編 者 前 説
本篇を編むにあたって少しばかり釈を加える必要を感じた。以下編者の説明である。
著者、故松田道雄氏が河出書房新社「世界の歴史」シリーズの一冊として本書を世に出されたのは、初版が1970年、新装第3刷が1977年である。ボクが手にしたのは77年版だった。本書を精読してボクは、それまでのロシア史観がいかに偏ったものだったかを知った。前にも幾たびか、戦中ソ連に留学し、モスクワ大学で公式版図書のみによって学んだため、なんでもソ連が正しい、レーニンが、スターリンが正しい、といった極めて偏頗な知識しかもたなかったと反省する文章を書いたが、本書を読んで別してその感を深くした。
たとえば、ボリシェヴィキ、レーニン、アナーキスト、バクーニン、トロツキー、そしてメンシェヴィキ、プレハーノフとの革命観の相違、また二月革命、十月革命の真相、などについて幾多新しい解釈を知ったのである。
つぎに、本書はきわめてわかりやすく書かれており、他の歴史書のようにへんにペダンチックなところがなく、まさに「読み物」というに、ふさわしい平易な書きぶりである。故松田氏があとがきで、「マルクス主義を本職としている学者たちが『ロシアの革命』を書かなかったせい」だと記しているのも、むべなるかな、である。これなら固い文章が苦手といわれる今風の学生にも読んでもらえると思った。
さらに、原書は400ページになんなんとする大著なので、拙著で全部はとても紹介できない。せいぜい載せて5,60枚である。従って最大必要な部分だけに限定させてもらうことにした。また、文章は、当方の責任において多少添削させてもらった。著者欄を「松田道雄から」としたゆえんである。
最後に、原著が取り扱った事柄は百年も昔にかかわらず、その内容は、たとえば、今の日本の政情にぴたり当てはまるほど、きわめて今日的である。比較考量しながら、批判的に読みこんでいただきたい。 |
ロシアの革命 松田道雄著から
プロローグ
1828年、ふたりの少年がモスクワ市を見下ろせる雀が丘の上に立っていた。眼下を曲がりくねって流れるモスクワ川には小船が浮かび、地平線にシルエットを見せている多くの教会の尖塔やドーム(円屋根)が落陽にかがやいていた。木造の民家は夕もやのなかにかすんで、河原に生える雑草のかなたに没していた。
ひとりの少年は、アレクサンドル・ゲルツェン(1812-70)といった。秀でたひたいとかがやく大きな目をしていた。もうひとりの少年はひとつ年下でニコライ・オガリョフ(1813-77)といい、高い鼻ときざみの深い二重まぶたをもっていた。服装からふたりとも貴族の子であることが、すぐわかった。
このふたりは、ごく最近知り合った遠い親戚である。ふたりを近づけたものは、お互いのよく似た環境だった。ゲルツェンは、父が母と正式な結婚をしていなかった。広い屋敷の一階と二階とに別居している父母は、和解しなくなってから長い。父の母に対する態度、家のなかにいる下働きの農奴に対する態度、ともにゲルツェンは反感をもっていた。愛読しているドイツの詩人シラーが、ゲルツェンに人間の尊厳を教えていたからだ。
オガリョフもまた父に憎悪に近い感情をもっていた。早く母を失ったオガリョフは、かつて父の農奴であり、いま土地の管理を託されている婦人の家にあずけられていた。この婦人は信心深く教養もあった。フランス人やドイツ人の家庭教師が何人もついていたのは、ゲルツェンと同じだった。オガリョフが一番いやなのは、大勢の面前で父が農奴を気に入らないといって、なぐりつけることだった。ゲルツェンはオガリョフもシラーを愛読しているのを知ってとても喜んだ。長いこと、そういう友だちを探していたのだ。さらにオガリョフが、印刷することを禁じられているプーシキンやルイレーエフの詩をそらんじているのを知ったとき、ゲルツェンは歓喜のあまりオガリョフを抱いたほどだった。ぼくたちはデカブリストを知っているのだ。デカブリストの貴族たちがなぜ処刑されたり、流刑になったりしたかを知っているのだ。そうだ、ぼくたちは皇帝を頭にいただくロシアの専制政治に反対なのだ。ふたりの少年は、モスクワの街を見下ろしながら、二人だけの誓いを立てた。
「ぼくたちのいのちを、ぼくたちの選んだ戦いのために捧げよう」
この日から雀が丘は、ふたりにとり祈りの場となった。1年に1,2度は必ずこの神聖な丘に行ってふたりは誓いを固めるのだった。そしてふたりは生涯その誓いを破らなかった。ゲルツェンもオガリョフも、ロシアの革命のために、たたかい、流刑になり、亡命し、助け合いながら異国に死んだ。
ゲルツェンもオガリョフも神を信じなかった。神を信じるかわりに革命を信じた。革命だけが地上に正義をもたらし、人類を救済する。義によって革命のために戦うのは、知によって生きる知識人でなければならない。
では、救われるべき人民はどこにいるのか。人民は眼下の薄暮にけむるモスクワのあばら屋にいる。モスクワを越えてバルト海から太平洋に広がる広大な母なるロシアの大地にいる。人民は神を信じている。人民は皇帝を信じている。ふたりの少年が革命を信じるよりも深く信じている。
