八木・宇田アンテナ事件

 (最新見直し2014.04.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで「八木・宇田アンテナ事件」を確認しておく。「テレビアンテナの誕生ー八木秀次の発見ー」、「2011-05-07 八木アンテナの逸話その他」、「八木アンテナの「真価」が理解できず太平洋戦争に突入した」、「」、「」その他を参照する。

  「八木博士の世界的的発明(八木アンテナ)」
  
http://cobs.jp/life/regular/hatsumei/bn/020109.html

  

  「八木アンテナとニューマン文書」
  
http://homepage2.nifty.com/nakagen29/13.htm



 2014.04.14日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1220  投稿者:れんだいこ  投稿日:2014年 4月17日
 八木アンテナ考

 「小保方STAP(新万能)細胞事件」で、これを「世紀の発見」の側で読み取ろうとする者、発見以前の問題として学術論文に不備があり過ぎると批判する者、発見そのものを捏造とする者、この三者での喧騒で賑わうこの頃、「八木アンテナ事件」を確認しておくことは意味がないことではなかろう。但し、天然的に文系のれんだいこがこれを説くのは荷が重い。しかしながら理系の誰もが口を閉ざしており、そういう訳で、れんだいこが拙いながら整理しておくことにする。

 「八木アンテナ」とは、ポポフの無線通信アンテナの発明から30年後の1925(大正14)年頃に登場する。電気通信学者にして東北帝国大学の八木秀次氏が私財を投じて研究開発し、助手の宇田新太郎氏と共に従来のアンテナにはなかった感度で受信できるアンテナの原理を発見したと発表した。そういう意味では正しくは「八木・宇田アンテナ」と云うべきであるが略して「八木アンテナ」として知られる。1926(大正15)年、特許を取得している。

 なお、この年、後述するが浜松高等工業学校の高柳健次郎氏が電子式テレビ受像機(ブラウン管テレビ)による電送・受像に世界で初めて成功している。送像側に機械式のニプコー円板、受像側に電子式のブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本だった。「イ」の字はいろは順の最初の文字として選んだ。これが後のテレビに繋がる先駆け的発明になり、高柳氏はテレビの父と呼ばれる。

 もとへ。「八木アンテナ」は、それまでのアンテナが棒状のもので電波をキャッチする確率が低かったのに対し、長さの違う三つの棒を平行に並べたところが画期的だった。真中の軸棒は電気の集積棒で、この中心の棒より少し長い棒を直角に横に並べる。長棒は電波を反射させ軸棒に電波を集める。他にも少し短い棒を二本並べ電波を集める働きをさせる。原理は光線の場合の凸レンズの作用に似ている。装置のこのコンビプレーにより従来にない感度と効率で電波を集めることに成功していた。「八木アンテナ」は放射器、導波器、反射器で構成され、指向性が鋭く構造が簡単にして無駄がない、ほとんど改良の余地のない高い完成度をもっており、超短波用アンテナとして高く評価されるべきものであった。

 こうして、「八木アンテナ」は世界に先駆けて日本で発見発明発表されたが、その着想が当時の日本では理解されずあるいはこの画期的発明を押さえる力が働いていたのか一部に知られただけで埋もれていった。但し、発明より十年後の1932(昭和7)年、東北帝国大学工学部教授となっていた宇田新太郎博士が八木山と茨城県の筑波山頂との間で「八木アンテナ」を使って超短波通信実験を行っている。現在、八木アンテナの通信実験が行われた八木山には東北放送の放送塔が立ち、隣の愛宕山にはNHK・仙台放送・宮城テレビの放送塔が立っている。

 1941(昭和16)年、八木氏は指向性アンテナの特許期限の延長を申請したが、日本政府により「重要な発明とは認め難いので特許を無効とする」との通知が届けられている。こうして八木アンテナ特許を政府が消滅させている。「外国特許保有の財政支援もせず冷遇したため日本の八木アンテナの特許権は国内外共に失われてしまった」とある。思うに、これは時の日本政府が凡庸過ぎたと解するより、日本政府をそのように誘導した黒幕の働きかけがあったと解するべきではなかろうか。

