあっち行けー」と節をつけた独特の語り口が面白くて、方程式を次々と覚えていった。生涯で一度だけ相撲をやめようと思ったことがある。

 中学2年の冬。まわりの仲間はどんどん体が大きくなり、それまでは負けることがなかった同級生相手に勝てなくなった。団体戦のメンバーにも選ばれず、自分には向いていない、と思って先生に「辞めます」と伝えると「駄目」とだけ言い、取り合ってくれない。理由を聞いても「駄目なものは駄目」の一点張りだった。一つのことを最後までやり遂げられない者は何をやっても駄目、と教えたかったのかもしれない。先生が辞めることを受け入れていれば、その後の人生はどうなったのか。振り返ると、いまでもぞっとする。

 定年退職後の楽しみは大好きなウイスキーを片手に、私の相撲を見ることだったらしい。衛星放送が映るテレビを買い込み、勝ったときは「よし、あれはあいつの中学時代からの得意技だ」と喜び、負ければ「気力のない相撲をとるなら辞めちまえ」とテレビを消していたという。引退するときには「秀平、十分だ。これで精いっぱいだ」と言ってくれた。

 晩年は医者や家族に止められても「俺はまっすぐ死にたい。ぐだぐだ寄り道したくない」と酒を飲み続け、今からおよそ15年前に亡くなった。しばらくして弘前の墓に参らせてもらった。本人の遺言で、墓石には「自然に帰る」とだけ刻まれていた。(元小結 舞の海秀平)


 2015.7.16日、「白いあごひげの仙人」。

 明治時代、大阪の谷町に相撲を愛した医師がおり、力士を無料で診察したことから、いつしか熱心な後援者のことを「タニマチ」と呼ぶようになったとされている。16年前の名古屋。西の十両筆頭として土俵に立っていた。その頃はけがが重なっていたこともあって幕内に戻れる最後のチャンス、という思いで臨んでいた。しかし、古傷の右足首の状態は悪化する一方。痛みでかかとをつくことすらできない。救いの手を差し伸べてくれたのが、愛知・尾張旭で整形外科を開業していた可知宏之先生だった。

 白く伸ばしたあごひげは仙人のよう。診察してもらうと「よし、ワシが何とかしてやる」とだけ言う。痛み止めは1、2時間程度しか効かないから、と院長自ら忙しい合間に病院を抜け出して、本場所中の支度部屋に毎日来てくれた。他の力士に弱みを見せられないため、明け荷のふたを衝立代わりにして、出番前に太い注射針を足首に刺してもらっていた。そこまで献身的に支えてくれるからこそ勝って報いたかったが、負け越してしまった。負けた日の夜、連れ立って出かけた食事先で私生活のことを尋ねてくる店員を、先生は「酒を飲んでいるときに所帯じみた話をするな」と一喝。自分がいま、どんな気持ちでいるかを痛いほどわかってくれていた。

 先生はもともと、出羽海部屋を応援してくれていた。相撲が強い子がいると聞けば、自ら足を運んで部屋に新弟子が入るように話をつけてくれることもあった。祝儀を渡したり、食事に連れて行ったりするばかりではなく、心の底から部屋の発展を願っていた。兄弟子からは入院したときに病院食では足りないだろうと、隣のステーキハウスから出前をとってくれたという話も聞いた。力士の診察代を受け取ることはなかった。

 9年前。ホテルで自伝を出版する打ち合わせ中に倒れて、そのまま帰らぬ人となった。もし今でも先生が生きておられたら、と思うことがよくある。名古屋の歓楽街に出て、ピアノの伴奏で十八番の「名古屋ブルース」を歌っているに違いない。医院を継いだ先生の長男とは今でもお付き合いさせていただいている。昔の話を聞くと、開業したばかりのとき、先生は患者の自宅へ往診に行ってそこで食事をごちそうになり、横に布団を敷いてもらって患者と並んでそのまま眠ってしまうこともあったという。誰かのためになりふりかまわず行動する人だった。

 名古屋場所が来ると、先生の自宅にお邪魔して毎年線香をあげさせてもらっている。その足で隣接する病院に慰問へ向かう。そこでお年寄りの方々と触れ合っていると、片隅で先生がほほえんでくれている気がする。(元小結 舞の海秀平)