酔ったときはけもののようになりはするが、どの民族にも劣らないロシア人民は、いつ神を信じることをやめて革命を信じるだろうか。 |
専制の国
ゲルツェンらの世代にとって、デカブリスト事件は大きなショックだった。貴族が皇帝に反乱を起こした。そして刑罰から除外されるはずの貴族が5人も絞首刑になった。デカブリストとはいったい何だったのか。
1812年、モスクワに侵入したナポレオン軍の優勢を、焦土戦術によって逆転させたロシア軍は、追撃してヨーロッパにいたった。貴族の青年将校は、自分の目で専制から解放された文明を見た。フランス語もドイツ語も自由に解する青年貴族は、街なかで市民の自由を知った。ロシアは何と遅れた国か。このままでは、国の独立もあやうくなるだろう。専制政治と農奴制は廃止しなければならない。
戦争が終わって帰国した貴族青年たちは、改革について相談し合った。1816年、「救済同盟」という秘密結社がペテルブルクにつくられた。中心になったのは、ニキータ・ムラヴィヨフ、セルゲイ・トルベツコイ公爵、ムラヴィヨフ・アポストル兄弟などだった。
いずれも近衛師団の将校か名門貴族である。のちに、オルロフ、ミハイル・フォンヴィージン、パーヴェル・ペステリが加わった。翌年、モスクワに会合して「福祉同盟」と改名し、規約「みどりの書」をつくった。これはドイツ愛国的青年の政治的な秘密結社「トゥーゲントブント」の規約を焼き直したものだった。それは革命組織の規約というより博愛クラブの規約に近かった。だが、それは表向きのこと、メンバーの間では、専制と農奴制の廃止は了解事項だった。
この同盟の活動も政府に筒抜けとわかって、メンバーは偽装解散した。そしてペステリを中心とする南方結社とニキータ・ムラヴィヨフを中心とする北方結社とにわかれて、それぞれ別の綱領をもった。
12月14日 1825年11月19日、皇帝アレクサンドル一世(1777-1825)が行幸先で急逝した。後継者について宮廷のなかでもめた。皇帝のすぐ下の弟コンスタンチン大公は人気があった。一般には彼が帝位を継ぐと思われたが、彼にはその意志がなかった。その下の弟ニコライ大公(1796-1855)が結局帝位に就いたのだが、そのために3週間ほど手間どった。北方結社のメンバーは、このチャンスをつかんで武装蜂起をくわだてた。12月14日に元老院と近衛師団が、新帝に忠誠の宣誓をする日を、蜂起の日とした。
指揮官たちは、首都を守備する連隊を説いて回った。蜂起に同意したのは、ベストゥージェフの指揮するモスクワ連隊の砲兵と陸戦隊合わせて3000人だった。これに対して、政府側に残った軍隊は9000人を超えた。反乱軍はネヴァ河畔の元老院広場に方陣をひいて整列した。反乱軍は有能な指揮者を欠いた。総指揮をするはずだったトルベツコイはオーストリア大使館に逃げ、扇動家の詩人ルイレーエフも右往左往するだけだった。
反乱軍を説得にきたペテルブルク総督ミロラードヴィッチもスチュルレル司令官も反乱兵によって射殺されてしまった。説得はむだだとして、ついにニコライ一世は決意した。凄惨な砲撃が始まった。反乱軍は傷つき倒れ、薄闇の迫るネヴァ河畔の雪が血に染まった。反乱は失敗に終わった。
南方結社もうまくいかなかった。密告でペステリが逮捕された。彼に代わって指揮に就いたセルゲイ・ムラヴィヨフ・アポストルの率いる1000人のチェルニーゴフ連隊は優勢な政府軍によって潰滅した。
反乱した貴族に対する審問と処分は厳しく、ニコライ一世がみずから訊問に当たった。指揮者のペステリ、ルイレーエフ、ムラヴィヨフ・アポストル、ベストゥージェフ・リューミン、そしてミロラードヴィッチを射殺したカホフスキーの5人は絞首刑、重労働ならびに終身刑31人、有期流刑85人だった。事件に関連があるとして逮捕されたものは500人を超えた。
皇帝権力の支柱である貴族が皇帝に対して反乱を起こしたことは、専制権力にとっては、いまわしいがぎりだった。しかし、専制権力と農奴制に反感をもつ者は、いつも専制権力を倒そうとして戦いに命を捧げたデカブリストを忘れなかった。
雷のとどろくときがきて
眠っていた人民が蜂起すると
聖なる自由の軍隊は
その隊列にわれわれを見いだすだろう
というルイレーエフのベストゥージェフに捧げた詩は、ひそかに書き写され、あるいは口づてに広まった。デカブリストだけでなく、その妻たちも自由と平等を愛する人たちによって語り伝えられた。流刑地に送られるデカブリストの妻たちは、一切の市民権を奪われながら、地位も財産も捨てて、夫の流刑地についていった。あらゆる障害を乗り越えて、流刑地に行き、そこで結婚の式をあげたフィアンセもいた。
詩人プーシキンは、シベリアにいる友人に励ましの詩を送った。
シベリアの鉱道深く
誇り高く耐えよ
おん身らの悲しい骨折りと
気高い志は 消えることはない
シベリアの流刑地からオドエフスキーがこれに答えた
予言の歌のひびきは
燃えさかってここにとどいた
剣に差しのべられたわれらの手は
