植芝盛平 |
(最新見直し2013.09.26日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで「植芝盛平考」をものしておく。 2013.09.26日 れんだいこ拝 |
「日本の武道家、合気道の創始者/ 植芝盛平」 |
1883年(明治16年)12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(後の田辺市)の富裕な農家・ 植芝家の長男(姉3人・妹1人)として生まれた。 父・与六は村会議員を務める村の有力者で 、巨躯・怪力の持ち主。母ゆきは甲斐武田氏の末裔という糸川家の出で文を良くしたという。 盛平は、与六にとって40歳にして初めて恵まれた待望の男児であり、終生与六の寵愛を受 けて育つ。 幼少時の盛平は病弱で内向的な読書好きの少年であった。寺の学問所で四書 五経を習う一方、数学や物理の実験に熱中するが、これを危ぶんだ与六は、近所の漁師の 子供と相撲を取らせるなどして、盛平の体力と覇気を養うよう努めた。生来負けず嫌いの気 性もあり、やがて盛平自身盛んに海に潜ってはモリ突きを楽しむなど活発で外向的な少年に 育っていった。しかし14~5歳までは華奢な痩身であったという。 |
1896年(明治29年)13歳。田辺中学校に進むが一年を経ず中退、珠算学校を経て田辺税 1901年(明治34年)18歳。「磯事件」(漁業法改正に反対する漁民の権利運動)に加担し、それが元で税務署を退職。 1902年(明治35年)19歳。春上京し父与六の援助により文房具卸売業「植芝商会」を設立。その傍ら天神真楊流柔術(戸澤徳三郎)・神陰流剣術を学ぶ。商売は成功するが、夏頃不 摂生が祟って脚気を患い、店を従業員に譲って無一文で帰郷する。 田辺で静養し健康を回 復する。脚気克服のため始めた裸足で山野を駆け巡る鍛錬により頑健な体となる。 |
同年 10月、2歳上で幼馴染の姻戚・糸川はつと結婚。 |
1903年(明治36年)20歳。この頃盛平の身長5尺1寸5分(約156cm)体重20貫(75kg)、日夜 1904年(明治37年)21歳。2月8日、日露戦争勃発。 1905年(明治38年)22歳。伍長に昇進。軍は盛平を銃剣術の教官として内地に留め置きた 1906年(明治39年)23歳。帰国。軍曹に昇進。上官から陸軍戸山学校への入学を勧めら 田辺ではしばらくの間進路も定まらず悶々とする日々を送った。夜中に突然飛び起きて 1908年(明治41年)25歳。坪井政之輔より柳生心眼流免許を受ける。 1909年(明治42年)26歳。この頃起きた南方熊楠の神社合祀策反対運動に共鳴、地元青 1910年(明治43年)27歳。長女松子出生。 |
1912年(明治45年/大正元年)29歳。政府の北海道開拓団体募集に応じ、農家・漁民の 伐木作業への従事により盛平の豪力ぶりはますます強靭さを増した。食料買出しの帰り 1915年(大正4年)31歳。2月に所用で訪れた遠軽の旅館で武術家・大東流の武田惣角に 1916年(大正5年)33歳。白滝に道場を設けて惣角を招き、村の有志十数人と共に熱心に 1917年(大正6年)34歳。5月白滝に山火事を発端とする大火災が発生、開拓地はほぼ全 1918年(大正7年)35歳。推されて上湧別村会議員に当選、名実共に土地の名士となる。 1921年(大正10年)38歳。2月に第一次大本教弾圧事件が起こるが、植芝塾は波及を免れ 1922年(大正11年)39歳。当時の大本には陸海軍の軍人も多く出入りしており、彼らも盛平 1924年(大正13年)41歳。2月、満蒙の地に宗教国家の建設を目指す王仁三郎に随伴し 第一次大本事件によって大本の活動が制限される中、王仁三郎は大長編叙事詩『霊界 1925年(大正14年)42歳。春頃、綾部にて剣道教士の海軍将校と対戦しこれを退ける。こ 1925年(大正14年)42歳。この頃から胃腸・肝臓の持病に度々悩まされる。 1930年(昭和5年)47歳。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が高弟二人を伴い来訪、盛平の 1931年(昭和6年)48歳。新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りから「地 1932年(昭和7年)49歳。東京に数箇所、また大阪曽根崎警察署、大阪朝日新聞本社など 1933年(昭和8年)50歳。兵庫県竹田町に「武農一如」方式の「大日本武道宣揚会竹田道 1933年(昭和8年)50歳。技術書『武道練習』(ガリ版刷り私家版)を著す。 1935年(昭和10年)52歳。記録映画『武道』(大阪朝日新聞社制作 久琢磨監督)が収録 1936年(昭和11年)53歳。6月、師・武田惣角が盛平の道場のあった大阪朝日新聞本社に 1937年(昭和12年)54歳。同時期、植芝は週に一度海軍大学校をおとずれ、若手将校に 1938年(昭和13年)55歳。技術書『武道』(私家版)を著す。 1939年(昭和14年)56歳。満州国武道会常務理事・天竜三郎の招きで公開演武会に出場 1940年(昭和15年)57歳。「財団法人皇武会」として厚生省より認可を受けた。初代会長・ 1940年(昭和15年)57歳。この頃から茨城県岩間町において合気神社の建設に着手する 1941年(昭和16年)58歳。12月8日、日米開戦。