別章【宮本武蔵考】


宮本武蔵 資料篇
関連史料・文献テクストと解題・評注

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[資 料] 山田次朗吉 『日本剣道史』 Go back to:  資料篇目次 




榊原鍵吉



山田次朗吉



山田次朗吉『日本劔道史』
水心社 大正14年
覆刻版は一橋剣友会
 明治維新によって武士という身分が消滅しても、剣術は生き残った。言い換えれば剣術は近代剣道として革新されて存続した。
 その最大の功績者は子爵・山岡鐵舟(1837~1888)である。彼自身、明治の「剣客」として知られる。だが、この山岡と対照的に並び称せられたのが、直心影流十四世、榊原鍵吉(1831~1894)である。榊原は旗本、上野彰義隊敗残の幕官であった。新政府に仕官することなく、名声のわりには生涯貧しく、髷を切らなかったという。
 この榊原の弟子が山田次朗吉(1862~1930)である。山田は明治二十七年、直心影流免許皆伝となり、榊原を嗣いで直心影流15世となった。山田には対戦記録はないが、剣道師範として近代剣道の普及に功のあった人である。とくに著作が多く、ために彼の論は世間に影響力があった。なかでも本書『日本劔道史』は武道史家・山田の名を後世に遺すことになった書物である。
 本書の刊行は大正十四年(1925)である。本書前文を見るに、山田は東京商科大学(現・一橋大学)の剣道部師範を二十年勤めており、同大学創立五十周年記念事業の一環として、本書の刊行がなされたもののようである。
 当時の状況は大正末期の社会不安が嵩じた時期であり、社会主義運動、プロレタリア文学など、左翼の抬頭著しい折である。そこで興味深いのは本書の序文である。これを寄せた剣道部長・堀光龜は、そうした社会危機を語るとともに、イタリア・ファシズムに言及している。むろんそれは、左翼革命の危機に警鐘を鳴らす右翼としてのポジションである。その意味で、知のアルケオロジーからすれば、日本的ファシズムの濫觴期を告知する資料でもある。
 同時に、この序文が商科大学という環境で書かれたことから、まさしく商行為と武道の同一性、いわば「商武一如」論を開陳するもののごとく、まさしく、戦後の「ビジネス書としての五輪書」というような極めて日本的なビジネス哲学のスタイルの、最早期形態を示すのである。
 すなわち、こうした環境条件を背景として、本書『日本劔道史』が出現したのである。このことを念頭に置くべきであろう。
 本書執筆時期としては関東大震災の直後である。世間の人々と同様、山田も多くの資料・草稿を震災で失ったようである。にもかかわらず、該博な研究の跡が窺われる一書である。
 しかも本書は、以下の諸点で我々の注目する一書である。すなわち、
(1) 剣道に関する近代的歴史研究の嚆矢であること。
(2) その視点は昭和以後の武蔵論に多大な影響を与えたこと。
(3) 当時通説化していた、宮本武蔵遺蹟顕彰会版『宮本武蔵』(明治四十二年)の武蔵美作出生説を、正面から批判した最初の論説であること。
 この山田次朗吉『日本劔道史』の水準を抜く研究は長く現れず、戦後に到るも、なお基本文献たるステイタスを失わなかった。しかしながら、あるいは、それゆえにこそ、彼の所説に含まれる誤謬には厳密な訂正を要するのであり、それを厳格に明確にしておく必要があろう。
 ここでは武蔵関連部分を収録し、同時に評注を加えて資料として提示しておきたい。

    二 天 一 流 (宮本武藏)

 二天一流とは宮本武藏が二刀流の名である。一に圓明流ともいつて居るが、武藏自身の記には二天一流である(1)。宮本武藏といへば劍術家中、人口に膾炙して驍名藉々たるもので、殆んど他の追随を許さぬ勢である。さるに依つて武藏の傳記には何れも誇張が多くして近時考證的に著はれたる書物でさへ、其據る所が大抵同質同型、たゞ異なるは枝葉であるから、之が眞相として見るべきものが少ない。即ち二天記、丹治峰均自記、小倉の碑文、東作志等が重もなる取材で、信を之に置て書いたものが多い(2)。勿論是等は参考の好著ではあるが、皆其門人系の崇拝熱から打算して筆を採た形跡があるので、餘程割引して讀破せねば武藏の眞を誤るのみか、却て其美を傷ける記事が散見する。今二天一流を叙するに當つては、此點に留意して、稍や批評的に参考の資料を撰擇し、幾分にても武藏の武藏たる所を誌して見たいと思ふ。(3)
 武藏の祖先は播州赤松氏の族で、新免伊賀守と謂て、揖東郡林田の城主であつた(4)。武藏の父は其苗裔で、宮本無二之助一眞と呼んだ(5)。(遺跡顯彰會の宮本武藏傳に由れば作州英田郡宮本村を出生の地とし、同地に存せる墓碑平田武仁少輔正家同人妻於政とあるを無二齋の墓と断じ、其歿年の天正八年四月廿八日とありて、武藏出生の天正十二年と叶はざるを不審り、十八年の誤刻ならんと説き、旦つ武藏が五輪の書に、自ら生國播摩〔ママ〕の武士と書けるをも疑を存したれど確證とし難く、且つ此墓も果して無二齋なるや覺束なし、况〔ま〕して石碑の歿年誤刻など云に至ては殊更牽強に近き説也)(6) いほ川の支流淵岸宮本村の人で、赤松圓心の曾孫別所長治に事へて、十手の術の妙手と稱せられた(7)。別所は天正八年正月十七日信長の爲に亡され、家系茲に絶ちしかば、無二之助は浪人となつて諸國を徘徊した。京都にて吉岡と試合し、三番に二番の勝利を得て、日下開山天下無双と名告つて歩いたといふ。(吉岡との試合に勝ち将軍義昭より日下開山無双の稱を賜はつたといへど之も確證はなし)(8)
或る書に云、無二之助は元法華宗の僧にて、二刀の術を覺え、長政公に仕へて黒田兵庫の與力なり、關ケ原の役、伏見より出奔せしとも、又は暇を乞ひ筑前を出國せしともいふ。(9)
 無二之助が十手を發明したのは、捕物の術を鍛錬し、旁ら劍技に秀でた所以である。吉岡との試合も尋常の如く、互に木刀でやつたものであらう。黒田の家臣菅和泉が初めは無二之助に就て劍を學んだといふから、諸州武者修行は刀術を表の藝として、十手は副技であつたらしい(10)
 武藏は天正十二年宮本村に出生し、幼名を辨之助といつた。父無二之助が浮浪中の生兒である。其後相携へて姫路に赴き、爰にて生長し、幼きより父に就て劍法を修業した(11)
武藏の幼名をタケザウと呼んだとの説あれど誤りであらう(12)。父無二之助は武藏の生れし時、骨格逞しく、將來非凡の勇士となるべき祥瑞を契つて、源義経の忠良たる武藏坊辨慶にも類〔アヤカ〕れとて、辨之助と名付た。成長の後武藏と更名したもの此所以である(雌雄劔傳)(13)
 
  【評 注】

 (1)二天一流
 「二天一流」とは宮本武蔵の二刀流の名である、というのは正確とは言いがたい。「二天一流」は武蔵後期の流派呼称であると思われるが、『五輪書』には、「二刀一流」とも称しているし、まだ林羅山の新免玄信像賛にも、「二刀一流」とあるからである。
 肥後でも必ずしも「二天一流」に限った名称ではない。むしろ肥後では、「武蔵流」という名称であった。これは、『二天記』を書いた豊田景英が提出した豊田氏先祖附でも、「武蔵流」と記している。あまり「二天一流」を強調しすぎると、事実と違ってくる。この点、誤解を生む記述である。
 二天一流が武蔵後期の流派呼称であるのに対し、以前は「円明流」と称していた、という説を立てるものもあるが、それは慥かことではない。それは、その円明流が武蔵固有の流派かというと、そうでもない、武蔵以前から円明流という兵法流派はあったらしい、ということからする理由ではなく、むしろ後世、円明流を名のった末流が、始祖を宮本武蔵とするうちに生じた遡行的構成の可能性がある、ということである。先祖は末孫によって生み出されるのである。
 スタンダードな武蔵論では、円明流から二天一流への展開完成を説くが、それは誤った図式である。武蔵が円明流の名を廃してニ天一流に改称した、などとするのは妄説である。
 しかしながら、円明流という名は武蔵以前から存在したともみえるし、また播州龍野の多田円明流の史料からして、「宮本流」の名があり、武蔵が円明流を排他的に使ったとも思えない。この問題については本サイトに諸論あり、それを参照されたい。  Go Back