むなしく鎖に捉えられた
だが詩人よ、安んじてほしい
運命の鎖をわれわれは誇る
牢獄のとびらのかげで
心はツァーリをあざ笑う
われわれの悲しい骨折りは消えない
火花から炎が燃え上がるだろう |
農奴解放への道
ベリンスキー 1811年、フィンランド、スヴェアボルクに海軍軍医の子として生まれたベリンスキーは、貴族の子弟にまじってモスクワ大学に学んだ。在学中に発表したドラマが専制政治を批判しているというので退学を命じられた。彼のような雑階級といわれる貴族でも農奴でもない身分の人間には、政治警察から危険人物の刻印を押されると生活の道を絶たれる。知恵の果実を食べたインテリに残された道は、ようやく読書人口の増えたのを当てにして文筆業者になるしかない。政治を論じることが許されないのだから、文学を論じるほかない。
ベリンスキーにとって幸運だったことは、眼前にロシア文学が開花しはじめたことだった。プーシキン、レールモントフ、ゴーゴリの作品が批評を待っていた。文学にすばらしい感覚をもっていた彼は、ロシア文学が貴族のあいだで読まれているフランスの二流小説に比べて、どれほどすぐれた文学であるかを読者に教えた。彼はロシアに散文という芸術が誕生したことを祝福したが、同時にロシアに批評が生まれたことを知らせたのである。文学も批評も等しく時代意識であるが、批評は哲学であり文学は直感であるところが違う。文学は批判的であることによってのみ時代精神を具現するのである。作家が生活を描くだけで、時代の問いに対する答えをしないなら作品は死ぬ。人が楽しむだけでなく知ることを欲するのが現代である。いまの世紀は芸術のための芸術を拒否する。何のために生きるのか、何が真実であるのかを、今日の知性で捉えなければならない。
こういう彼に対して検閲は厳しく、彼の文筆活動は困難を増し、生活は困窮を極めた。しかし、モスクワやペテルブルクの青年たちは、毎月末になると待ちきれず、日に何回もコーヒー店に立ち寄って、ベリンスキーの論文の載る「祖国記録」誌がまだ来ていないかと尋ねるのだった。
ベリンスキーの逮捕は時間の問題だった。ペトロパヴロ要塞監獄の司令官スコベレフは、ネフスキー大通りでベリンスキーに会ったとき声をかけた。
「いつ手前どもへお来しですか。独房を温かくしてお待ちしますよ」
だが、秘密警察は先を越された。長いあいだベリンスキーを苦しめた肺結核が1848年ひと足さきに彼を連れていってしまった。
ゴーゴリへの手紙 現実を描きうる作家が必ずしも現実に批判的でない。『検察官』や『外套』においてロシアの官僚制の愚かな現実を見事に描いたゴーゴリが、皇帝や宗教に対して、敬虔を示した『友人との往復書簡集』を出したとき、ベリンスキーは我慢できなかった。いよいよ重くなる結核の療養でザルツブルクに保養中だった彼は、早速ゴーゴリにあてて手紙を書いた。
国外で検閲をはばからず書かれたので、この手紙はベリンスキーの権力に対する考えをはっきり示した。この手紙は多くの手によって書き写されてロシア国内で読まれた。それは権力に対する知的反対者の思想を表わしていた。
手紙は、ゴーゴリになぜ君は人びとのあいだで評判がよかったかを説いてきかせる。ロシアの人民は新鮮な力をもっているが、専制に抑えつけられているので、そのはけ口を知らない。沈滞や憂うつしかないのかそのためだ。だが、この専制の重圧をはねのけられるところが文学なのだ。文学にだけ生活と前進がある。だから、それを見せてくれる作家を人民はもてはやすのだ。この作家が宗教と専制の前に身をかがめたら、もうおしまいだ。人民はたちどころに見放す。
僧侶はロシア人にとっては、大食でけちでおべっか使いで恥知らずの代表ではないか。ロシアの救いは神秘主義のなかにあるのでも禁欲のなかにあるのでもない。ロシアの救いは文明と啓蒙とヒューマニズムのなかにある。ロシアにはもう説教も祈祷もたくさんだ。ロシアに必要なのは人民の心のなかに人間の尊厳の感情を目覚めさせることだ。良識と正義の法律だ。今あのロシアにもっとも必要なのは、農奴制の廃止と体罰の禁止、法の厳正な適用だ。
専制政治と農奴制の廃止は、かつてデカブリストも唱えたが、ベリンスキーのように人民のなかに新鮮な力があることは言わなかった。しかし、ベリンスキーも、その力を何によって噴出させるかについては言っていない。
ロシアの救いが文明と啓蒙とヒューマニズムにあるというところは、ロシアがヨーロッパの道を歩むべきことを示唆している。それはピョートル大帝の選んだ道である。事実、ベリンスキーはピョートルが好きだった。
スラヴ主義 ベリンスキーがピョートルを肯定したのに対して、ピョートルを肯定しない考え方があった。ピョートルは以前からあった良いものを壊してしまった。ロシアの不幸はそこからはじまるという。それがスラヴ主義である。
スラヴ主義に対し、ピョートルのとった西欧化政策を良しとする者は西欧派と呼ばれた。ベリンスキーのほかにゲルツェンがいる。