この前後に近衛文麿の依頼を受けて中国 1942年(昭和17年)59歳。戦時統制策により皇武会は政府の外郭団体・大日本武徳会の 1943年(昭和18年)60歳。5月3日、武田惣角が青森にて死去。享年84歳。この頃盛平は 1945年(昭和20年)62歳。東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、避難民を収容し 1948年(昭和23年)65歳。2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健 1950年(昭和25年)67歳。4月、合気会機関紙・月刊『合気会報』(後の『合気道新聞』)発 1954年(昭和29年)71歳。日本総合武道大会(長寿会主催)で盛平の高弟・塩田剛三が 1956年(昭和31年)73歳。9月、5日間に渡り百貨店・髙島屋東京店(日本橋店)屋上で、 1960年(昭和35年)77歳。1月、盛平のドキュメンタリー映画『合気道の王座』がNTV(後・ 1961年(昭和36年)78歳。ハワイ合気会の招きにより渡米、ハワイ各地で演武指導を行う。 1962年(昭和37年)79歳。盛平監修・吉祥丸著による初の一般向け技術書『合気道』が 1964年(昭和39年)81歳。「合気道創始の功績」により勲四等旭日小綬章に叙せられる。 1966年(昭和41年)83歳。ブラジルのアポストリカ・オルトドシア教会総大司教より最高 1967年(昭和42年)84歳。7月、吉祥丸が合気会二代目理事長に就任。 1969年(昭和44年)86歳。4月26日午前5時、肝臓癌のため東京本部道場同敷地の自宅 1975年(昭和50年)田辺市にて顕彰式典開催、高山寺墓地に「開祖植芝盛平碑」が建て 1988年(昭和63年)田辺市で第5回国際合気道大会が開催されたのを記念し、扇ヶ浜公園 2009年(平成21年)茨城県笠間市合気神社に銅像が建てられた。 |
元大相撲力士・天竜を投げる
1939年(昭和14年)春、満州国・新京で開かれた演武会で、力比べを挑んできた元大相撲関脇・天竜(和久田三郎)を投げ倒した。この時、天竜34歳、身長187センチ体重116キロ(身長体重は現役時代)。一方の盛平55歳、身長156センチ体重75キロ(身長体重は20歳時)。
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憲兵隊の待ち伏せ襲撃を一人で返り討ちにする 1941年(昭和16年)頃、陸軍憲兵学校が盛平の武術の実戦性を認め、柔・剣道を廃し合気武道を正課に組み入れた。盛平が憲兵学校で教授した際には、腕試しを挑まれたり集団で待ち伏せ襲撃を受けたことがあったが、その度にこれを捻じ伏せ実力を思い知らせたという。(以下、盛平の回想談) ある日の夕方、ふらりと練兵場を歩いていると、何か身の回りがおかしい。ははア、こりゃ何かあるなと…思っていると、不意にそこここの草むらや窪地からわッと三十名ばかり躍り出てきた。ぐるッとわしを取り囲み、手に手に木刀や木銃をふりかざし打って掛かってきた。ところがこっちは不意打ちはもう昔から慣れっこなんで、屁とも思わない。四方八方から襲ってくるのをヒラリヒラリ体(たい)をかわし、チョイチョイと突ついてやると、面白いように転がる。木刀とか木銃はけっこう重いから、むやみに振り回せばその分だけエネルギーが消耗されてしまうのは理の当然である。(中略)ものの五、六分でみんな息切れして戦意を喪失してしまった。— 『植芝盛平伝』240-241頁。なお、この襲撃の首謀者は荒川博(元プロ野球選手。1956年(昭和31年)合気会本部道場に入門し、読売ジャイアンツコーチとして王貞治に合気道から着想した一本足打法を指導、ホームランキングに育て上げる。)の縁者であった。 |
荒川博が現役選手時代に、合気会本部道場で盛平に指導を受けた時のこと。当時70代半ばの盛平が荒川に向かい「ボールだと思って打て」と木刀を突き出して来る。荒川がそれを木刀で叩くと、自分が跳ね飛ばされたという。 |
盛平と親交のあった剣道家中山博道(有信館)の高弟である羽賀準一は、1932年(昭和7年)頃から盛平の道場に数えきれないほどの回数訪問していた。 |
剣道家中倉清の談話 |
女の子は大事にしろ
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女性の袴 男性が初段を允可されないと袴の着用を許されないのに対して、女子は初段前・入門時からでも袴の着用が許される場合がある。これは稽古中に受け身をとって道着がめくれて(あるいは汗で道着が透けて)下着が見えるのを隠すための盛平による配慮に由来する。 |
柔道家阿部謙四郎を組み伏せる
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米国人プロ格闘家を失神させる ニューヨークからプロボクシング団が来日した際、マンガンという団長が竹下勇の案内で植芝道場を訪ね、稽古を見学したところ、八百長だと言い出し、盛平に試合を申し込んだ。盛平は断ったが相手が引き下がらないので、手合わせすることになった。6尺8寸、30貫の大男であるマンガンが盛平の胸に飛び蹴りを入れたが、盛平が身をかわし、マンガンは頭から落ちて気を失った。 |
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(私論.私見)