 
 (2)二天記、丹治峰均自記、小倉の碑文、東作志等
 これはすべて、当時武蔵を語る者らが依拠した基本文献である。
 順に言えば、安永五年(1776)の序を有する『二天記』は近年まで最も依拠されることの多かった肥後系武蔵伝記である。武蔵小説のほとんどがこれをまず下敷きにしている。
 次に「丹治峰均自記」とあるのは、不審であるが、立花峯均のいわゆる『丹治峰均筆記』(享保十二年・1727)のことであろう。同書には、立花峯均の「自記」が収録されてあるが、これは峯均の兵法自伝であって、武蔵伝記ではない。むしろ、本書に収録されている「兵法大祖武州玄信公伝来」、これが武蔵の伝記である。こちらは筑前系の武蔵伝記であり、上記『二天記』よりも半世紀先行する早期の武蔵伝記である。
 「小倉の碑文」というのは、武蔵の養子・宮本伊織が、承応三年(1654)に豊前小倉の赤坂山(現・北九州市小倉北区赤坂 手向山)に建てた宮本武蔵碑のことである。新免武蔵玄信二天居士碑である。この碑文には武蔵を「播州英産」と誌すのをはじめ、武蔵の略伝記事がある。これが武蔵の伝記資料としては、最初のものである。
 正徳四年(1715)の日夏繁高『本朝武芸小伝』は、武蔵伝の早期の出現であるが、それにはこの小倉碑文を収録している。これにより、小倉碑文の内容が多くの諸書に孫引きされた、という経緯がある。
 「東作志」とあるのは、美作津山の松平家臣・正木兵馬輝雄による美作東部六郡の地誌『東作誌』のことであろう。同書は、十九世紀前期、文化十二年(1815)に一応の完成をみた。これより以前、元禄四年(1691)年の地誌『作陽誌』(江村宗晋撰・長尾隼人勝明編)があった。これは美作西部六郡のみの記事で、作州東部をカバーせず、全体は未完に終わっていた。正木輝雄の『東作誌』は、これを補完するため、残りの東部六郡の地誌として編述されたのである。
 武蔵の事蹟に関する考証諸説さまざまあっても、それらが依拠する文献はこんなもので、出所は知れているというわけである。  Go Back

 
 (3)批評的に参考の資料を撰擇し
 この前後で明確なように、山田は従来の考証諸説に批判的であって、いわば史料批判を行ないつつ武蔵を語ろうとするのである。
 《是等は参考の好著ではあるが、皆其門人系の崇拝熱から打算して筆を採た形跡があるので、餘程割引して讀破せねば武藏の眞を誤るのみか、却て其美を傷ける記事が散見する》とあるのは、その当否は別にして、山田らしい表現である。ともかく執筆のスタンスは近代的批評である。
 言うまでもないが、本書には数多くの剣客の記述言及があるが、これほど「気合」の入った文章は、他の記事には存在せず、ある意味で本書においても武蔵は特別な対象だったのである。  Go Back





*【新免玄信像賛】
《劔客新免玄信、毎一手持一刀、稱曰二刀一流。其所撃、所又捔、縱横抑揚、屈伸曲直、得于心、應于手、撃則摧、攻則敗。可謂、一劔不勝二刀。誠是非妄也、非幻也》














二天記


宮本武蔵碑(小倉碑文)
北九州市小倉北区


>岡山県立図書館蔵
東作誌
 
 (4)武藏の祖先は播州赤松氏の族で
 ここから武蔵の伝記部分である。
 武蔵の祖先は播州赤松氏の族である、というのは小倉碑文の、
   《播州英産、赤松末葉》
という記事に照らして明らかである。
 ところが、これに続く《新免伊賀守と謂て、揖東郡林田の城主であつた》となると、これは明白な誤りである。
 まず、新免伊賀守は、本サイトの他論攷で詳述されているように、作州吉野郡の竹山城を拠点とする国人である。播州揖東郡林田庄(現・姫路市林田町)とは無関係である。新免氏が林田城の城主だったという記録はむろん存在しない。むしろ、作州の新免氏が縁があるのは、同じ播州でも宇野氏の長水山城(現・宍粟市山崎町)の方である。新免宗貫は、長水山城主・宇野政頼の三男で、作州吉野郡の竹山城主・新免氏の養子に入った者である。
 いかなる史料に拠って、山田がこんな明らかな間違いを書いたか、不明である。全く根拠なき謬説である。
 おそらく山田の臆測であろうが、それは武蔵の出自を衣笠氏とする説と関わりがあるかもしれない。それにしても、林田庄の松山城に一時衣笠氏が拠っていたというに過ぎない。だが、天正の当時、衣笠氏は東播磨の明石郡の端谷城(現・神戸市西区)に拠っていた。  Go Back





秀吉侵攻前の播磨諸城図
 
 (5)武藏の父は其苗裔で、宮本無二之助一眞と呼んだ
 前記のことから、「揖東郡林田城主・新免伊賀守」なる者は存在しない。したがって、その苗裔が武蔵の父だというのも成立しない考えである。
 武蔵の父の名は《宮本無二之助一眞》である、とするのは、一部諸伝と同じである。このあたり山田は十分に批評的ではない。
 この「宮本無二之助一真」という名は、円明流実手家譜并嗣系に出ているもので、それによれば、右掲のような系譜である。ところが、何の関係もなさそうなこの「武蔵守正勝」が、実は宮本武蔵で、本姓は栗原氏、生国は播州揖東郡鶴瀬庄とある。ほとんど驚天動地の伝承である。むろん「揖東郡鶴瀬庄」なる土地があってのことであるが、そんな土地はない。栗原氏という氏も播州にはない。
 ここでは、宮本無二之助一真は、播州揖東郡栗原で死去という。「揖東郡栗原」というのもよく分からない話で、比定地は存在しないのだが、それよりも、記事の卒年から彼の生年を計算すれば元亀元年(1570)生れ、武蔵より十四歳しか年長ではない。宮本無二之助一真なる者を、武蔵の実父とするには無理があるというものである。
 円明流の宮本武蔵守吉元は、河内国錦郡生れ。その長男に宮本無二之助という人物が実在したとしても、武蔵より十四歳しか年長ではないこの人物を、武蔵の父親とするわけにはいかない。
    宮本無二之助   元亀元年(1570)生れ
    新免武蔵守玄信  天正十二年(1584)生れ
 また上記円明流実手家譜并嗣系に、宮本武蔵守吉元が慶長五年(1600)に卒した時、無二之助一真はまだ若年だったので、兵法の事は吉家に伝えられた、とある。
 「若年」というのは当時の語法では、年齢が十代の少年のことだ。慶長五年時点で若年だとすれば、元亀元年生れどころか、もっと後の生まれである可能性もある。
 無二之助一真が慶長五年時点でまだ若年(少年)だったとすれば、武蔵の親の世代というよりも、武蔵と同世代、数年の年齢差しかない。あるいは、年下の可能性さえあるということになる。
 以上のように無二之助一真の年齢に関しては、この円明流実手家譜并嗣系の記事は問題が多すぎる。
 我々は、こうした難点をもって、武蔵が「宮本無二之助一真」の実子だ、あるいは養子だ、という説を却下するに十分であるとみなすのである。これは随分むかしに決着がついていた問題である。
 ところが、どういうわけか、そんな基本的な年齢問題さえ知らないのか、いまだに武蔵の父は「宮本無二之助一真」だという説がむし返されている。これでは自分の不勉強を宣伝して歩いているようなものである。
 また一方、この「宮本無二之助一真」と作州の「平田武仁正家」あるいは「宮本無仁」を同一視してしまう説があるが、これは根本的な誤りである。作州の「武蔵の父」は、墓誌にあるように、天正八年(1580)五十三歳で歿、つまり享禄元年(1528)生れということになる。したがって、
    宮本無二之助  元亀元年(1570)生れ
    平田武仁正家  享禄元年(1528)生れ
 ようするに、この二人の「武蔵の父」の年齢差は、なんと四十二歳である。どう見ても、二人を同一視するわけにはいかない。それに、生国についても一方は美作、他方は河内である。
 しかも、円明流実手家譜并嗣系の尻をみれば、この伝承記録は青木金家の孫弟子世代あたりの成立である。時期としてみれば、かなり遅い成立であり、史料的価値は低い。ところが、これが近代になって「発掘」され、山田次朗吉や堀正平などが権威づけたから、一時は大成功した謬説だったのである。
 もう一つ言えば、「宮本」という姓である。宮本伊織による泊神社棟札(兵庫県加古川市)によれば、宮本という姓は、武蔵が新免から宮本へと改氏したことによるのである。とすれば、武蔵の「父」の名が「宮本」であるはずがない。この点、山田次朗吉は諸伝と同様に間違っているのである。
 泊神社の伊織棟札、もちろん山田はこれを知らない。それゆえ諸伝の記事を鵜呑みにしたものである。もし山田が伊織棟札を知っていたら、別の説になっていただろう。
 この鉄人実手流の伝承は、「宮本無二之助一真」なる人物とその子「宮本武蔵守正勝」なる人物の名を伝えたのだが、前者は作州の「平田武仁」はむろん、小倉碑文の「新免無二」とも別人であろうし、後者は「新免武蔵守玄信」とは無関係である。
    宮本無二之助一真 >< 新免無二
    宮本武蔵守正勝 >< 新免武蔵守玄信
 これを混同するのは、もとより誤りである。ところが、円明流系譜をみるに、混同どころか、「宮本武蔵守正勝」は宮本武蔵をモデルにした人物らしいのである。
 その記事を一通り見てみよう。――宮本無二之助は妻帯せず実子はなかったが、甥の虎之助を養子にして育てた。虎之助は無二之助の姉の子で、本氏栗原、播州揖東郡鶴瀬の庄の生れである。宮本無二之助は甥の虎之助に家を継がせ、自身は入道して一真と称して、京都の三條に居住していた。そうして我が名、武蔵守を虎之助に譲って、その後播州揖東郡に移り、姉聟栗原の何某を頼て暫く居住し、同地で卒去した。
 栗原虎之助、改め宮本武蔵守正勝は、十四歳のころから深く兵術を心懸け、十五歳の春古郷を出て、坂東に下り、武者修行して関東八州を経廻して、その後下総国に至り、寺本坊権大僧都に願って、「兵法九字劔法之秘密」を相伝、飛業奇特をあらわした。その後九州筑紫に下向して、ますます修行に勤め、門弟数輩を伴った。このころ豊前の住人で、「日域無双岩流」という一刀に名高き者、正勝が当国に来たるを聞いて、試合を求めた。結果は、正勝が即時に岩流を撃殺。その後正勝は豊前に留まり、やがて法流を改めて「武蔵流」と称するようになった。
 正勝には養子があって、一人は筑後国生れの宮本無右衛門正次。本姓水田、幼名虎法師。正勝は豊州に居住し、諸士を門人としていた。正次は益々当流の奇業を学び、九島無双の印紙を著した。後に肥後国に住んだ。正次の門弟は肥後筑後の両国に多い。また、正勝は、加藤清正の旗本と懇志を結び、孫の伊織助という者を養子にして一流相伝した。後に伊織助は豊州小倉城主・小笠原右近太輔忠政に仕えた。器量あり、身を立て、家老となって、その子孫累代、伊織之助という。――というのが、「円明実手流家譜并嗣系」の説話である。
 さて、「日域無双岩流」と対戦し、またその決闘地を「此所を岩流嶋と名く」とあるから、播州揖東郡鶴瀬庄生れの栗原虎之助、改め宮本武蔵守正勝は、我々の知る宮本武蔵をモデルにした人物だと知れる。いろいろ類似点もあって、事実と近接する部分もあるにはあるが、明らかに後世伝説化された宮本武蔵である。
 むろん、十五歳の春故郷を出て、坂東に下り、武者修行して関東八州を経廻して、その後下総国に至り、寺本坊権大僧都に願って、「兵法九字劔法之秘密」を相伝、飛業奇特をあらわしたというあたり、およそ武蔵の所行とは似つかないもので、しかも、京都での対吉岡戦の事跡が脱落している。それゆえ、五輪書や小倉碑文の記事とは別のところで発生した伝説のようである。
 あるいは、「豊州の住、日域無双岩流」との試合では、場所を長門国「柳が浦」という小嶋とする。「此所を岩流嶋と名く」とあるから、これが巌流島であるのは間違いのだが、「舟島」の名は出てこない。これは巌流島決闘が演劇で有名になった以後の、伝説変形であろう。
 無二・武蔵について、後世に誤伝が多く発生した。宮本無二之助一真と宮本武蔵守正勝は、新免無二と武蔵を祖形にして伝説変形された架空の人物である。ところが、近年においてさえ、そんな後世の誤伝に依拠して、似たような誤りを繰り返している者がある。誤りは反復されるもののようである。  Go Back