両派の対立のきっかけになったのは、1836年チャアダーエフ(1794-1856)が「テレスコープ」誌に発表した『哲学書簡』だった。チャアダーエフはかつて軍人だった貴族で、デカブリスト蜂起のとき、たまたま国外にいて反乱に加わらなかった。ドイツでシェリングと交友であったほどの学究だった。『哲学書簡』は、ロシアの過去は空虚であり、現在は耐えがたく、未来は存在しない。ロシアは西欧から孤立していたため、隔離と隷属から理性の空白状態ができたのだと言った。デカブリスト以来、ロシアのなかで専制に対するこれほどはっきりした告発はなかった。それは闇夜にひびいた一発の銃声のように知的ロシアを覚醒させた。チャアダーエフは皇帝によって狂気とされ、今後一切ものを書かないと約束させられた。
ロシアの将来が西欧の進んだ道を追うのか、それともロシア独自の道を進むのかは、それ以後くりかえし論争されることになるが、西欧をよく知っている者の方がかえってスラヴ主義者になったのだった。ベリンスキーが死の直前にドイツに行っただけで、ドイツ語もフランス語もよく解さなかったのに対し、スラヴ主義者のキレーフスキーはドイツで哲学を学んだし、ホミャコフはパリ生活が長い。両派は同じサークルで仲良く論じ合っていたし、どちらも農奴制には反対だった。彼らを一概に体制と反体制と割りきって対立させることはできない。違うのは、スラブ主義者がキリスト者だったのに対し、西欧派の多くが無神論者だったことだ。 |
若いロシア
ゲルツェンの社会主義 ゲルツェン(1812-70)は専制ロシアから亡命の自由求めて脱出した。そのときゲルツェンは西欧派だった。ヨーロッパ各地で彼は、ロシアでみられない自由を楽しむ労働者に驚異の目を見張った。折から起こった48年のヨーロッパを覆う革命の波を彼はイタリアの各地とパリで見た。パリでは社会主義とブルジョアが対決した。ブルジョアの勝利に彼は絶望的になった。ブルジョアの自由な国の共和国というのは、人間性の喪失ではないか。ゲルツェンは思った。ロシアはヨーロッパとは違った道を進まなければならない。専制政治の否定が社会主義だとすれば、ロシアの社会主義は新しい社会主義でなければならない。われわれはヨーロッパから遅れているが、それだけ自由なのだ。
ゲルツェンがヨーロッパから「祖国記録」誌に書き送ったこれらの言葉は、次代ロシアの革命家に共通した信条となった。ロシアの社会主義はヨーロッパのそれとどこが違うか。ロシアでは社会主義の担い手が農民なのだ。ヨーロッパの社会主義がその担い手としてプロレタリアを見つけるまでには色々と回り道をしたが、ロシアでは道はまっすぐだ。社会主義の原理は農村共同体のなかに生きながらえている。「ロシアへの信頼が道徳的破滅から私を救ってくれたのだ」(『フランスとイタリアからの手紙』)
ゲルツェンに対して1850年に帰国命令が出されたが、ゲルツェンはそれを拒否して生涯の亡命者となった。盟友オガリョフと一緒にロンドンに自由ロシア印刷所をつくり、雑誌『ポリャルナヤ、ズヴェズダ』(北極星)、新聞『コーロコル』(鐘)を発行し、専制政府を糾弾し、ロシア内部で押さえられている事件や禁止された詩を掲載した。これらは秘密ルートでロシアに運びこまれ、多数の読者をもった。
「西欧派かスラブ主義か」という論争は、そのもっともラジカルな部分で統一された。それゆえ、ゲルツェンは、スラブ主義者のK.アクサーコフが死んだとき、『コーロコル』紙上にその死を悼んで書いた。ロシアの社会主義はゲルツェンによって礎石を置かれたのである。
学生運動の波 農奴解放によって体制が安定でなしに、動揺を深めていったことを、よく示すのは学生の動きである。学生は時代のもっとも敏感なバロメーターである。1861年に政府は大学の自由を制限する法を定めた。許可なしにいかなる集会ももってはならない。授業料の免除は各学部につき2名とする、等々。それまで授業料免除は学生の半数以上であったのに。
この規則「改正」を大学当局は告示するのをためらった。9月23日、ペテルブルク大学で学生の大集会がもたれた。学長に面会を要求した学生は、「学長は帰宅した」と告げられた。それなら自宅へ行こうと学生たちは隊伍を組んで、大学の門を出た。それが、ペテルブルクにおける最初の街頭デモであった。
ネフスキー大通りを通るデモに対して、理髪店をやっていたフランス人がとび出してきて「レヴォルシオン(革命)、レヴォルシオン」と叫んだ。
デモに驚いて、大学に隠れていた学長は、こんどは本当に自宅に向かった。軍隊と学生との衝突を避けさせようとしたのだった。学長を見つけた学生たちは、大学で改めて話し合いをすることにして、学長を先頭にして再び同じ道を引き返した。大学での話し合いはつかず、学長は軍隊の出動を求めた。多数の逮捕者が出た。逮捕者の釈放を要求した学生は、さらに集会をもった。
