ロシア10月革命で樹立されたボリシェヴィキ革命政権内の指揮系統、議論、信義の様子について確認しておく必要がある。案外と解析されていないにも拘わらず重要なことではなかろうか。
レーニンを核としてその周りにトロツキー、その他古参の革命家群が取り囲み、内部的には様々な思惑を秘めつつもソ連共産党の前身たる社会民主労働党ボリシェヴィキ派としては一団となって10月革命に挺身した。そして、レーニンが最高指導者となりその後の建国革命に邁進する。レーニンの最高権力者期間は、1917.10.25日(旧暦)から、1922.12.16日の第2回脳卒中発作で倒れるまでの5年2カ月間だった。
この間のレーニンの位置について、トロツキーは、「我が生涯2」の中で次のように論評している。
「レーニンには、天才的人間中の天才としての素質があった。だが、彼は過ちも犯さない計算機械ではなかった。それを、彼は、彼のような位置にある、他の如何なる者よりも犯さなかったというだけだ。しかし、レーニンが誤りを犯したとき、それは極めて影響が大きかった。その仕事の全てのように大規模なものだったのだ」。 |
「多く名権威のあるこの会議の席上で、私は次の如く言明するのが自分の義務であると信ずる。即ち、ブレスト・リトウスクの講和を調印するのが適当であるかどうか、認容され得るかどうか、私をも含めて、我々の中の多くの者が、均しく決しかねていた時、一人同志レーニンのみ、比類なき忍耐力と洞察力とをもって、世界のプロレタリアートを革命に導くには、それを忍ばなければならないことを、我々多数の意見に反対してまで、明言し続けたのであった。そして現在、どちらが正しかったかといえば、正しかったのは我々の方ではなかったと、告白せざるを得ないのである」(「1918.10.3日、トロツキーのソビエト権力最高機関臨時合同会議での発言」)。 |
これによれば、レーニンはその天才的能力故に最高指導者として君臨していたことが分かる。付言すれば、この段階に於いては、個人独裁、個人崇拝の域には達しない。その内実の秀逸さにより最高指導者足りえていたことが分かる。
ロシア10月革命遂行とその直後からの数年間、いわゆるスターリニズム体制が確立されるまでの革命政権は、レーニンとトロツキーの二艘建て指導であったように思われる。そして、レーニンとトロツキーの関係は、互いが自律自存した「君子の交わり」のようなものであった。後の、スターリニズム的民主集中制という名の最高指導者独裁ー拝跪主義は微塵もなかった。
トロツキーは、レーニンとの交わりに就いて「我が生涯2」の中で次のように述べている。
「私はレーニンと意見を異にした場合にはそれを公然と発表し、必要と思った時には、党に訴えようとした。しかるに亜流どもは、レーニンと意見が相違した場合には、私の場合よりは遥かにその度合いが多かったにも拘わらず、いつもそれについて口を噤んでいるか、又はスターリンのように、拗ねて、モスコウ近くのどこか田舎へ数日隠れてしまった」。
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概要「私とレーニンとの間には、しばしば重大な意見の衝突が起っていたが、そうした意見の衝突が、私たちの個人的な関係にも、私たちの共通な仕事の面にも、いかなる跡も残さずに、実践に於いて乗り越えられていた」。 |
「実際の仕事の上で、レーニンは、従順な助手を必要としていたのだが、そういう役割には、私は全く向いては居なかった。だから、私には、レーニンが私にその代理を勤めるよう、提議しないでくれたことについて、大いに感謝を抱く他はありえなかった」。 |
トロツキーは、もっと具体的に「我が生涯2」の中で次のように述べ証言している。
「ほとんどの場合いつでも、レーニンと私の双方とも、到達した決定には、そのあらゆる要点に於いて一致するのだった。私たちは、お互いに言外の意味をも理解した。政治局や人民委員会議の決定があやふやに作成されたもののように思われるとき、私は小さな紙片に走り書きして、レーニンに回した。と、彼は、私に答えた。『まさにその通りだ。提案を頼む』。時には、彼もまた同じやり方で私に質問を発し、私が彼の提案に賛成かどうかを知ろうとし、又、彼を支持するようにと求めるのだった。しょっちゅう、彼は、懸案の事項に適用すべき方針について、私と電話で話そうと試み、問題が重要な時には、彼は、しつこく繰り返して云うのだった。『絶対に、絶対に君はやって来なくてはならない』。
私たちが同じ考え方を表明する時ー原則的問題のほとんど全てについてがそうだったー採択された決定に不満な連中、その中に今日のエピゴーネンどもがいるのだが、彼らは、ただ黙りこんでいるだけだった。スターリン、ジノヴィエフ、はてはカーメノフまでが、第一級の重要性を持つ問題で私と争っていながら、それについてレーニンが私と全く同意権だ、ということがはっきりすると、忽ちにして、黙り込んでしまうというようなことが、何度起ったことか」。 |
これによれば、レーニンとトロツキーの信頼が如何に厚かったかが分かる。実に、ロシア10月革命政権の初期は、この両雄の類稀なる「君子の交わり」的二艘建て牽引ではなかったか。それは、今日から見て数多くの失政もしているが、他の誰によっても為しえない歴史的に珍しいケースの革命推進の名舵取りの協働ではなかったか。
レーニンとトロツキーの関係をどう評するべきか。宮地健一氏は、「1917年〜22年のレーニンと赤色テロル」の中で次のように述べている。
「トロツキーの評価については、いろいろあります。レーニンとトロツキーとの関係だけを考えます。トロツキーは、革命前の亡命中において、レーニンとの意見の対立がありました。しかし、武装蜂起からレーニン第2回発作までの5年2カ月間、トロツキーとレーニンとの関係で、意見の相違はあっても、路線・基本政策上での意見の根本的対立はありませんでした。武装蜂起の是非をめぐるレーニンとジノヴィエフ、カーメネフとの対立、ブレスト講和条約締結の是非をめぐるレーニンとブハーリンらとの対立のような問題は、起きていません。よって、このファイルで引用する『トロツキーの命令・発言』は、レーニンの意思とほぼ同一である、という観点で、私(宮地)は使っています」。 |
れんだいこは、宮地氏のこの見立てを支持する。レーニンとトロツキーは、様々な対立よりもマルクス主義者としての協働の方にこそ重点を置いて着目されるべきではなかろうか。スターリニズム以降定式化された悪の代名詞的「トロツキズム」批判は実態に齟齬し過ぎている、そう見立てるべきではなかろうか。
1922.10.14日、ラデックは、プラウダに次のように書いている。(トロツキー「我が生涯2」)
「もし同志レーニンを、意志の感化によって、それを支配する、革命の理性と云えるとすれば、同志トロツキーは、理性によって抑制される鋼鉄の意志と名付けることができよう。トロツキーの言葉は、労働を告げる鐘のように鳴りわたる。その言葉が示す全て、その意味するもの、我が来るべき年の仕事の異議そのものが、そこに全て明らかになる」。 |
1923年、ルナチャルスキーは、次のように記している。(トロツキー「我が生涯2」)
「レーニンとトロツキーは、殆ど全てにわたって、我が時代の愛と憎しみの対象として、最もポピュラーな人物となった。ジノヴィエフは、いささかその後塵を拝している。が、レーニンとトロツキーは、既に長い間我が戦列のうちでは、余りに抜きん出た天才として、抗弁する余地もない指導者として、みなされてきており、革命の間の彼らの桁外れの飛翔も、格別驚くべきことと誰にも受け取られなくなっている、ということは認められねばならない」。 |
2006.1.2日 れんだいこ拝 |