*【円明流実手嗣系】

○宮本大蔵大輔家元┐
┌────────┘
├宮本武蔵守吉元―宮本無二之助一真
│  円明流権輿   実手当理流 │
│┌───────────────┘
│└宮本武蔵守正勝┬宮本無右衛門正次
│    武蔵流 └宮本伊織勝信

├青木常右衛門吉家―青木鉄人金定┐
│┌──────────────┘
│└青木鉄人金家─┬青木弁右衛門
│  鉄人実手流 ├青木与四郎家久
│        └青木藤五郎

└青木常右衛門家直┬青木常右衛門直継
      休心 └青木次郎左衛門


*【円明実手流家譜并嗣系】
《 同宮本無二之助藤原一眞
      字虎千代丸。後に武藏守と改む
一真ハ前武藏守吉元の実子なり。吾父の遺符あるを肝心し、日夜家術を学び、一年洛陽に於て劔法吉岡と云者と仕逢をとげ、忽勝利をゑて、其名諸國に振い、其後自徳を以て流儀を改め、実手当理流と名く。娚の虎之助と云者を養て、当家を令継、其後入道して一眞と改名す。都三條に居住する事年あり。然して我が名を猶子に譲て、後播州揖東郡に越、姉聟栗原の何某を頼て暫く居住し、於此所卒去す。行年五十三歳。
傳云、一真光蓮和尚に願て、支天慈眼之秘明を令相伝、常身躰塵穢に不交、朝日垢離を取、常に潔斎して、已に蒙無常道を心懸、甚孝心を尽す。一生妻合を離て専ら勇道を眼とせり。
傳云、一真吾流之高壇相続を思事切にして、我父の遣符せる大箱之開見を深く慎み、殊更叔父が老年を歎て、当家の巻器を従兄吉虎に譲ん事を思へり。彼れ吾と同歳たり。雖然其器象大勇にして天骨人に勝り、必も向壇相続せば、万人之師資と成て、当道之後栄勿ん事を思惟し、此旨伯父に談じて、一子伝承之明道、即吉虎に許譲せん事を述る。雖然吉家深く此義を辞す。頻に其存念を歎き誓て是を理す。其無止事及して、当流秘承愚息右馬之允に令付嘱。是一真孝心之深き故、家栄を思て私を去るの実也。
吉家亦兄の遣命其重恩不忘、内傳之秘術、色胎之両壇并真剣兵道之二鏡、不残一真士に令相伝、殊更吉元之秘器剣印を渡すもの也。尤も此比一真が左剣に合もの世に又なかりき》





泊神社棟札




*【円明実手流家譜并嗣系】
《 同宮本武蔵守藤原正勝
      本氏栗原。字虎之助
正勝ハ無二之助の猶子也。生國ハ幡州揖東の郡靏瀬の庄にて出生す。本姓ハ栗原。年僅十四の比より深く兵術を心懸、其十五歳の春古郷を出、坂東に下り、武者の難行を執行し、長生に随て八州経廻して、士薗の深底を尋ね、其後下総の國に越て、寺本坊権大僧都に願て、兵法九字劔法之秘密を傳へ、飛業奇特をあらはせり。中比筑紫に下向して、益々執行を励し、門葉数輩を倶ふ。此時豊州の住日域無双岩流といゑる一刀に名高き者、正勝が當国に來るを聞て、威光を争ひ、城下に札を立、仕逢を覓む。正勝其志を感じ、即答札を立、別日を定、時を約して、長門國柳が浦と云小嶋に於て令劍闘。彼ハ眞劔也[青江作二尺七寸]、正勝ハ木刀也。猶有思、其切先五寸を短くして立向ふ。誠に命期の一剣、其長短を不論と云事、歴然也。則戰て岩流を即時に撃殺せり。惜哉岩流、強氣を頼て兵理を空し、已に命を縮む。是よりして此所を岩流嶋と名く。猶當國に震り、其後法流を改て武蔵流と名く》
《傳云、正勝、中比加藤清正卿の旗本出入しめ懇志を結び、孫の伊織助と云者を養子として、一流口傳し、後に豊州小倉の城主小笠原右近太輔忠政卿之従属となす。有器量、身を立、已に家宰と成り、其累葉代を伊織之助と云り。
傳云、清正卿、中比先蓮和尚に願て、卯剱之口伝を受く。亦常に鎌鑓を好て、吉元を為師範、月剱之口伝を受り。其由緒に依て正勝を近け、甚懇祐せり》
 
 (6)遺跡顯彰會の宮本武藏傳に由れば
 以下、有名な美作説批判の部分である。
 この「遺跡顯彰會の宮本武藏傳」とあるのは、熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会による明治四十二年(1909)の『宮本武蔵』のことである。これは武蔵美作出生説を通説化するほど影響力のあった書物であった。
 山田の批判は、こうだ。――この説は作州英田郡宮本村を武蔵出生の地とし、平田武仁少輔正家・同人妻於政と誌す墓碑を、無二齋の墓と断定するが、この墓碑には平田武仁の歿年が天正八年となっていて、これは武蔵の生年・天正十二年と矛盾する。ところが、彼らは天正八年は十八年の誤刻であろうと説明する。そして武蔵が『五輪書』に自ら「生国播磨」の武士と書いているのさえ疑うが、彼らに確証があるわけでもない。宮本村にあるこの墓も、果して無二齋のものかどうかはっきりしない。まして、石碑の歿年天正八年は十八年の誤刻だ。などというにいたっては、殊更牽強に近き説なり。
 これは作州宮本村説の弱点を直指したもので、その後、この難点を克服する新史料は出現していない。顕彰会本武蔵伝記は、『東作誌』(あるいは、むしろ矢吹正巳の所説)に依拠するもので、それ以上のものではない。
 美作説の最大の難点は、『五輪書』に「生国播磨」とあるのに、あえて違背するすることだが、これも不条理な心性である。墓碑には平田武仁の歿年が天正八年となっていて、これは武蔵の生年・天正十二年と矛盾するが、それは墓の没年刻字を間違えたと強弁する。
 これとまったく同様の強弁は、現在でもみかけるところである。武蔵を播磨印南郡米田村で生れたとする説があるが、その論法に再現されている。すなわち、武蔵の養子・伊織が建てた田原家の墓碑が、播磨の三木箕谷や、京都深草の宝塔寺にあるが、そこには米田村説が武蔵の実父だと主張する甚右衛門家貞の没年と武蔵の生年に懸隔があるのである。つまり、武蔵の生年は前記のように天正十二年、家貞の歿年は天正五年である。この七年の差は、美作説の四年より大きい。
 このように石碑に明白に刻印されている以上、書き換え変更もならず、伊織末孫が十九世紀半ばに作成した小倉宮本家系図では、この歿年生年の矛盾をそのままにして記載している。
 これについて、現在米田村説を主張している者らは、やはり同じように、墓碑の歿年が誤刻・誤記だという強弁をもってするという、「殊更牽強に近き説」を反復するのである。まさに、歴史は繰り返す、である。  Go Back