こうして大学紛争は始まった。62年はほとんどの学部が閉鎖された。大学が再開したのは2年後の1863年の夏だった。その間、学生たちはいくつかの自主講義をもった。終始、学生の運動を支持していた「サヴレメンニク(同時代人)」誌の編集長チェルヌイシェフスキーは自主講義の第一候補だったが、当局は許さなかった。9月23日の学生集会に、砲兵学校の生徒を合流させて、軍隊による規制を妨げてくれた砲兵学校の教授ラヴロフも招待されたが、これも当局の反対にあった。学生運動にどういう態度をとるかによって知名人たちの思想は学生によってテストされたのだ。
1863年のポーランド(当時ロシア領であった)革命によって、にわかにロシアの民族意識が高まったのに乗じて政府は学生運動を押し切った。教授会の自治と引き替えに学生の自治は完全に奪い去られた。学生運動を鎮圧することに政府は成功したが、この学生運動から成長してきたものが、やがて政府を脅かすことになる。
「若い世代へ」1861年9月のある日、ペテルブルク市街の広告柱や壁に「若い世代へ」と題する宣言ビラが貼られた。ビラは明らかに騒動を起こしている学生をねらって書かれていた。
「君たち、人民の指導者よ」という呼びかけで、ビラは君主制の廃止を訴えた。「われわれを苦しめ、知的にも市民的にも経済的にも発展することを妨げている権力は、もはや必要でない。1848年にヨーロッパで失敗したことは、わが国でそれが不可能だということを意味しない。経済や土地関係がヨーロッパとロシアとでは違う。ヨーロッパには農村共同体がない。われわれは遅れているが、それがわれわれの救いだ。ヨーロッパの不幸はわれわれにとって教訓である。われわれには新鮮な力がある。この力で新しい歴史をつくっていけばいいので、ヨーロッパのまねをすることはない。信じなければ救われない。われわれはわれわれの力を深く信じる。われわれが願うのは、合理的な権力、言論の自由、検閲の廃止、人権の尊重、働く者の土地所有権だ。われわれは町人やブルジョアがなくなってほしい。ロシアの希望は、あらゆる層の若い世代からなる人民の党だ。すぐ行動に移ろう。一分も失ってはならない」
ここに書かれている革命の宣言は、打倒すべき目標を明らかにし、革命党の必要を訴えている点で、画期的なものである。指導はインテリゲンチアがしなければならないが、党と人民の関係、革命後の権力の形態についてはまだ触れていない。しかし、ヨーロッパのあとを追う必要がないことは、はっきり宣言している。しかも革命は急がねばならない。農奴解放の年に出されたこの革命宣言は、それ以後の革命綱領のキーノートになった。
この宣言を書いたのは、チェルヌイシェフスキーの学友だった詩人のM.ミハイロフとN.
シェルグーノフである。宣言はロンドンのゲルツェンの印刷所で刷られミハイロフ自身によって国内に持ち込まれた。その一部を渡したコストマーロフ某が捕らわれたので、ミハイロフらは十分な準備を待てずに宣言を配布しなければならなかった。
コストマーロフ某は第三部(諜報機関)に秘密を売った。ミハイロフは逮捕されたが、同志シェルグーノフに累を及ばさないよう一切を自分の行為だと「自白」し、12年の強制労働とシベリア送りの判決を受けて流刑地に送られた。シェルグーノフ夫妻は自分も同罪だとしてシベリアに行き、15年を流刑地で送った。からだの丈夫でないミハイロフは65年に死んだ。
革命民主主義者チェルヌイシェフスキー 彼は農奴解放令が出る以前から、解放は農民自らの手によることを説いており、専制政府にとって危険きわまる人物だった。チェルヌイシェフスキーは哲学、歴史、経済学について深い学殖をもち、学生時代からフランス社会主義に触れて、ロシアの将来についても、当時もっともラジカルな考えをもっていた。
ゲルツェンは1862年まで、ロシアできわめて高い評価を得ていたが、自由主義者との交友や西欧の議会制のもとでの生活が、彼をかなり穏健な思想の持ち主にしてしまったきらいがある。その点で農民の武装蜂起を期待していたチェルヌイシェフスキーは、急進派のなかで絶対的な信頼をかちえていた。そういう思想をチェルヌイシェフスキーは公然と書くことはできなかったが、農民蜂起をアピールした秘密の文書が彼の手によるものと革命家のすべてが信じていた。
チェルヌイシェフスキーが逮捕されるだろうということは、既成の事実のようになっていた。彼の注意深い言動は容易に検挙の口実を与えなかった。しかし農奴解放のあとに農民一揆が多発するようになると、政府としては猶予がならなくなった。彼は62年7月に逮捕されて、ペトロパヴロ要塞監獄に収監された。ゲルツェンと連絡をとったこと、秘密の文書を流したこと、反逆の意図があること、などが逮捕の理由だったが、どれも物的な証拠がなく、スパイの偽証によって裁判はとりつくろわれた。1864年5月、判決がくだって14年の強制労働とシベリア流刑が決まった。政治犯に対する見せしめとして、都心の広場で「公民権剥奪」がおこなわれた。
獄中でチェルヌイシェフスキーは小説『何をなすべきか』を書いた。彼および彼の周囲の革命家をモデルにした革命殉教者の物語である。この小説はそれから何十年ものあいだ革命家の座右の銘となった。著者もまた自作の真実に対して誠実であり、極寒のシベリアで何度か、転向すれば帰してやるといわれたが、がんとして応じなかった。非転向のチェルヌイシェフスキーがシベリアの獄中で壁に向かって本を読んでいるということが、その事実によって革命を志す青年を励ますのだった。しかし革命の聖者も、はるか故郷の家族から年に1−2回の便りがあった夜は、声を忍んで泣いていたという。