 というのも、国際ユダ屋が八木論文に着目し、超短波用高性能アンテナとして研究を続けさせている。これがレーダー用アンテナとして兵器に応用され、第二次世界大戦中に威力を発揮し、八木アンテナを装着した米英軍は攻め寄せる日本の飛行機を300km前からレーダーでキャッチし迎撃した。更に闇夜でもレーダー射撃で正確に日本艦を撃沈するなど大活躍している。日本の連合艦隊がミッドウェー海戦で「謎の大敗北」を遂げたが、空母4隻を沈めた米軍爆撃機ドーントレスに八木アンテナが搭載されていた。このことが分かるのは終戦後である。広島、長崎に原爆が投下されたが、その原爆には「八木アンテナ」を応用したアンテナが装着されていた。

 「八木アンテナとニューマン文書」によれば、1942.2.25日、日本軍がシンガポール要塞を攻略、占領した時、陸軍の秋本中佐が、英軍の高射砲陣地の塵芥焼却場で偶然にも手書きの焼け残りノートを発見した。電気担当の塩見文作技術少佐の解読により、英軍が最も秘匿する電波兵器の一部に関る内容であると判断し、そのノートを英文タイプおよび写真撮影して「ニユーマン文書」と名付け、電波兵器の開発者に配布した。このノートは英軍のレーダー技士であるニューマン伍長が英本国で研修を受けた時のメモ書きで、その中に意味不明の「YAGI  array」という記述が頻繁に登場していた。その記号の意味がどうしても理解できなかった。そのニューマン伍長が捕虜として捕えられ、技術将校の岡本正彦少佐がシンガポールの収容所(品川の捕虜収容所とする記述もある)で尋問するところとなった。ニューマン伍長に「“YAGI”とは何か」と尋ねと、ニューマンは、キョトンとした顔をして「あなたは本当にその言葉を知らないのか?。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」。尋問に当たった岡本少佐は絶句したと云う。

 敗戦後、八木氏は戦争犯罪人として公職追放者指定を受けて大阪帝大総長を公職追放で追われた。八木氏は「八木アンテナ」がアメリカのレーダー等に使われ大活躍したことによる責任追及される破目になった。この為、日本アマチュア無線連盟会長に就任するなどして暫く蟄居していたが、戦後のテレビ普及と同時に八木アンテナが脚光を浴びることとなった。なぜならVHFテレビ電波受信に八木アンテナが採用された為である。最も簡潔にして性能が良く廉価だったことによる。八木アンテナはアマチュア無線でも使われている。今日では超短波、極超短波で使用されている地デジテレビジョンの受信用アンテナとして使われている。VHF ・ UHF帯で用いられているほとんどが「八木アンテナ」である。

 但し、「八木アンテナ」のかくなる世界普及にも拘わらず、特許権を喪失させた八木氏及び日本は恩恵にあずかれない。仮に取得し続けていたら莫大な特許料が日本に入ったものと思われる。更に云えば、八木アンテナ発明と同時期に高柳氏が電子テレビ実験に成功していることを考えると、何のことはない日本は1926(大正15)年時点でテレビとアンテナの両方を発明していたことになる。これを日本が育てておれば発明者は無論、日本も又巨富を得ていたはずである。

 こうなると愚昧政治の為し給うお粗末と云うしかあるまい。問題は、この教訓が生かされているのかどうかである。これが「小保方STAP(新万能)細胞事件」に対して執るべき第一態度となるべきではなかろうか。これ以上マスコミ陣の粗脳に政論リードを任す訳にはいくまい。これが云いたくて急遽本稿をものにした。後はよしなに理解してたもれ。