平田武仁夫婦の墓
天正八年の刻字がある
岡山県美作市宮本




京都深草の田原家墓所
深草山宝塔寺 京都市伏見区
伊織と兄弟による祖父母墓(右)
同・両親墓(中央)、伊織玄昌の墓(左)
 
 (7)いほ川の支流淵岸宮本村の人
 武蔵の父「宮本無二之介一真」が「いほ川の支流淵岸宮本村の人」だというのである。
 むろんこの「宮本村」は作州のそれとは違う。『播磨鑑』が武蔵を「揖東郡宮本村の産」とするその宮本村のことである。
 山田は『播磨鑑』の記事を知っている。問題の顕彰会本『宮本武蔵』と同じ頃、刊行されていたからである。この点、一日の長が山田にはある。山田は『播磨鑑』の記事から、武蔵の「父」はこの揖東郡宮本村の人としたのである。
 当地が武蔵の産地である以上、武蔵の実父(彼が何者か今もって不明だが)の居住地だというのは、論理的には正しい。しかし、「宮本無二之助」なる者がその存在さえ疑わしいのであってみれば、揖東郡宮本村住人のこの武蔵の父の名は「?」としておくべきであろう。
 なお細部にわたるが、この「いほ川」というのは、揖保川のことである。山田は「揖保」の訓み方を知らないから「いほ」と書いているが、これは播磨風土記の上古から「いぼ」と読むべき地名である。
 この川の支流とは林田川のことである。どうやら山田は、この林田川の沿岸は林田城城主の支配地と勝手に思い込んだらしい。それで、「林田城主新免伊賀守」の苗裔といった珍説を開陳してしまうのである。宮本村は中古より石見荘、ここは龍野城主・赤松氏の支配地である。
 しかも当地は海岸部で、川上の林田とはそもそもエリアが違う。林田川沿岸というが、この宮本村のすぐ南で林田川は本流・揖保川と合流する。この近辺は古代の河口港、かなり大きな前方後円墳が多数雲集する山塊が対岸にある。
 武蔵の「父」当時、当地の本城は、林田城ではなく、赤松広秀の拠った龍野城である。こういうことも、現地の歴史をよく知らねばわからないことであろう。
 つぎに、《赤松圓心の曾孫別所長治に事へて》とあるが、これも初歩的な誤謬である。赤松円心は南北朝時代の人で足利尊氏の同盟者、別所長治は天正年間に信長・秀吉に滅ぼされた者、少なくとも二百年以上の隔たりがある。これが曽祖父/曾孫だとは、山田は奇妙に思わなかったのだろうか。話は杜撰である。
 武蔵の「父」は、たしかに別所長治の同時代人であろう。しかし、揖東郡宮本に居たこの「父」が三木城に拠った別所長治に仕えたという記録はどこにも存在しない。しかし当地を本拠とする石見氏兄弟が、別所長治に与して秀吉軍と三木城で戦い、敗走して滅んだという事実はある。
 さらに、《十手の術の妙手と稱せられた》とある。この十手術の初出は、宮本伊織建碑の小倉遺文である。《父新免、無二と号し、十手の家を為す。武蔵、家業を受け、朝鑚暮研す》(原文・父新免號無二為十手之家武藏受家業朝鑚暮研)とある部分がそれである。
 すべての武蔵伝記はこの記事により、武蔵の父「新免無二」を十手の達人とする。この十手は、時代劇の捕物帖に出てくるような、ああいう小さい道具ではなく、十字形の比較的大きな武器である。
 それとともに言うべきは、まだこの時期では戦闘の武器は刀剣に特化していない、さまざま多様な武器がありえたということである。それは美学からではなく、あくまでも実戦から導き出された武器である。  Go Back

 
 (8)無二之助は浪人となつて諸國を徘徊した
 天正八年(1580)、三木城の落城とともに別所氏は滅んだ。そうして別所長治に仕えた武蔵の父は、主君なき浪人となって諸国を流浪したというのである。
 このあたり、山田は通説となっていた物語を故意に遠ざけている。つまり、武蔵の父は、主君の新免伊賀守宗貫と行動をともにし、関ヶ原合戦で敗走したとするのが、その説話だが、山田はこれに対し、それより二十年も早い三木合戦での敗走を対置して示すのである。
 上記のように石見氏の事例があるのだから、揖東郡宮本村の住人であるはずの武蔵の「父」が三木城での決戦に別所方として参加したことはありえないことではない。とはいえ、それを記録した史料は何も存在しない。いずれにしても、武蔵の「父」に関する記録はほとんど無きに等しいのである。
 これにつづく、京都で吉岡と試合をして、三番に二番の勝利を得て、「日下開山天下無双」の称号を得たという記事は、小倉碑文の記事からくる。これは武蔵がその家を継いだ新免無二のことである。山田次朗吉は、宮本無二之助一真を武蔵の実父とみなし、そして新免無二を宮本無二之助一真と混同しているのだから、こういう記事になるわけである。むろん、山田のこの誤認には、時代的な制約があったのである。
 しかし、三木落城後に、無二之助は浪人となって諸国徘徊して、京都で吉岡と御前試合をしたとなると、これは時代の錯誤がある。足利義昭が信長にかつがれて京都で将軍であったのは、これより十年ほど前のことである。
 山田次朗吉のこうした一連の説は、諸史料のつまみ食いで、根拠なきストーリーをデッチあげたものである。  Go Back




宮本村周辺図
天正期の拠城










三木合戦絵図
別所長治の菩提寺・法界寺蔵
兵庫県三木市別所町東這田








三木城址・別所長治句碑
兵庫県三木市上ノ丸町


 
 (9)或る書に云
 山田次朗吉がここで拾っている或る書とは何か、それは不明である。「兵法大祖武州玄信公伝来」(丹治峰均筆記所収)には、宮本無二が黒田兵庫助の麾下にあったという記事がある。
《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族。父ハ宮本無二ト号ス。邦君如水公ノ御弟、黒田兵庫殿ノ与力也。無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟数多アリ。中ニモ青木條右衛門ハ、無二免許ノ弟子也》
 むろんこの筑前の武蔵伝記には、我田引水のところがあり、そのまま信憑できないが、こうした「それからの無二」が黒田家家臣として禄を食んだという説話が、筑前黒田家中で言い伝えられていたのである。
 しかし、山田次朗吉のいう或る書には、無二之助は元法華宗の僧で、二刀の術を覚え、黒田長政に仕えて黒田兵庫の与力だった、関ヶ原役のおり伏見から出奔したとも、又は暇を乞い筑前を出国したともいう、とあるのだから、これは『丹治峯均筆記』とは違う文書である。
 無二之助が元法華宗の僧で、というのは一見面白いが、これは九州のローカルな伝説であろう。おそらく、山田が見たのは、鉄人流伝書とも違う十九世紀の文書であろう。  Go Back



 
 (10)無二之助が十手を發明した
 これは事実ではあるまい。十手そのものは昔から存在したからである。山田がここで十手の発明というのは間違いであろう。
 同様に《捕物の術を鍛錬し、旁ら劍技に秀でた所以である》というのも胡乱な話である。十手となるとすぐ「捕物」術を連想するのは誤りで、十手はそれ自体が武器である。
 むしろ言えば、この十手術がおそらく種々の格闘技を含む戦闘術であったことだ。無二の十手の家は、伝統的な総合的戦闘術を伝承したものであったかもしれない。
 しかし溯って言えば、弁慶の七つ道具である。本来の道具は長刀〔なぎなた〕・箙刀〔えびらがたな〕・首掻刀〔くびかきがたな〕・小反刃〔こそりば〕・熊手であるが、後世の絵は、鉞〔まさかり〕・袖がらみ・槌・鋸・鎌・刺股〔さすまた〕と入れ替わる。義経記に、
《むさし坊はわざと弓矢をばもたざりけり。四尺二寸ありけるつかしょうぞくの太刀はいて、岩とおしという刀をさし、いの目ほりたるまさかり、ないかま〔薙鎌〕、くま手、船にがらりひしりと取り入れて、身をはなさず持ちける物は、いちいの木の棒の一丈二尺有りけるに、くろがねふせて上にひる卷きしたるに、石づきしたるを脇にはさみて》
とある。こういう諸道具を武器にしたというのは、あながち間違いではなく、戦場の武器は多様でありえたわけだ。これは推測に過ぎないのだが、「十手」という名の起源は、十文字型の道具によるものではなく、そうした多種多様な道具を使う武芸であったのかもしれない。
 現在ものこっているが、竹内流という古武道がある。天文元年(1532)、忽然と現れた異人に短刀による捕手五件と蔓による武者搦の技を伝授された、美作国垪和郷の竹内中務大輔久盛によって創始されたとの伝承をもつ。小具足(短刀術)、破手(柔術)、棒術、斎手(剣術)、抜刀術、薙刀、鎖鎌などのほか、十手、鉄扇、如意、延鉄 、手裏剣も含むというから「総合武道」である。
 武芸が専門化した近世では考えられない多様性だが、これが武芸の「古型」であろう。
 ところで、山田は「菅和泉守」に言及する。これは、黒田二十四騎の菅六之助正利(1567~1625)のこと。播州以来の黒田家家臣で軍功により出世して、筑前入部後は三千石知行まで行った。
  後藤又兵衛ほどではないが、豪傑で知られた人で、逸話も少なくない。朝鮮の役の折の虎退治は実はこの六之助だという話もある。
 管氏は元来は美作の家系であるが、管六之助の祖父のとき播州へ流れて来て、揖東郡越部村〔現・兵庫県たつの市新宮町市野保〕に居ついた。越部の構居に居たらしいが、むろん美作管家の傍系である。その後、父の代で没落して、六之助は、当時姫路城に拠った黒田官兵衛に仕えた。六之助は十六歳、天正十年の頃である。
 菅氏世譜によれば、この管六之助が無二から教えを受けたとするのだが、それがいつの時かはっきりしない。六之助が生まれ育った越部村は、先述の林田のすぐ隣の地域で揖保川西岸である。宮本村からでも二里ほどの距離である。そういうことから、山田はこの「菅和泉」の話題を出したのだろう。
 つぎに、《刀術を表の藝として、十手は副技であつたらしい》とする。これは前述のように、十手は本来それ自体十分な武術であったから、剣術が主で十手は副、という山田の解釈は、正しいものではなかろう。
 山田は自身が剣術師範であったし、十手術そのものの実感がない近代の人である以上、こういう理解もやむなしではあるが、あれほど、無二と言えば十手というほどに、強調して伝えられているのである。これをたんなる副技とみなすことはできない。
  言うならば「剣のイデオロギー」が山田をしてそう解釈せしめるのである。単なる捕縛術ではないこの十手術の元型復元が必要であろう。  Go Back