チェルヌイシェフスキーは1889年になって逮捕以来27年ぶりにやっとサラトフへの帰還が許されたが、彼の全エネルギーは、抵抗のたたかいで使い果たされ、故郷で4カ月しか生きる力しか残していなかった。
「土地と自由」
1860年の初めに、ロンドンのゲルツェンのところへ若い男がやってきた。25歳のこの男は、ニコライ・セルノ・ソロヴィエーヴィチ(1834-66)といってペテルブルクの官吏の子だった。早くからプルードン、サン・シモンなどのフランス社会主義を学び、ゲルツェンの愛読者だった。クリミア戦争の敗北に大きなショックを受けた彼は、官吏となって上からの改革に大きな期待をかけていた。しかし皇帝への直接のアピールも受け入れられず、官僚制度の内面の腐敗にも絶望した。社会主義以外にロシアの救いはありえないと確信するにいたった。チェルヌイシェフスキーの経済学に深く動かされて、経済学を学ぶため1858年に辞職してヨーロッパに行った。農村共同体を基礎にして、国家の経済援助でロシア特有の体制をつくるというのが彼の意見だった。
ゲルツェンとオガリョフはこの俊英な経済学者に多くの期待をよせ、ロシアの中に革命組織をつくる相談を始めた。これが、秘密の革命組織「土地と自由」のきっかけである。61年に農奴解放令が出ることがわかって、彼は急いで綱領をつくりはじめた。執筆者はオガリョフだった。しかしゲルツェンは秘密の革命組織に気乗りがしないようだった。
綱領は、革命の組織がまだ弱いことから、国民会議の開催の主張にとどまっていた。1862年の初めからセルノ・ソロヴィエーヴィチはネフスキー大通りに貸本屋を開いて、そこを運動の拠点にした。同時にモスクワ、カザン、ノヴゴロド、ペルミなどにあった「サヴレメンニク」誌の読者を中心にしたサークルの組織化に取りかかった。
政府のスパイ網はゲルツェンの近辺にも張られていて、多数の手紙をもった連絡員がロンドンを発ったという知らせを打電してきた。62年7月、この連絡員の逮捕によって32人が検挙されて、「土地と自由」の中枢部は潰滅した。チェルヌイシェフスキーの検挙もこの中に入っている。イタリアのアナーキストのマッチニの組織論を採用したオガリョフの党規約によって、細胞(末端組織)の5人以外の顔を知らない、という組織法が、非合法性をよく守ったのと、メンバーが少なくて印刷物をあまり出せなかったのとで、「土地と自由」の実体は今日でもよくつかめていない。だが残った党員の中には、63年のポーランド反乱の鎮圧に行ったロシア軍の将校もいた。ポーランド反乱に同情的宣伝をしたというので、3人の将校アルンゴルト、スリヴィツキー、ロストフスキーは銃殺されている。
「土地と自由」の組織を守って最後まで戦ったのは、61年のペテルブルク大学のストで活躍したN.ウーチンやセルノ・ソロヴィエービチの弟アレクサンドルだった。兄のニコライは12年の強制労働の判決を受けシベリアに送られたが、流刑地で反乱を組織しながら1866年の2月に病死し、弟のアレクサンドルは亡命して第1インターナショナル(国際労働者協会)に参加したが、バクーニンともマルクスとも意見が合わず、精神病院で自殺した。「土地と自由」の事実上の消滅は1864年であるが、若い世代の革命家とゲルツェンとの訣別はアレクサンドルの「コ−ロコル」への絶縁宣言によってなされた。1866年の末にアレクサンドルはゲルツェンとオガリョフに対して言った。「あなた方はデカブリストだ。だがチェルヌイシェフスキーは真実の人だ。若い世代がインスピレーションを感じるのはチェルヌイシェフスキーからであって、あなた方からではない」
「土地と自由」は、革命の新しい世代が始まったことを告げたのである。 |
若いロシア
革命は世紀の怪力をもって、個人の中にひそむ能力を引き出して時ならぬ開花を見せることがある。20歳の青年ピョートル・ザイツネフスキー(1842-96)の場合もそうだった。1842年、中流の貴族の家に生まれた彼は、モスクワ大学の数学科に在学中、学生運動に参加して革命家としてスタートを切った。ゲルツェンによって社会主義を教えられてから、ルイ・ブラン、プルードン、フランス革命、30年のポーランド反乱、イタリア革命の歴史を学んだ。のち禁止図書の秘密出版をしているサークルに加入し、文盲をなくす運動として起こった私設日曜学校での社会主義宣伝にたずさわった。それが警察長官ドルゴルーコフの命令で禁止されると、彼は農村に入った。