【八木秀次氏の履歴】
 八木秀次氏の履歴は次の通り。

 1886年、大阪市東区北浜4丁目の八木忠兵衛、みちの三男として生まれる。

 大阪市愛日尋常小学校、第四高等小学校、大阪府第一中学校(北野中学に改称)、第3高等学校理科、東京帝国大学工科大学電気工学科を経る。北野中学を主席で卒業している。

 1909(明治42)年、東京帝国大学工科大学を卒業後、仙台高等工業学校の講師となる。

 1910(明治43)年、仙台高等工業学校電気科教授。東北帝国大学理科大学の本多光太郎の知遇を得、長岡半太郎を紹介され交友している。

 1913()年、長岡の推薦で海外留学が命じられ、ドイツのドレスデン工科大学に留学。バルクハウゼン教授の下で研究した。

 1914()年、第一次大戦勃発。スイスにいたがイギリスのユニバーシティカレッジのフレミング教授の教室に移った。

 1915()年、渡米しハーバート大学のピアス教授の下で研究した。八木の関心は次第に無線の方に移っていった。

 1916()年、帰国。

 1919()年、仙台高等工業学校が東北帝国大学に昇格するとともに工学部教授となる。安部恒子と結婚。

 1924()年、東北帝国大学工学部長。

 1929(昭和4)年、工学部長に再任される。附属電気通信研究所の設置に奔走し、後年西澤潤一教授などの人材を生み出す研究所の基礎をつくった。

 1925()年、八木・宇田アンテナの基礎理論を発表。12月、指向性アンテナの特許を出願。

 1926年、八木・宇田アンテナを特許化(特許第69115号)。

 1933()年、大阪帝国大学の初代総長であった長岡半太郎の要請により大阪帝国大学に移籍、理学部物理学科の初代主任教授となる。東北帝国大学教授を兼任。

 1939()年、大阪帝国大学理学部長。電気通信工学の第一人者の地位を固める。

 1942()年、東京工業大学の学長に就任。

 1943()年、興亜工業大学(現・千葉工業大学)の顧問に就任。

 1944()年、内閣技術院総裁に就任する。

 1946()年、大阪帝国大学総長に就任するもGHQの公職追放者指定を受けて辞職。日本アマチュア無線連盟会長に就任。

 1951()年、学士院会員に選ばれる。民主社会主義連盟会長に就任。

 1952()年、八木アンテナ株式会社社長に就任。

 1953()年、右派社会党から参議院議員選挙に全国区で立候補し当選(3年任期)。

 1955()年、五島慶太に請われて武蔵工業大学(現東京都市大学)学長に就任。

 1956()年、参議院議員選挙に落選。

 1976()年、死去(享年89歳)。従二位勲一等旭日大綬章。

 1945.1.24日、衆議院予算委員会での三木武夫委員に対する答弁(第86回帝国議会衆議院予算委員会議録(速記)第4回56頁)は次の通り。
 「只今決戰兵器と云う御尋ねがございましたが、必死必中と云うことが申されまするが、必死でなくて必中であると云う兵器を生み出したいことは、我々かねての念願でありましたが、これが戰場に於て十分に活躍致しまする前に、戰局は必死必中のあの神風特攻隊の出動を俟たなければならなくなったことは、技術當局と致しまして洵に遺憾に堪えない、慚愧に堪えないところで、全く申し訳ないことと考えております。一日も早く必死必中でなく必中の兵器を生み出さなければならぬと考える次第であります」。

 敗色濃厚となった状況下での発言である。「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁に、委員会出席者中には涙する者もあったとの当時の報道がある。精神主義、特攻隊賛美ばかりが横溢する戦時下にあって、科学技術者としての勇気を示した発言として名高い。