円明流実手 三學眞



古武道竹内流発祥の地
竹内流宗家道場
岡山市建部町和田



管六之助虎退治
大宮八幡宮屋台高欄掛
兵庫県三木市本町
 
 (11)武藏は天正十二年宮本村に出生し
 この出生年と出生地の出典は、言うまでもなく、『五輪書』と『播磨鑑』である。『五輪書』が記す「年つもりて六十」から逆算しての、天正十二年(1584)であり、また『播磨鑑』の「揖東郡宮本村の産なり」とする記事から、これをいうのである。
 このかぎりにおいて山田は正しいが、問題はそれに続く記述である。
 すなわち、第一は幼名が「弁之助」だとすること。だが、これを証する確実な史料がない。伝説化した諸伝記の記事しかない。いまだに堂々と、武蔵の幼名は弁之助だと述べて憚らない無邪気な書物が多い状況だが、我々はむろんこの幼名問題に関して保留すべきであろう。
 第二点は、山田が言うような「父無二之助が浮浪中の生兒である」とするのが正しいか否かよりも、問題は、武蔵がこの「無二之助」の実子だとする説である。
 泊神社の伊織棟札によって、我々がすでに知っているのは、新免無二は後嗣なく死んで、その家はいったん絶えたが、のちに武蔵がその新免無二の家を相続し再興したこと。つまり、武蔵は新免無二の実子ではなかった。すなわち、武蔵の実父は、この「新免無二」そして「宮本無二之助」とは別人であることである。したがって山田の実子説は、泊神社の伊織棟札に依拠する限りにおいて、誤りとして却下されるべきである。
 さしあたり、武蔵には父親が六人もいるということになる。すなわち、
   (1) 武蔵の実父    ?  (播磨鑑の播州揖東郡宮本村)
   (2) 武蔵の義父   新免無二(伊織棟札および小倉碑文)
   (3) 作州の実父1  平田武仁(平田氏系図)
   (4) 作州の実父2  平尾太郎右衛門(平尾家総領代々書上)
   (5) 播州の実父   田原甚右衛門家貞(小倉宮本氏系図)
   (6) 誤伝による父  宮本無二之助一真(鉄人流伝書)
 このうち、(3)~(5)の三人も、想像上の虚構誤伝の父であるが、(6)の宮本無二之助はそれらとは違い、融通無礙で、他の全てと同一視されうるという特徴があって、応用がきく。宮本「無二斎」などというのは論外だが、新免無二之助信綱(武公伝、二天記)、新免無二之助一真(小倉宮本氏系図)、新免無二一真(黒田家分限帳)など、「新免」姓と取り替える例も多々現れた。
 したがって武蔵の「父」に関する諸説を整理したい向きには、どれをどう混同しているか、どれを流用しているか、上記の父リストで判別できるであろう。
 かくして、山田のばあいは、宮本無二之助を(1)の本来「?」である武蔵実父と同一視したというわけである。
 つぎに、《幼きより父に就て劍法を修業した》とある。この記述も、前項後半部と同様に、何の根拠もない空想である。
 とりわけ「其後相携へて姫路に赴き、爰にて生長し」とあるのは、いかなる根拠史料によるものか、まったく不明である。おそらくは、先に管六之助を出したことからすれば、山田は武蔵の父が六之助を姫路で教えたと前提して、武蔵一家は姫路で生活しており、武蔵もそこで生長したという話の道行なのだろう。
 要するに、山田説では、武蔵は揖東郡宮本村に生まれ、その後、父とともに姫路へ行き、そこで育った、父から剣術を仕込まれたということなのだが、この武芸者「無二之助」が武蔵の実父だという前提が間違っている以上、これはありえないことである。
 むしろ逆に、泊神社の伊織棟札の記事からすれば、武蔵は、無嗣断絶した新免無二の家を嗣ぐが、それは無二歿後のことである。これは新免無二家が断絶した後の相続であり、無二生前に武蔵がこの「義父」と会ったことがあるかないか、それさえ確かではないのである。
 しかも、この新免無二という「父」が、天正年間に筑前秋月城で死んだとあるからには、これが仮に天正末年だとしても、天正十二年生れの武蔵は七~八歳にしかならない。だいいち、晩年の痕跡が九州にしかない無二が、姫路に在りえたとすれば、武蔵の幼児期数年のことであろうから、とても剣術指南のできる年齢ではない。
 ようするに、これも山田次朗吉の想像による物語なのである。  Go Back





宮本武蔵生誕之地の碑
兵庫県太子町宮本





武蔵産地三説マップ
 
 (12)幼名をタケザウと呼んだとの説
 吉川英治は小説『宮本武蔵』のなかで、武蔵の名を「たけぞう」としている。いわばこの物語は「たけぞう」が「むさし」に成長完成する修養小説なのである。
 巷間散見される説に、これを吉川英治の発明とするものがあるが、それはこの山田の記述によって誤りであることがわかる。
 武蔵を「たけぞう」と読むというアイディアは安易なもので、だれでも思いつきそうな命名である。ところが興味深いことに、武蔵を「たけぞう」と読むのを指弾する者が、これを吉川英治の発明と誤認するのである。吉川の不当な捏造だと。
 しかしわざわざ新規に捏造するまでもなく、このように、以前からこのアイディアが存在していたのであってみれば、「たけぞう」は吉川英治の発明だという攻撃は、濡れ衣であるとともに、誤解から生じた勲章授与でもあったわけだ。  Go Back

 
 (13)武藏坊辨慶にも類れとて
 ここに言う「雌雄劔傳」は未見の書であるが、山田の記述から大よその内容は知れる。「弁之助」という幼名は、将来非凡な勇士になれと武蔵坊弁慶にあやかって付けた名だという伝説である。つまり、弁慶の「弁」だというわけだ。
 これがどれだけ信憑性があるか、それは問題にするほどのことでもないが、こうした命名の由来説話は、その名が知れわたってはじめて出てくる話である。おそらく早い時期のものではあるまい。
 弁慶から「弁」の字をもらって幼名をつけたのだから、本人が大きくなって、今度は自身が「武蔵坊弁慶」の「武蔵」を頂戴したなどとは、いかにも当時俗受けしそうなわかりやすい話である。
 弁之助という幼名も、じつは、精神分析の自由連想法のように、
   武藏 → 武藏坊弁慶 → 弁慶 → 弁之助
といったぐあいに出来上がって世間で流通した命名説話だった可能性が大きい。いずれにしても、武蔵の幼名は弁之助だといまだに無邪気に信じている向きには、こういうプロセスの媒介項たる「武藏坊弁慶」を想起させることが、その蒙を啓く方法であろう。
 宮本武蔵の「武蔵」は、本人が記しているように「武蔵守」が正しい。先述の管六之助が「和泉守」を名のっていたように、この世代の武士の慣習として「○○守」なのである。おそらく多数の武蔵守が存在し、また宮本武蔵守某々を名のる者は幾人もいたはずである。武蔵守は、排他的な名称ではなかったのである。
 天下泰平になって世の中が変り、こんな官位称号の公的権威をパロディ化するみたいな慣習に目くじらを立てる官僚が出てきて、こうした官位自称の風習が廃れるようになっていったのである。
 したがってこういう伝説が生じるのは、こうした「武蔵守」の変遷経緯が忘れられてしまった後世のことなのである。 Go Back