 2015.4.23日、「勝っておごらず、負けてひがまず」。

 取っ組み合いのけんかの末に相手を刺し殺してしまった。みんなが必死に行方を捜している。自分も一緒になって捜すふりをしながら、すでに降参していた相手をどうして刺してしまったのか。取り返しのつかないことをしてしまった、と頭を抱え込んだ瞬間、目が覚めた。今年2月に川崎の中学1年生が殺害された。妙に現実味のあるこの夢のことを思い出した。イスラム国のまねをしたのか、加害少年たちは手も足も出せない年下の子をなぜあやめてしまったのだろう。八重桜が満開になったいまでも、あの事件のことが心から離れない。殺害した少年たちはどうして一線を越えてしまったのだろう。どう考えても理解できない。自治体や学校が悲劇を起こさないためにあれこれ知恵をしぼっているが、対策はただ一つ。親のしつけしかない。どんな家庭環境にせよ、夜中に子供を外出させることはもってのほかだろう。子供の個性を大事に育てていこうといういまの風潮。だが、教育には強制が必要だ。まだ人格が形成されていないからである。

 私が入学した小学校では毎年相撲大会があり、有無を言わせず、裸で相撲をとらされた。親や先生に叱られるのは、負けたときではなく、ふてくされた態度でお辞儀をせずに土俵を下りたとき。いま振り返れば、喜びや悔しさ、いたわり、潔さ、痛みなど、いろんなものが土俵には詰まっていた。いっそのこと、道徳の授業の代わりに子供たちに相撲をとらせてみてはどうか。力士になってからも、師匠(元横綱佐田の山)に同じようなことを言われた。「勝った方は『ありがとうございました』。負けた方は『また鍛えなおしてきます』と両者が感謝の気持ちであいさつをする。それこそが大相撲の精神だ」。勝っておごらず、負けてひがまず、という謙虚な心もたたき込まれた。

 平成8年の名古屋場所2日目。小錦の300キロ近い体重につぶされ、私は左膝に大けがを負った。のちに映像を見たとき、心配そうに手を差し伸べてくれている小錦の表情に初めて気付いた。だから相手を安心させるために何としても復帰しなければ、と心に誓った。勝負師は自分が負傷する以上に、相手にけがをさせてしまった方が心を痛めるものなのだ。米国人作家のレイモンド・チャンドラーが私立探偵フィリップ・マーロウに語らせたセリフに好きな言葉がある。〈男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない〉(元小結 舞の海秀平)


 2014.10.23日、「逸ノ城が教えてくれた日本人力士の戦い方」。
 ペリーが乗った黒船に江戸中が大騒ぎしたように、秋場所新入幕の逸ノ城が怒濤(どとう)の快進撃で一気に横綱、大関をも手玉にとり、ファンだけでなく大相撲関係者まで度肝を抜かれた。果たして、この若き怪物の強さは本物か。私が現役の頃、小錦や曙という200キロを超える大男がいた。力にモノを言わせ、丸太棒のような腕で突っ張り、まるで足で踏みつけられているようだった。逸ノ城の相撲を見ると、そのような激しい突っ張りは見られない。対戦する力士は攻略法がいくらでもありそうだ。ただ前から押される分には余裕を持って踏ん張ることができる。大型力士を倒すには、横から斜めからとさまざまな角度から攻めて、混乱させなければいけない。現役時代、師匠だった出羽海親方(元横綱佐田の山)から入門してすぐに言われたことがあった。「お前は好きなように相撲をとっていいぞ」。小さい体で真っ向勝負を貫いても勝てるわけがない、ということをよくわかってくれていた。

 本場所で跳んだり跳ねたりしても一度も叱られたことはない。それどころか負けが込むと「立ち合い変化したらどうだ。最近やってないだろ」とまで言われる。いかに師匠は視野が広く、懐が深かったか。好きなようにやらせてもらったからこそ、自由な発想で作戦を立てることができた。稽古場でよく耳にするのは「当たって前に押せ。余計なことはしなくていいんだ」という指導。親方の言葉を素直に聞く気持ちも大切だが、相撲をとるのは自分自身である。体格や力で上回る相手に対し、当たって押すだけで本当に通用するのか、と疑問を持たないのだろうか。人から教えられたことではなく、自らの心で感じて、頭で考えたことは絶対に身につく。「昨日今日入ってきたやつに負けて、俺は今まで何をしていたんだ…」とはらわたが煮えくりかえって眠れなかった力士が、そもそもどれほどいるか。まずその強い思いがなければ、勝つための答えを見つける旅に出る気にはなれないだろう。