八木・宇田アンテナの数奇な歴史
 「八木・宇田アンテナの数奇な歴史」を転載しておく。
 1920年頃東北帝国大学ではマグネトロンの研究が開始され、1924年頃、海軍大尉で大学に派遣されていた学生が実験中に、金属棒を置くと受信電波が増大するという奇妙な現象を見つけた。この報告を聞いた八木秀次は、「これは意味のある新しい現象だ」と直感し、助手達に命じてさまざまな実験を繰り返し、金属棒の驚くべき効果を発見します。1925年12月29日には八木アンテナの基礎理論を完成し、講師の宇田新太郎に実用化のための研究をさせ、2種類の特許を取得し、1926年7月には英国および米国に特許を申請し、それぞれ特許を取得しています。1926年の2月に八木と宇田は最初の英文報告書を公表します。1928年に八木・宇田の連名で論文が出され,特許は八木単独で出されましたので「八木アンテナ」と呼ばれていましたが、詳細設計は宇田新太郎が担当したことから八木・宇田アンテナと呼ばれるようになりました。1928年の夏に八木は米国を訪問しIRE(アメリカ無線技術者協会)等で日本の短波研究の状況について講演して高い評価を受けます。これに刺激を受けたGE社はマグネトロンの研究を強力に推進しています。日本では無視されましたが、米国では大きな賞賛を受けたのです。1930年頃には米国で八木・宇田アンテナは悪天候や夜間(視界不良)に飛行機が空港に着陸するときの誘導システムに使用されるようになります。1940年の「バトル・オブ・ブリテン」ではドイツ軍の空爆に対抗するために、飛来するドイツ軍の飛行機を早期に発見し防空体制を整える(早期警戒用)ためのレーダーが多く設置されましたが、それには八木・宇田アンテナも使用されましたし、 夜間や悪天候に乗じて飛来する飛行機を迎撃するために戦闘機に八木・宇田アンテナが取り付けられ、夜間や雲の多い天候でも爆撃機を発見して攻撃できるようになり、ドイツの飛行士たちに「空飛ぶヤマアラシ(Fliying Porcupine)」と恐れられていました。1942年2月25日シンガポール戦の後で、英国レーダ技師のノート(ニューマン文書を参照)を見付けその中に「Yagi antenna」という言葉があり、日本の情報将校が「Yagi」という記号が日本語であることを知らなくて、捕虜の技術者にその意味を尋ねたら日本人でアンテナの発明者の名前だと聞かされても信じられなかったという話は有名です。1941年12月7日(現地時間(日曜日)午前7時02分)に米軍がオアフ島の北のオパナ(Opana)に設置したレーダーで日本軍が真珠湾を攻撃する飛行機を約200km北方に発見しましたが、味方の飛行機と誤解しこの情報は生かされませんでしたが、この真珠湾のレーダー(Pearl Harbor Radar)には八木・宇田アンテナが使用されていました。1942年4月18日の「東京初空襲」で日本もレーダーの必要性に気付かされ開発に力を入れ始めます。やっと八木・宇田アンテナと岡部が発明したマグネトロンに日本人の関心が向けられるのでした。1942年6月5日ミッドウェー海戦で日本連合艦隊が謎の敗北を喫し、太平洋戦争の敗北が決定的となったのですが、日本軍のミッドウェー島への奇襲攻撃を失敗させたレーダーにも八木・宇田アンテナが使用されていたことが分かるのは終戦後のことです。

 終戦直後、八木は米国による戦時中の研究開発についての事情聴取に対し、民間と軍部の協力が十分で無くかなりの不満を抱いていたことを話しています。八木アンテナの共同開発者である宇田新太郎は1951年に米国を訪問したときに米国でテレビ放送の受信用に八木・宇田アンテナが非常に多く使用されているのに驚きました。八木の後輩で「ニューマン文書」の再発見者である佐藤源貞は英国のレーダーに八木・宇田アンテナが使用されていたことや広島・長崎に投下された原爆に爆発する高度を測定するために八木・宇田アンテナが使用されていたこと等を知り、驚きと共に八木・宇田アンテナの皮肉な運命に思いを馳せることになります。戦後テレビ放送が世界中で開始され広く普及するようになるとこの八木・宇田アンテナは世界中の屋根を占領してしまいました。





(私論.私見)