吉川英治 『宮本武蔵』
大日本雄辨會講談社







武蔵坊弁慶像
和歌山県 田辺駅前

 
武藏は一生不犯にして妻帯しなかつた故、實子がない。そこで三人の養子をした(1)。長を八五郎、後に伊織と改めたは播州印南郡米田村の岡本甚兵衛といへる者の子で、其實母は武藏の叔母である(2)。(二天記を始め多くの書に武藏が會津を漫遊の砌、途に泥鰌を掬へる里の童ありて、武藏其鰌を求め、道に迷ふて原中の孤屋に宿を借りしに、計らざりき先に鰌を求めし兒の家にて、父の臨終に際した時であつて、武藏之を手傳ひ葬り、其子を勤めて養育したる者が後の伊織だと出てゐる。之を受嗣で近來の武藏傳にも實事の如く記せど、素より小説にして取に足らず)(3) 次男は造酒之助(4)、三男は九郎三郎で(5)、後年伊織を携へ豊前小倉に赴いた時。細川は國替にて肥後に移封して豊前は小笠原右近太夫の封地であつた。然るに小笠原忠眞兼てより武藏の驍名を聞て厚遇し、荐りに勤仕を申込んだが武藏は應じない、情に絆されて一子伊織を奉仕せしめて己れは後見役となつた。此伊織も劍は素より、才能あつて次第に登用せられ、後には小笠原家家老の職を勤めたといふことである。武藏の建碑は伊織の志願に成つたものだ(6)
 次男の造酒之助は播州姫路、本多中務大輔忠刻の小姓となつて、寛永三年五月主君卒去の際殉死を遂げた。三男は九州にあつたとも、又姫路とも今は之を詳にしがたい(7)
 

 【評 注】

 (1)一生不犯にして妻帯しなかつた
 武蔵が「一生不犯」だったというのは聖人伝説の要件たる一項であって、むろん、それが事実であったという根拠はない。こうしたことを無邪気に書いてしまうナイーヴさを、山田以降の武蔵論も継承した。
 妻帯しない武蔵の逸話としては、『丹治峰均筆記』〔兵法大祖武州玄信公伝来〕に、以下のような記事がひっそりと書いてある。

《老年に及んで思いもの〔愛人〕があった。その腹に女子が生れた。武蔵はこの子を溺愛した。だが、その子が三歳の時、病気で急死してしまった。武蔵の悲嘆は限りなかった。朝から夕方まで死児の骸を膝に抱いて歎き通した。周りの者があれこれ勧め慰めても、一向に耳に入らない。武蔵には似合わざる有様だと随仕の面々も言う。夕暮れになって、武蔵は急に立ち上がり、その屍をつかんで、するすると縁側に出る。と、眼より高くその屍を差し上げ、「えい」と云って踏石の上に投げつけた。そうして、扇を取って立ち出でて、
  「嶺の雲、花やあらん、初桜」
と「湯谷」〔ゆや〕の曲を舞った。その後は、死骸を葬ったかとさえ問いもしなかった。武蔵は生涯その女の噂はしなかったという》
 これは説話としてよくできている。この伝記の中で最も秀逸な説話である。作家なら、使いたくてウズウズする逸話である。しかし、これも実話かどうかとなると、やはり確証はない。『丹治峰均筆記』の立花峯均は、筑前黒田家中の二天流相伝者だが、同じ筑前二天流でも早川系には、こんな伝説はなかったようである。
 武蔵が妻帯しなかったのはたぶん事実だが、「一生不犯」ということになると、これは根拠はない。諸伝に島原の太夫や吉原の遊女との関係その他を説くからではない。
 たとえば、少なくとも明治期までは、妻帯はしないが蓄妾はする、というセクシュアリティの慣習が存在していた。現在のセクシュアリティからすれば、妻がいないのに妾をもつというのは理解しがたいだろうが、婚姻に関する思想もずいぶんと違っていたのである。
 それにもう一つ、男色というセクシュアリティのことがある。当時のセクシュアリティからすれば、衆道、男色という同性愛は異常性愛という観念はなかった。同性愛は異性愛とほとんど同列のことであった。
 戦国期、武士たちの間に男色が目立って流行しはじめる。そこには男性集団の緊密性が性的紐帯によって支えられるという新しい気風があった。
 幕藩期の衆道は男色の美意識と武士道の尚武は近縁性のあるもので、死とエロスの親縁性とパラレルである。ことに江戸初期、死を賭した「恋」として、仇討や殉死が頻発したのである。
 武蔵が、三木之助や伊織を養子にしたというのは、この衆道の慣習から理解する必要がある。養子縁組と少年愛とは密接な関係にあったからである。とはいえ、これについては何の記録もない。当時のセクシュアリティの様式からそう言えるというだけである。
 いずれにしても、山田のこのような近代の通念をもって、武蔵を「一生不犯」の道学者流にしてはならないのである。  Go Back






*【丹治峯均筆記】
《老年ニ及ンデ思ヒモノ有。其腹ニ女子出生セリ。甚寵愛セラル。三歳ノ時不圖病死ス。武州、悲嘆無限、朝ヨリ夕ニ至マデ小児ノ死骸ヲヒザニ置キ、ナゲキクラサル。サマザマスヽメ慰テモ、更ニ聞受ナシ。武州ニハ不似合仕形ト隨仕ノ面々モ申ス。暮ニ及ンデフツト立揚リ、カノ死*ヲヽツトツテ、スルスルト縁ニ出、目ヨリ高ク指上ゲ、「ヱイ」ト云テ蹈石ノ上ニ打付、扇取テ立出デ、「嶺ノ雲花ヤアラン初櫻」ト、湯谷ノ曲舞ヲマハル。其後、死骸ヲ葬リタリヤ共問玉ハズ。生涯、其女ノ噂サナカリシトイヘリ》



能 「湯谷」(熊野)
熊野松風は米の飯ともいう
 
 (2)播州印南郡米田村の岡本甚兵衛といへる者の子
 本サイトの諸論でしばしば登場する宮本伊織に関する記述である。
 山田は伊織を最初の養子とみなしている。伊織が何番目の養子かという問題は、我々の武蔵論にとってどうでもいい問題だが、いちおう次の点は指摘しておくべきであろう。
 すなわち、この「印南郡米田村の岡本甚兵衛といへる者の子で、其實母は武藏の叔母である」というところである。
 これは、本資料篇所収の楠正位「水南老人講話 宮本武蔵」によるものらしい。最近でこそ、伊織の出自は印南郡米田村の田原氏だという説が確定的になったが、大正期にはまだこうした山田のような説が可能だった。むしろ『日本剣道史』のような権威ある書が、このように書いていたのである。
 この「岡本」という姓が出てくるのは、十八世紀前半に、因幡国鳥取で興った「武蔵円明流」の伝系である。中興の祖とされるのは、岡本勘兵衛正誼(1698~1753)、『播磨鑑』の平野庸脩と同時代の人である。彼は諸国武者修行して、鳥取にやってきて道場を開き、家中の師範と仕合をして名を挙げ、松平兵庫頭(定就か)に召抱えられたという。そうして岡本勘兵衛は、因州鳥取で「武蔵円明流」を号したのである。
 その流派伝承によれば、俊乗房重源の剣術を八尾の別当顕幸が伝承し、そしてそれが、いかなるわけか「楠正成公の臣」(?)赤松円心に伝わり、円心は猶子の岡本三河房にこれを伝授した。そうして、岡本三河房八代の裔、岡本新右衛門義次に伝承され、これが備中蘆森(足守?)城主。新右衛門の二男・岡本小四郎は、父の流儀を受継ぎ、宮本武蔵守義貞と称した。新右衛門三男が岡本馬之輔祐実、この人は兄の小四郎に学び、以下この系統で数代岡本氏が伝承して、上記の岡本勘兵衛正誼に至るというわけである。
 岡本勘兵衛の鳥取における門弟は、松井源太夫・井尻武左衛門・鱸(すずき)豊之亟ほか、それぞれ一派を立てたらしい。しかし、岩流の小谷新右衛門成福まで円明流門下に取り込んでいるのが、ご愛嬌である。
 また、この武蔵円明流の伝承によれば、赤松庶流の備中蘆森城主・岡本三郎義次(というから新右衛門か)、彼は後に新免無二斎(!)と号し、十手の刀術をもって家業とした。無二斎の嫡子が、初名・岡本小四郎、後に宮本武蔵守政名(!)と改める。当流の元祖、岡本馬之助は、兄の宮本武蔵守を元祖として、子孫代々二刀一流の兵法を伝来し、武蔵円明流と称した。馬之助祐実の子孫・岡本新右衛門照方は岡本流体術を発明し、その嫡子、六代目岡本勘兵衛正誼は、二刀一流と岡本流体術の達人で、当国因幡鳥取の城下にやって来た、云々。
 こちらの伝承では、岡本三郎義次=新免無二斎であり、岡本小四郎=宮本武蔵守政名であって、その宮本武蔵政名の弟・馬之助はこの兄に学んだので、武蔵円明流は宮本武蔵守政名を元祖とする。しかし、これは『武芸小伝』の宮本武蔵政名という記事を見て書いた伝承改訂版である。それに、備中に蘆森城などという城の名は聞かないから、新免無二斎は備中某城の城主だったというこの話は、誤伝というより荒唐無稽な伝説と謂うべし。
 ともあれ、武蔵円明流の伝説記事は、十九世紀天保期を遡りえない新しいもので、これが史料批判に耐えざる文書であることは言うまでもないが、山田次朗吉・堀正平といった往時の権威が注目することによって、少なくとも戦後一時期までは有力な根拠史料とされていたのである。
 ただし、楠正位や山田次朗吉のいう「岡本甚兵衛」が、伊織の父・田原甚兵衛と、武蔵円明流のこの岡本系図の「綜合」であったことは明白である。この岡本氏の傍系として田原氏が発生したという前提もあるらしい。
 この岡本氏というのは播磨では不明である。始祖の「赤松円心猶子・岡本三河房祐次」がそもそも不明である。しかも、この「岡本氏」、播州の何処を根拠地にした系統なのかわからない。
 いずれにしても、ある特定の伝書系図を史料批判ぬきに鵜呑みにして立論すれば、こういう錯誤に陥るのである。  Go Back