61年、農村は解放令で農民がざわめき立っていた。素晴らしいアジ演説で彼は農民を傾聴させた。土地は働く君たちのものではないか。地主が承知しないなら、承知させればいいと、彼は1アントン・ペトロフのことを例にひいた。農民の中で話しながら彼は農民を至近距離で見た。亡命作家のもちえないものを彼はそこで身につけた。革命は思想だけの問題ではない。革命は組織しなければならない。農民にその力がないのなら、教育を受けた人間がやるしかない。 日曜学校で不穏当な宣伝をしたかどで、彼は逮捕された。だが、モスクワの監獄はいたってルーズで、監獄内で彼に『若いロシア』を書かせ、外に持ち出させ、印刷させてしまった。1862年の5月ごろから、そのパンフレットは、疑いをそらすためペテルブルクでばらまかれ、急速に地方に広がった。
『若いロシア』は革命党の宣言書である。それはいままで出された秘密組織の宣言の中でもっとも激烈なものだった。「ロシアはその存在の革命期に入った」との書き出しで、いま闘争が行われているのは、二つの党の間のできごとであることを明らかにする。二つの党とは何か。一つは虐げられた者の党、すなわち人民の党である。もう一つは皇帝の所有につながる。人民の革命運動が所有に向けられているのを知ると、人民の蜂起に自分の代表者ツァーリを押し出してくる。これが皇帝の党である。
ゲルツェンは尊敬すべき文筆家だが、1848年の革命の失敗に驚いて力による変革を信じなくなってしまった。われわれは現体制を倒すためには、1790年代のジャコバンが流した血を恐れない。今の専制は諸州の共和的連合に変わらなければならない。その際、すべての権力は国民会議と州会議の手に属さなければならない。
『若いロシア』のもっとも特徴的なところは権力獲得後の政府の性質を決めている点にある。「政府の先頭に立つ革命党は、革命の成功したあかつきは、現在の政治的中央集権制(行政的中央集権制ではない)を確保しなければならない。それによって経済的、社会的生活の基礎をできるだけ速やかにつくるためにである。独裁権力を保持して何ものにもたじろいてはならない。総選挙も政府の影響下に行なって現体制の護持者を入れてはならない」
フランスで、1848年革命のあと革命政府は干渉しないで、ルイ・ナポレオンを選出させてしまったことが、そのいい例である。
権力掌握後の革命党独裁の思想が20歳の青年によって、ロシアの革命家に手渡されのである。「若いロシア」は党として成長しなかったが、ロシア・ジャコバンの思想は成長を続ける。ザイチネフスキー仲間のサークルには、やがてこの理論を大成させる若いトカチョフがいた。ザイチネフスキーが逮捕と流刑をくりかえしながら自分の周囲に育てたサークルの中からテロリストも出たが、ボリシェヴィキになる人物も育った。 |
ナロードニキの誕生
[恐るべき子どもピーサレフ] ポーランド反乱の鎮圧によって体制は一応の安定の時代に入った。ペテルブルクの学生たちの気分にもそれが反映した。チェルヌイシェフスキーやドブロリューボフの拠点だった「サヴレメンニク(同時代人)」誌は落ち目になった。学生たちが「サヴレメンニク」から乗り換えて読んだ雑誌は「ルスコエ・スローヴォ(ロシアの言葉)」だった。そこに新しい英雄ピーサレフが登場したのである。この23歳の批評家はペトロパヴロ要塞の獄中から革命人読者のための原稿を書き送ってくるのだ。大人たちはこのピーサレフ(1840-68)を「恐るべき子ども」というが、彼こそは、年をとったもの、古いもの、日常的なものを全否定する青年の友だった。
ピーサレフは地方貴族の家に生まれ、母から過剰な庇護を受けて育った。早くから現れた躁うつ病で2度自殺をこころみた。ペテルブルク大学を出るとすぐ、「ルスコエ・スローヴォ」誌に寄稿を始めた。ドブロリューボフの登場に似ていたが、神学生のドブロリューボフにくらべて、ずっとスマートだった。ドブロリューボフは革命前夜に見られるような張りつめた調子で書いたが、自然科学を信じるピーサレフはきわめて冷静な筆で書いた。彼はダーウインの信者だったのだ。1862年に逮捕されて、4年半をペトロパヴロ要塞のなかで過ごした。逮捕の原因は、ゲルツェンを擁護し、皇帝を非難する文章を発表しようとしたからである。知事のスヴォーロフ将軍が自由主義者だったので、彼は獄中で著作をつづけることができた。
ピーサレフの思想の特徴は、自我への復帰である。革命への献身の中で見失われてしまう自我を、彼は青年の驕慢によって取りもどす。若い世代の喜びは、自己の個人的尊厳が何ものにも代えがたいという事実によって支えられていた。
「新しい人間のエゴイズムが深ければ深いほど、その人間愛は偉大になるだろう。彼らの若さと新鮮さがいつまでも変わらずに保たれれば保たれるほど理性と感情は発達するだろう。自己への尊敬を大事にすればするほど自己への忠実は厳格なものとなるだろう。そうしたすべてによって、新しい人間はその力の全面的発達と幸福の無限の充実に近づくのだ」(『思考するプロレタリアート』)