 このさき大相撲界には逸ノ城のような怪物が、世界中の大自然からいくらでもやってくる時代が来る。その時に備え、日本の力士は今から小兵という自覚を持たなければいけない。想像力を膨らませながら技を磨き、緻密な相撲をとることが求められる。「技の引き出しをたくさんつくらないと勝てませんよ」と逸ノ城が教えてくれている。巨漢に対して、当たって押せなかったときにどうするか。その先を考えなければならないときが来た。(元小結 舞の海秀平)


 2014.9.25日、「世論に埋もれる声なき声」。 
 いま国技館がわいている。新大関やモンゴルの若き大器がおり、遠藤人気もある。なにより土俵際でもつれる相撲は面白い。だが、ほんの数年前まで角界は存続の危機にあると言われていた。2011年2月、八百長問題が発覚。「ファンの理解を得られない」として、日本相撲協会は翌月の春場所を中止した。開催反対派の声の大きさに「不祥事と本場所開催は別」というかぼそい声は埋もれてしまった。夏場所は技量審査場所となり、NHKによる中継も行われなかった。

 同じ頃、東日本大震災が起き、5月に報道番組の取材で宮城県の被災地を訪れた。そこで、避難所をとりまとめている男性にかけられた言葉が忘れられない。避難している体育館には小さなテレビが1台。画面にはドラマが映っていた。「年を取ると耳が遠くなるから、ドラマを見ていても内容がよくわからない。こんなときこそ相撲をやってほしいのです。舞の海さん、お願いしますよ」。特に地方で大相撲は2カ月に1度行われる季節の風物詩となっている。熱狂的に誰かを応援するのではなく、家事の合間に何げなくテレビをつけ、中継を見る。不祥事に腹を立てている人ばかりではなかった。

 引退して間もない頃、韓国・ソウル郊外の山里で、サムゲタン(参鶏湯)を食べるテレビのロケがあった。出迎えてくれた老母は感激して、初対面の私を抱きしめてくれた。「あなたたちは私の息子だ。よく来てくれた」と流暢(りゅうちょう)な日本語で話し、「故郷」や「旅愁」などの唱歌を何曲も口ずさんでくれる。聞くと、日本統治時代に本土からやってきた校長に習ったという。「素晴らしい先生で恩を感じているのです」という。韓国の田舎で、日本人と韓国人との間に生まれた縁に心が温まった。ところが、テレビ局のディレクターは「すみません、日本語で話さないでください」という。理由は「日本が植民地化していた当時を視聴者に思い起こさせてしまうから」らしい。何とあさましい了見か。ありのままの姿を伝えるべき、と思った私はその場をこらえて、打ち上げの席で猛抗議し、楽しい夕食の場を台無しにしてしまった。

 そういえば中学時代、社会科の授業で「日本軍が朝鮮半島で人さらいをした」という話を何度も聞かされた。そういう歴史を信じて疑わない子供が教師となり、また子供たちに教えていく。他国からだけではなく、内側からもせっせとわが国をむしばんでいくかのように。世の中をふわふわと漂う世論をかきわけ、谷底に沈んでいる声なき声にこそ耳を傾けていきたい。(元小結 舞の海秀平)


 2014.8.21日、「男気と大和魂」。
 大学の先輩でプロ入り後も同門だった元小結両国が、境川部屋の前身に当たる中立部屋を起こしたのが平成10年春。現役時代の師匠だった元横綱佐田の山に出羽海部屋からの分家独立を拒否された場合、相撲界を去ってふるさと長崎に帰る覚悟を決めていた。担保がなく、新たに部屋を建てたくても請け合ってくれる銀行はなかった。知人に借りた資材置き場を稽古場とし、急ごしらえの土俵でたった2人の弟子が四股を踏む光景を忘れられない。おかみさん、息子2人とともに錦糸町にある2DKのマンションで細々と共同生活を送る日々が続いていた。なかば諦めかけていたところ、最後に訪ねた銀行で支店長に声をかけられた。「小林さんですよね?」。学生相撲のファンで親方の活躍をよく知っていた。弟子育成の熱意を正直に伝えると「私の責任で何とかしますよ」と言ってくれた。奇跡が起こった。