 
 (3)二天記を始め多くの書に
 宮本伊織に関する「泥鰌伊織」伝説に対する批判である。「泥鰌伊織」というのは、伊織は出羽国正法寺村産で、孤児の伊織を武蔵が拾って養育したという話である。これについては、本サイトの武蔵伝記集「武公伝」「二天記」読解研究を参照されたい。
 肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』は、伊織を出羽国正法寺村の孤児とするこの伝説を掲載しており、顕彰会本『宮本武蔵』はそれを受け継いだ。しかし、山田が書いているように会津(陸奥)なのか、出羽国なのかは、それはどうでもいいが、伊織に関して、引用のような内容の説話が後世形成され、武蔵の伝記で語られたのである。
 注意しておきたいのは、比較的近年までは、この「泥鰌伊織」伝説が信じられていたことである。それに対し、山田次朗吉は明確にこれを斥けていた。これは、まだ顕彰会本の武蔵伝記を批判しうる人々がいた段階のことである。その後、昭和になって吉川英治の小説が大当たりして、それが根拠とした顕彰会本武蔵伝記が全面的な影響力を有するようになると、その「泥鰌伊織」も信憑されたのである。
 ここで山田のいう「素より小説にして取に足らず」とある「小説」とは、近年の意味での文学としての小説というより、差別用語としての「小説」である。下らない読み物記事、というほどの意味である。
 すると、武蔵伝諸説に関して言えば、今日でも武蔵研究においてこの種の「小説」は命脈を保っていると言わねばならない。
 「もとより小説にして取るに足りない」
そんな武蔵論が多すぎるのである。 Go Back




*【水南老人講話 宮本武蔵】
《八五郎の伊織は、播州國印南郡米田村の郷士岡本甚兵衛の二男で、母の姓氏は書てないが別所長治の家臣の娘で、武藏の従妹に當る者である。三木落城の後、娘の父が米田村に住したので、甚兵衛に嫁した。武藏は、甚兵衛の妻・即八五郎の母との縁故はあり、甚兵衛もまた武藝を好むだので、度々甚兵衛を訪ふて其家に滞留した。其内、八五郎が幼少より骨格が逞く才氣もあるのを見て、特に寵愛した。八五郎も亦能く武藏に懐いた處から、武藏は終に八五郎を所望して養子にした》



*【武蔵円明流伝系図】

俊乗房重源─八尾別当顕幸─┐
┌─────────────┘
└(赤松円心)―岡本三河房─┐
┌─────────────┘
└(省略)―岡本新右衛門義次┐
┌─────────────┘
├岡本小四郎 宮本武蔵守義貞

└岡本馬之助祐実─(省略)─┐
┌─────────────┘
└岡本新右衛門照方―勘兵衛正誼
           武蔵円明流



武蔵円明流口授書


*【播磨鑑】
《米田村に宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来三木侍にて、別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す》








*【顕彰会本 宮本武蔵】
《いつの年なりけむ、武藏常陸國より、出羽國に至り、同國正法寺が原といふ處を通りしに、路傍に十三四とも見ゆる童子の泥鰌を小桶に入れて持ちたるあり。武藏これに向つて、その泥鰌我にすこし分けくれずやといへば…》
 
 (4)次男は造酒之助
 この造酒之助が「三木之助」であるとして、物事の前後を勘案すれば、彼を最初の養子とすべきである。宮本伊織は二番目の養子である。養子縁組に、長男・次男という呼び方をするのも奇妙なことではあるが。
 造酒之助の説話には、彼が少年のとき攝津西宮で馬子をしていた、という上記「泥鰌伊織」に似た話がある。たとえば、前出の『丹治峰均筆記』から拾っておけば、
《造酒之助は西宮の馬追いだった。武蔵がある時、尼崎街道を乗掛馬で通った。西宮の駅〔うまや〕で、十四五歳の童が馬の口を取って行くことになった。武蔵が馬上からその童の面魂をじっくり見て、「おまえを俺が子として養って、どこかよい主君に仕えるようにしてやろう。養子になれ」と言ったところ、かの童が言うには、「仰せは忝けなくございますが、私には老親があり、このようにして馬子をして養っています。あなたの養子になったりしますと、両親が生活に困ってしまいます。その話はおゆるしください」と言う。武蔵はその子に「ではまず、おまえの家へ連れて行け」といって、その子の家へ行き、両親に右の旨趣を話して聞かせ、当分の生活に困らないように金を与え、近所の者にも懇に頼んでおいて、その子を連れて行った。そうして暫く育てて、播州姫路城主・本多中務太輔忠刻〔ただとき〕卿へその子を差出した。造酒之助は中書殿〔忠刻〕の心に叶い、だんだん立身していった…》
 こういう養子譚から、武蔵は、殿様の寵童・お小姓を養成供給する口入業者みたいじゃないかという愚かな非難が生れるのだが、それはそれとして、こういう説話をみると、武蔵の養子になるには、奥州で泥鰌を漁ったり、摂津で馬の口を取ったりしなければ、世間が承知しなかったようである。
 この「みき之助」については、他にも、作州の方からは新免氏系統の「三喜之助」も出てきて、これが武蔵の養子だとする。
 しかし彼の事蹟は、少ないが残っている。宮本三木之助の墓が播州書写山円教寺(現・姫路市書写)に遺る。「平八供 宮本三木之助」とあって、彼が仕えた「平八」、つまり本多忠刻〔ただとき〕の死を追って、彼は切腹して殉死したのである。忠刻は姫路城主本多忠政の嫡男、そして家康の孫・千姫の夫だった。
 本多家中の史料(本多要櫃記)によれば、寛政三年(1626)本多忠刻の死に殉死したのは、伊原伊木左衛門と宮本三木之助の二人、そして宮本の家来・宮田覚兵衛が三木之助に殉じたということである。『吉備温故秘録』によれば、この殉死のとき三木之助二十三歳である。
 当時、伊織(慶長十七年生)は十五歳で、ようやく小笠原忠政の明石藩へ出仕しはじめたころである。『播磨鑑』によれば、伊織が明石で武蔵と遭遇するのは、十六歳のときである。
 伊織を最初の養子とすると、かように勘定が合わないのである。順序は逆である。養子は、三木之助が先で、伊織は三木之助殉死の後、武蔵の養子になったのである。この点は山田の明白な錯誤である。
 ちなみに橋本政次によれば、「本多家舊記抜書」なる文書に、三木之助は伊勢生れとあるらしい。本多家の播州入部以前が桑名藩であったから、伊勢生れの三木之助は主家の移封とともに姫路に来たものであろうとの推測も可能だが、本サイトの各所で述べられているように、ここは『吉備温故秘録』所収の三木之助の甥・宮本小兵衛の記事に拠って、水野勝成の家臣・中川志摩之助の三男とすべきところである。
 したがって彼を新免宗貫の孫・三喜之助とする作州の伝承は、これまた後世所成の謬説であり、武蔵ばかりか、その養子まで美作に我田引水するという荒唐無稽ぶりである。またこのことにより、それを記載する新免系図も信憑しえないものであると知れる。
 また、『丹治峰均筆記』に、造酒之助が仔細あって本多家を到仕し江戸に下ったというような記事があるが、これは当時の巷間伝説を拾ったまでのことである。播州姫路にはその種の伝説が発生していた。それに尾ひれがついたのが『丹治峯均筆記』の記事である。むろん、それに何より、三木之助は初七日に殉死したのだから、江戸まで行っている暇もない。  Go Back






*【丹治峰均筆記】
《造酒之助ハ、西ノ宮ノ馬追ナリ。武州、或時、尼ヶ崎街道ヲ乘掛馬ニテ被通。西ノ宮ノ駅ニテ、十四五ノ童、馬之口取ススミ行。武州馬上ヨリ、ツクヅクト彼童ガツラ魂ヲ見テ、「其方、吾養テ子ニシテ、ヨキ主ヱ可出。養ハレヨ」ト有リケレバ、(中略)彼童ヲ伴ヒ、暫ク育置テ、播州姫路ノ城主、本多中務太輔忠刻卿ヘ差出サル。中書殿、御心ニ叶ヒ、段々立身セリ。シカレ共、子細アツテ暇申請、江戸ヘ下ル。中書殿、不幸ニシテ早世シ玉フ。武州、其比大坂ニ居テ、此事ヲ聞、「近日造酒之助来ルベシ。生涯ノ別レ可爲。馳走スベシ」ト也。カクテ暫クアツテ造酒之助入來ス。武州、悦ビニ堪ヘズ、甚饗シ玉フ。造酒之助、盃ヲ所望シテ戴キ、コレヨリ直ニ姫路ヘ相越候通申達ス。武州、尤ノ覚悟ノ由、アイサツ有り。造酒之助姫路ヱ至リ、追腹セシトイヘリ。可惜々々》






三木之助主従の墓
書写山円教寺 姫路市書写
右:三木之助 左:宮田角兵衛



*【吉備温故秘録】
《宮本三木之助 [中川志摩之助三男にて、私ため實は伯父にて御座候] 宮本武藏と申者養子に仕、児小姓之時分、本多中務様へ罷出、七百石被下、御近習に被召出候。九曜巴紋被付候へと御意にて、付來候、御替御紋と承候。圓泰院様〔忠刻〕寛永三年五月七日御卒去之刻、同十三日、二十三歳にて御供仕候》
 
