小沢一郎、藤井裕久の乾坤一擲人生 |
【小沢一郎のプロフィール】 |
1942年生まれ。岩手県出身。慶大経済学部卒。父・佐重喜氏の後を継ぎ、27歳で政界入りで1969年衆院当選12回。自治相、内閣官房副長官、47歳のとき自民党幹事長、新進党と自由党党首を経て民主党代表代行。61歳。 田中角栄元首相の秘蔵っ子として羽田と共に自民党ハト派系若手として頭角を現していく。ロッキード事件の喧騒渦中で、竹下派結成に動く。1985年の創政会(竹下グループ)旗揚げには中心的役割を果たした。その後、後の首相小渕らとともに「竹下派七奉行」の1人として活躍。金丸信・元自民党副総裁に引き立てられ、47歳で同党幹事長に就任。 1993年、竹下派の内紛を背景に自民党を離党し、羽田と共に新生党を結成し下野する。代表幹事に就任。直後の衆院選挙では、自民党が過半数を割り込み大敗したのを受けて、非自民の8党・会派による細川政権の樹立に奔走。戦後40年以上続いた「自社55年体制」の崩壊に大きな役割を果たす。 1993年の非自民連立による細川政権誕生の立役者となり与党入りする。その剛直な政治手法が「小沢アレルギー」も引き起こす。細川政権の後を受けた羽田政権が、社会党の政権離脱によって少数与党となり退陣。 1994年、社会党が政権離脱し自民党と組んでの村山政権をつくるに及び下野を余儀なくされる。村山、橋本両政権が続く間、1994年の新進党結党に尽力。幹事長として95年の参院選挙では、比例票で自民党を上回るなどらつ腕を振るう。その後、党首に就任。これまでの黒衣的な立場から表の顔になった。 こうして、新進党を結成し対抗するが情勢利有らずで3年半で解党。 1998.1月、自由党を結成し、その党首として切り盛りする。1998.7月の参院選挙での自民党敗北により橋本政権が退陣し、小渕政権が誕生。11月、一転、自民党と連立政権樹立で合意。1999.1月、小渕政権樹立の際に自民党と連立し与党化する。 同8月の通常国会終盤では、衆院の定数削減問題をめぐって、政権離脱をちらつかせるなど、存在感を見せた。 自自公連立政権発足にあたっても、「連立には政策の一致が前提」と譲らなかった。 2004.4月、政権離脱して三度下野する。2003.10月、自由党を解党し民主党と合流する。2003.12月、民主党の代表代行となり、2004.5月、年金問題により辞職した管代表の後釜として代表に就任する。しかし突然辞意を表明し小沢代表は実現せず。 2004.5.16日 れんだいこ拝 |
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【議員活動履歴】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【藤井裕久のプロフィール】 |
1932(昭和7).6.24日生まれ(2004年現在71歳)。東京大学法学部入学。東大野球部で名捕手として鳴らした経歴を持つ。法学部公法学科卒業後、大蔵省入局。大蔵省主計局主計官、内閣官房長官秘書官(竹下登・二階堂進)上がりの官僚出身。田中内閣の官房長官・故・二階堂進氏の秘書官を務めたのが縁で政界入りした。経済、財政通で、細川、羽田両内閣で蔵相に起用された。参院議員二期目の途中で衆院への鞍替えを試み、落選の憂き目を見たこともある。現在衆議院議員5期目。自民党時代から一貫して小沢一郎氏と共に行動を共にしており小沢グループの大番頭的存在。自由党幹事長、自由党政策調査会長として支えてきた。先の民主党と自由党との合併の際にも重要な役割を果たした。民主党下では、民主党ネクスト財務大臣。このたびの岡田代表体制の下で幹事長に抜擢された。 2004.5.16日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)