 新興部屋としては、“米びつ”となる力士が1人でも多く欲しいはず。ところが新弟子を勧誘するため、地方に行ったときのこと。のどから手が出るほど欲しい若者が親に口答えする姿を見ると「お前のような親不孝者はこっちから願い下げだ」と帰ってくる始末。それでも各校の指導者は真摯(しんし)に弟子と向き合う親方にほだされ、自然と弟子が集まっていった。ずっと大切にしてきたのは「先人を敬う気持ち」。いま平和な世の中で相撲がとれることに感謝できれば、必ずや強さや優しさを兼ね備えた人間に育ってくれるはずと考えている。

 部屋の旅行で訪れたサイパン島バンザイクリフでガムや落書きで汚されている慰霊碑を見たとたん、頭に血が上った。「これを見て、日本人は誰も怒らないのか」。急遽(きゅうきょ)、旅行の日程を変更し、洗剤とブラシを買い込んで弟子と一緒に汗だくになりながら、きれいに磨き上げた。

 ロサンゼルス巡業で担当親方として米国に先乗りしたときもそう。土俵はまだできていないのに現地作業員がまともに働かず、さっさと引き揚げようとしたときに全員を集めた。「お前ら、日本は戦争には負けたけど、魂や精神まで負けた訳じゃないんだぞ」と怒鳴りつけ、「直訳しろ!」と通訳をたじろがせた。

 商売っ気はまったくない。男気や義理人情の大切さを一人でも多くの若者に伝えたいと励んできた。厳しい稽古が終わると、出撃していく特攻兵が家族に宛てた手紙を弟子たちに何度も聞かせた。部屋を立ち上げて16年。ついに師匠の信念を受け継いだ新大関、豪栄道が誕生した。弟子は口上で「大和魂」という言葉を使った。愚直にこころざしを貫いてきた親方を見ていると、忘れかけていた日本人としてのあり方をいつも考えさせられる。(元小結 舞の海秀平)

 

 2014.5.30日、「「まげ」にこもる「魂」」。

床山さんが毎日丁寧に結ってくれるまげには、職人の魂がこもっている。力士の象徴でもあり、神聖視されるまげ。角界に入門した若者はまげを結ってもらい初めて力士としての自覚が生まれる。稽古後の乱れ髪に女性ファンが色気を感じるというのもわかる。

 独特の風習もある。初めてまげを結った力士は部屋の親方や兄弟子から“デコピン”と“鬢(びん)付け油代”と称した小遣いをもらう。

 私自身現役を引退して土俵を離れるときよりも、その約半年後に断髪したときの方が寂しさを感じた。頭が軽くなり、「これで何もかも本当に終わったんだ」という喪失感にとらわれた。

 翌朝シャワーを浴びているとき、なくなったまげを洗おうと、ふと頭の上で両手をすりあわせようとしてしまった。切り落とされた大銀杏(おおいちょう)は、いまでもふるさとの記念館に飾ってある。

 師匠だった出羽海親方(元横綱佐田の山)も、まげに関しては特別な思いを持っていた。兄弟子が若手に稽古をつけているときのこと。へとへとになって立ち上がれなくなった力士のまげをつかんで引っ張ろうとすると「やめろ」と一喝した。

「どんな力士にも尊厳があるんだ」と言ったのが忘れられない。引っ張られた方からすると、自分の人格までも否定されているように感じる。いまでも稽古場で、そうした光景を見ると目を覆ってしまう。

 25日に千秋楽だった夏場所では、まげが話題として取り上げられることが多かった。12日目、鶴竜は豪栄道にまげをつかまれ、横綱として史上初の反則勝ち。その2日後には、日馬富士と稀勢の里の2敗対決で日馬富士がまげをつかみ反則負けした。

 相撲規則は「頭髪を故意につかむこと」を禁じ手と定めている。“故意”かどうかを争うことは無意味だろう。人の心の内は誰にもわからないのだから。「結果に影響を与えたか」「つかんだだけで反則」など、新たなルール策定を検討していくことも求められる。

 そもそもあまりに安易に引き技を繰り出すことが、まげに手がかかってしまう要因ではないか。現役の頃を思い起こすと、引く動きは私にとって怖いことだった。相手を引いたときにその動きを読まれてそのまま付いてこられたら、土俵の外に一気に押し出される。同じ負けるにしても最も後悔する負け方だった。

大型化したいまの角界だが、自分だけでなく相手も大きくなっている。そして、立った直後に押し込めないとみるや、すぐに引く。解説席で見ていても「ここで我慢して押したらいいのに」とよく歯がみしてしまう。

 苦しくても辛抱して押し続けることができないというのは、現代の世相を表しているのだろうか。(元小結 舞の海秀平)









(私論.私見)