ムネオの動静、逆襲考 |
【鈴木宗男氏、胃がんの為出馬断念】 |
前衆院議員鈴木宗男被告(55)は、中川一郎元農相(故人)の秘書を経て83年に初当選。96年選挙では小選挙区で当時新進党の北村直人氏(現自民)に3万票近い差で敗れ、比例代表北海道ブロックで復活当選。鈴木前議員はもともと選挙に強くはない。97年に北海道・沖縄開発庁長官、98年に官房副長官を務めた。00年選挙では比例区の単独候補として当選した。 02年3月、外務省の北方四島人道支援事業などに絡む疑惑の責任を取って自民党を離党した。同年6月、あっせん収賄容疑で東京地検に逮捕され、受託収賄罪など四つの罪で起訴された。が一貫して無罪を主張のまま、衆院議員としては最長の437日にわたって勾留(こうりゅう)され、8月29日に下旬に保釈された。 釈放後の9月以降は地元選挙区を訪れ、自らの無実などを訴え、小選挙区からの立候補を模索していた。小選挙区で当選した実績はない。建設業界などを中心に地元には待望論もあるが、厳しい選挙が予想されている。歌手で同郷の松山千春さんと2人で「新党」を結成、比例代表北海道ブロックから立候補する方法も検討し、28日に公示される総選挙に北海道7区(釧路、根室支庁)から無所属で出馬する方針を固めていたていた。10.15日の中央選管での事前説明会には秘書が出席していた。 北海道7区(旧13区)で自民はコスタリカ方式をとり、当初は鈴木前議員が小選挙区、北村直人氏(56)が比例区北海道ブロックに回る予定だった。しかし、鈴木前議員の離党を受け、北村直人氏(56)の7区出馬が決まっていた。他には、民主が仲野博子氏(44)、共産が八木靖彦氏(63)をそれぞれ擁立する。 10.18日、鈴木被告は、2が、10.18日、北海道釧路市で開かれた拡大役員会で、次期衆院選に立候補しないことを明らかにした。今月3日に胃がんの告知を受け、直ちに手術が必要なためという。鈴木前議員は概要「戦いたいという思いだったが、病気を治すのが先決だと後援会に言われた。今も出たい気持ちだが、この身を皆さんに預ける」と述べた。しかし、出馬を見送るのは今回のみとの意向を示し、政界からの引退は否定した。北海道釧路市で開かれた後援会役員会で、泣きながら何度も頭を下げる鈴木前議員の姿に、出馬を信じて集まった支持者たちは声を失った。 長く支援してきた歌手の松山千春さんも同席し、涙を浮かべながら「本人は『がんでもいいから出たい』と言ったが、我々で止めた」と語った。出席者の大半は鈴木前議員の立候補表明があると予想していた。地元秘書はぼうぜんとし、会場からすすり泣きも漏れた。出席者の一人は「何かの冗談ではないかと思った」と話した。役員会終了後、松山さんと2人で会見に臨んだ鈴木前議員は「戦いたい、やらせていただきたいという思いでした。政治家が病気を公表するのは重いことであります」。一語一語に力を入れる特有の口調で断念の経緯を説明した。 報道陣から「公判中ということは判断に影響しているか」と聞かれると「私は無罪を主張している。判断には一切、入れていない」。比例代表北海道ブロックでの立候補に取り組んできていたことも明かし、松山さんは「いつ来るか分からないが、次の衆院選に向かって頑張ってほしい」と語った。「見送るのは今回の衆院選だけか」と質問されると、鈴木前議員は「松山さんのおっしゃる通りです」と答え、今後の政治活動に意欲を示した。鈴木前議員の立候補断念の背景には、現状では当選困難な情勢もあったとみられる。「今回、小選挙区で出ても2万票台しか取れない。勝つ見込みはゼロ」と、釧路市の後援会幹部は冷静に分析していた。 |
2005.10.27日の週刊新潮が、仮題「外務省の犯罪を暴く! 鈴木宗男証言(1)」を掲載している。これを確認しておく。正式タイトルは、「『外務省の犯罪』を暴く!(1)『真紀子を追い出してください』と頼みに来た『飯村官房長』 鈴木宗男 【実名告発手記】」である。 冒頭で次のようにナレーションしている。
鈴木氏は、2005.9.11日総選挙で修議員に返り咲いた。「外務省の腐敗」を知り尽くしているムネオの復活は、外務省を震撼させた。早くも「対応マニュアル」を作成し、ムネオとの接触に警戒信号を発した。 宗男は、これに反発し、こたびの告発証言となった。「今後は、私の知る限りの実態を明らかにすることが、国民に対する責任であり、義務だと真剣に考えたのです」とある。第1回は、田中真紀子外相追い落とし事件の内部告発となっている。平成13.4.26日、真紀子が外相に就任する。真紀子は、小泉首相の「聖域なき構造改革」を言葉通りに受け止め、外務省の改革に乗り出した。 平成13年元旦、松尾克俊・元要人外国訪問支援室長の機密費流用が表面化した。これに端を発する一連の不祥事「外務省の機密費詐取事件」が発覚した。松尾の後ろ盾には元事務次官の斉藤邦彦がいた。真紀子は、派これに対するケジメをつけ始めた。手始めに、英国公使に転出が決まっていた小寺次郎課長の人事を凍結した。この異例の「人事差し」に対して、外務官僚が反発した。真紀子は怯まず、「追加処分は国家公務員法上できない」と進言した飯村の大臣室出入りを禁止した。外相と外務官僚との政争により、来日中のアーミテージ米国国務副長官との会談もドタキャンとなった。上村司秘書官が心労のため休職した。 この時、ムネオは、外務委員会の筆頭理事、自民党外交調査会副会長、体外経済協力特別委員会委員長であった。この関係の深さから、外務官僚(飯村豊官房長、坂場三男総括審議官)との折衝が日常化していた。6月頃、飯村が、「真紀子の追い出し」を依頼している。続いて、6.15日、川島裕事務次官が、「ムネオのサポート」を依頼している。6.18日、飯村が、「国会で質す」よう催促している。坂場審議官が、真紀子の行動記録や会談記録、外遊時の秘密電報を持ってきている。続いて、指輪紛失騒動が持ち上がる。 6.20日、ムネオが、衆議院の外務委員会で質問した。これが初対決となった。小寺の人事の件と北方領土問題について質疑した。6.27日に2回目の質疑が決まった。真紀子が、ムネオの質問時間を制限するよう外務委員長に要求し、問題になった。2回目の質問が終わった。8月、川島事務次官が更迭され、後任として野上義二が就任した。野上も反真紀子派であった。平成14年に入り、アフガン復興支援会議で、NGOの参加拒否問題が持ち上がった。真紀子対ムネオ対決は、真紀子対野上対決となった。最終的に、喧嘩両成敗となり、真紀子辞任、野上更迭となった。 1.28日、飯島秘書官がムネオのところへやってきて、「小泉も決断しました。田中の首をとります。ついては、鈴木先生にもご協力根がいたい」。 「私にも反省すべき点はたくさんあったと思います。私は、外務官僚に一方的に利用されたとは思っていないが、彼らが鈴木宗男を頼っていたということはあった。そして、私が守ってきたことで、結果的には外務省の悪しき体質は温存されてしまった。田中さんがやろうとした外務省改革は、目標としては正しかったと思う。ただ、勉強不足で、方法論が稚拙だった」。 |
(私論.私見)