 (5)三男は九郎三郎
 この九郎三郎がわからない。武蔵の第三の養子には、他に竹村与右衛門の名もある。『渡辺幸庵対話』に、中村三郎右衛門という人の子で《竹村武蔵》の養子となり、手裏剣の名手とある。しかし、『渡辺幸庵対話』はホラ話で、史料とはなしがたい文書である。
 いずれにしても、この第三の養子という九郎三郎は、その情報の出所が不明である。
 しかし、上記『吉備温故秘録』によれば、三木之助の弟があり、名は九郎大夫で、この弟が三木之助死後、宮本家を相続して本多忠政に仕え、そればかりか、忠政死後も政朝や政勝もに仕えて、本多家の姫路から大和郡山への転封にも隨って彼地まで行ったことが知れる。
 したがって、この「九郎大夫」のことが、第三の武蔵養子として伝説化したものであろう。伝説流布のうちに、「九郎大夫」が「九郎三郎」になるのは、第三の養子という話から名が「三郎」に自動調整されたものとみえる。おそらく、この僻説所成はそんなところであろう。  Go Back

 
 (6)小笠原右近太夫
 このあたりで、再び伊織の話に戻る。「小笠原右近太夫」とは、伊織が明石以来仕えた小笠原忠政(忠眞)のことである。
 ここでは順序がまた問題である。この記述では、武蔵は伊織を養子にして豊前へ来た。そこは、小笠原忠政が明石から転封してきたところで、忠政が武蔵に家臣になれと勧めるが、武蔵はそれを断り、替わりに養子の伊織を差し出したという話である。このあたりは、明らかに楠正位「宮本武蔵」の受け売りである。
 ところが、伊織の小笠原家出仕は十五歳、そして武蔵の養子になったのが、十六歳のときである。武蔵の養子になる前に、伊織はすでに小笠原忠政に仕えていたのであり、しかもそれは明石時代のことである。したがって、忠政が豊前小倉へ移ってから養子伊織を仕官させたという山田の記述は、誤りである。これは、『丹治峯均筆記』の記事を鵜呑みにしたのである。
 武蔵の建碑は伊織の志願に成つたものだという、このモニュメントは、豊前小倉の武蔵碑(現・北九州市小倉北区赤坂)のことである。現在もよく保存されている。
 これは武蔵の墓碑でもある。伊織はこの碑を、承応三年(1654)に建立した。武蔵歿後九年、十回忌のおりの事蹟である。
 この碑の建立は、播州印南郡の泊神社(現・兵庫県加古川市加古川町木村)の再建の翌年にあたる。したがって、この小倉碑文の史料的価値は高い。この点は別の論攷が述べるであろう。  Go Back

 
 (7)次男の造酒之助は播州姫路
 次男の造酒之助は、播州姫路の本多中務大輔忠刻の小姓となって、寛永三年(1626)主君卒去の際、殉死を遂げたとある。これは、三木之助を「造酒之助」と誤まるほかは、正しい記事である。
 ところで、三男(九郎三郎)は九州にあったとも、又姫路とも今はこれを詳かにしがたい、という。これは当然であろう。「九郎三郎」などいう養子はいなかったのだから。
 ちなみに、肥後系伝記『二天記』は、武蔵の親族だという「宮本次郎太夫」という者のことを記している。次郎太夫は、豊前で細川忠利に召抱えられ、三百石を賜った、次郎太夫は新免無二の門弟で、当理流を修行して、無二からの相伝の巻物がのこっている、というようなことである。
 この宮本次郎太夫とは何者か。宮本次郎太夫は細川忠利に召抱えられたあるから、これは細川家臣ということになる。細川家臣で、「次郎太夫」を名のる宮本氏は、宮本伝右衛門である。
 しかし、宮本次郎太夫が宮本伝右衛門なら、細川忠利に召抱えられたという『二天記』の記事は誤りで、実際は忠興に召抱えられ、また忠興隠居後も中津衆として忠興に仕えていた。しかもまた、宮本家の来歴を見れば、武蔵との親族関係等、個人的な接点はなさそうである。
 宮本次郎太夫の名は、細川光尚室禰々死亡事件があって、細川家中の伝説に残るほど有名だった。そして宮本という同姓から、次郎太夫は武蔵の親族ではあるまいか、という憶説が後世生じたものであろう。
 このように宮本という姓から、次郎太夫は武蔵の親族にさせられてしまったが、武蔵が宮本姓を用いるようになるはるか以前、次郎太夫の父親の宮本賢立の代以前から、こちらは宮本氏なのである。
 ところで、山田のいう第三の養子「九郎三郎」は、これまた『二天記』のいう「宮本次郎太夫」とも違う。ようするに、後世の伝説変形が生じた架空の人物なのである。ようするに伝説というものは、流布する内にどんどん変異して、あらぬ人物までさまざまに生産してしまうのである。  Go Back


*【吉備温故秘録】
《宮本九郎大夫 [三木之助弟にて御座候] 是も圓泰院様児小姓に被召仕候。兄三木之助殉死仕、實子無御座候に付、九郎大夫に跡式無相違、美作守様被仰付、名も三木之助に罷成候。天樹院様〔千姫〕播州より江戸へ御下向被成候刻、美濃守様御供被成候時、三木之助も美濃守御供仕候。天樹院様美濃守様へ御意にて、道中御旅館にて御目見被仰付候。甲斐守様〔政朝〕御代、番頭に被仰付候。内記様〔政勝〕御代、寛永十九年九月病死。私兄宮本辨之助と申、跡式被下、内記様に罷在候へ共、若き時病死仕候》




福聚寺蔵
小笠原忠眞(忠政)像

















*【二天記】
《又宮本次郎太夫ト云シモ、武藏ノ親族ニテ無二ノ門弟ナリ。當理流稽古有テ、相傳ノ卷物ミエタリ。是ハ豐前ニ於テ忠利公三百石賜リ、召抱ヘラル。宮本家ノコト爰ニ不記》

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 最後に「附録」のような格好になるが、山田武蔵論の意義の一端を示す部分を引用しておこう。
 これは武蔵の偶像破壊の嚆矢となったもので、いわば、単純な「剣豪」「剣聖」武蔵というイメージから離脱する魁をなした。もっと言えば、山田はこれによって近代的武蔵論の「パンドラの匣」を開けてしまったのである。
 それとともに、巌流島の決闘では、巖流が「未熟の剣」ゆえに敗れた、という図式を確立し、老練な悪役・巖流から、青年巖流あるいは美少年巖流へとさえ反転する契機となったのが、この部分である。
 こうした山田の指南が、作家たちを刺激し、数多くの武蔵小説が生産される母体にもなった。それゆえ、世間の武蔵像・巖流像のターニングポイントの標識となる「歴史的」記述であると言えよう。

武藏が江戸に出で夢想権之助を伏さしめ、大瀬戸隼人、辻風何某を試合に打殺したことなどは、決して特筆の價はなく、皆兵法未熟の者共であつたからである。武藏が眞に江戸に伎倆を試みんとなれば、當時柳生の配下には庄田、木村など錚々たる傑物がある。新陰流には紙屋傳心の如き名人がある。一刀流には小野次郎左衛門が控へて居る。此他天下の御膝元とあつて、各流の名家が雲集して居るに拘らず、武藏は之を避けて一人も訪問した形跡が残つて居らぬ。甚だ不審といはねばならぬ。凡そ道の修業に諸州を徘徊する者が、其土地第一と聞ゆる人を訪れぬは、業理の上に於て自分を知るといふ計量を失つて居るものである。二刀一流が或程度までに限られてゐては、天下の兵法とはいはれぬ。宜しく名人達人の純精なる太刀風の下に、其妙理を發揚してこそ、始めて稱讃の辭を捧ぐべきで、武藏の武者修業が吉岡を除く外大家に接觸せぬのは、後世より見て武藏の爲め、將た兵法の爲め、極めて遺憾のことである。
   (中 略)
武藏の人と爲りは頗る機智に富んで、巧に人心を収攬する才があつた。故に江戸の如き武藝者の淵籔には印象を殘さないで、田舎廻りを旨として、土地に聞えても大抵手心の知れた者と試合をして歩いた。細川でも二階堂流の達人村上吉之丞を避けた話が撃劍叢談に載て居る。
宮本武藏、流を弘めんとて九國に経歴し、城下近き松原にて藝習はす樣、折節夏の比成しが、伊達なる帷子に金箔にて紋打たるを着、目ざましく装ひて、夜な夜な出でゝ太刀撃す、もとより輕捷自在の男なれば、縦横奮撃する有樣、愛宕山の天狗などはかくもやあらんと、専ら沙汰せし也、吉之丞是を聞て、人を以て勝負を望みたり、武藏もひそかに吉之丞が藝の樣を聞に、中々及ぶべくも思はれざりしかば、何となく去て他國に行しと云、されど武藏が名天下に髙けれども、吉之丞は知人なし、是諸國に周遊して藝を弘めしと、國一つにて行はれしとの違成へし云云
 恁うした筆法で、宮本は巖流が血氣の若者で思慮の足らぬ點を見抜いてあったのだ。殊更に佐渡守の厚意を辭したのも窃に謀る所があるからで、敵の機を奪ふ兵法の略である。此略に懸つたは巖流が技術は達しても、心法が至らぬ未熟の劍で、所謂畜生劍術の境を超越して居なかつた故である。其年紀より推しては實に無理ならぬ境地で、若し命を保ち、純眞極地の境に年を積まば、巖流も二刀一流も、共に天下の美名を荷ふたのであらう、惜しむべき壯夫といふ可きである。