1866年にピーサレフは釈放されると、翌年夏バルト海岸の海水浴場で泳いでいて死んだ。彼は泳ぎが上手だったのに、なぜ水死したのだろう。それは依然としてナゾだ。鋸差荒れたペテルブルクの学生たちも当惑したに違いない。人民と政府との間に和解はありえない。政府の側には人民からだましとった金で買収した悪漢しかいないのに、人民の側には思考し、行動しうる若い世代がいると言ったピーサレフの反政府意志と自我の尊厳とをどういう組織活動で実現するかを、ピーサレフは言い残していかなかった。それは、若い世代が解決しなければならない課題だった。自己の尊厳をエリートの役割とみるか、徹底した自己変革を永続化していくか。
自己犠牲の革命家イシューチン 1866年4月4日、夏宮殿の散策を終えて馬車に乗ろうとしたアレクサンドル二世に一人の青年が近づいてピストルを発射した。弾は当たらなかった。護衛によって青年は取り押さえられた。数日の拷問にかかわらず、犯人は名を明かさなかった。下宿人が帰ってこないという下宿屋の届け出があって青年の素性がわかった。ドミトリ・カラコーソフ(1840-79)といってサラトフの貴族の出でモスクワ大学を中退した男だった。家宅捜索によって、モスクワにいるニコライ・イシューチン(1840-79)という人物と連絡があることがわかった。ただちに検挙が始まって数百人が捕らえられた。イシューチンを中心にした「オルガニザーチア」という組織があることが判明した。イシューチンはサラトフの商人の子でモスクワ大学を出ていた。同郷の学生と、「土地と自由」の残党をかき集めたこの組織は、チェルヌイシェフスキーをシベリアから脱走させて、国外で革命指導の機関誌を出してもらう計画を立てていた。
革命気運の退潮の中に、ピーサレフの選んだ道が自己主張だったとすれば、イシューチンの選んだ道は自己犠牲であった。一切は革命のために捧げられなければならないと信じた青年が彼の周囲に集まった。ある者は大学を中途でやめたし、ある者は財産のすべてを寄付した。イシューチンは5年後には農民革命がきっと起こると思っていた。その革命のためにどのような犠牲も払わねばならぬと信じたイシューチンは一種のマキャアベリアンであった。
[陰謀の革命家ネチャーエフ]1969年の冬、モスクワ農業大学キャンバスの池で学生の死体が発見された。頭部の銃創で他殺であることが明らかだった。ただちに捜索がはじまり、学生がイワーノフということがわかった。死者と交友があった人物が多く検挙され、事件の全貌が判明した。
「ヨ−ロッパ革命家同盟」からロシア支部をつくるため派遣されたネチャーエフという男がモスクワやペテルブルクの学生の間に秘密サークルをつくっている。このサークルは5人組が単位で、他のサークルのことはいっさい不明である。サークルのメンバーもたがいに番号で呼び合うだけで名を知らない。メンバーは来るべき革命のためにその準備をしている。殺されたイワーノフはこの秘密組織を密告しそうだというので消されたのだった。関係者は逮捕されたが首魁のネチャーエフはつかまらない。つかまらないはずである。イワーノフの死体が上がる前に彼は国外に脱出してしまったのだ。
そもそも「ヨ−ロッパ革命家同盟」など存在しなかった。ネチャーエフのフィクションにすぎない。しかしネチャーエフがもっている「ヨ−ロッパ革命家同盟」員2771号の党員証に書かれているバクーニンの署名は本物である。バクーニンはネチャーエフのフィクションに見事ひっかかってしまったのだ。
国外に革命の拠点を置こうと考えてネチャーエフが最初にスイスへ行ったのは、1869年だった。彼は自己紹介するのに、秘密革命組織の責任者で、ペテルブルクとモスクワとで2回逮捕され、2回とも脱獄してやってきたのだと語った。
ロシア国内における革命の退潮と亡命生活のわびしさに、意気が上がらなかったバクーニンやオガリョフにとって、ネチャーエフは電撃のようなショックだった。「ついに革命の英雄が現れた」確信にみちた態度、射すくめるような鋭いまなざし、誰をも説得せずにおかない巧みな話術に、老革命家たちは完全にとりこにされてしまった。オガリョフは彼のため詩を書き、バクーニンは頼まれるままに「ヨーロッパ革命家同盟」の党員証を書いて署名した。それにしても、スイスから帰ってその年のうちにペテルブルク、モスクワ、イワーノヴォに拠点をつくり基金を集め、地下出版所まで用意したのだから、ネチャーエフの組織家能力はただごとではない。
イワーノフの殺害後1870年はじめ、再びスイスにやってきたネチャーエフは、こんどはうまくいかなかった。1月に死んだゲルツェンが管理していた革命資金をバクーニンを介して手に入れたところまではよかったが、ロパーチンという別の青年革命家がスイスに亡命してきて、ネチャ−エフと称する男は、1度も逮捕されたことがなく、ペトロパヴロ要塞監獄なども、まったくのつくり話であることを暴露した。この話を聞いて興ざめしたバクーニンとオガリョフは、ネチャーエフとの付き合いはもうこれまでと、彼を見限った。
こうしてスイスにはおれなくなったネチャーエフは、ロシア秘密警察の手引きでやってきたスイス官憲に逮捕され、身柄をロシアに引き渡された。そのときネチャーエフは25歳。ロシアでの裁判ののち、彼は勅命でシベリア流刑の判決を取り消され、ペトロパヴロ要塞に終身監禁の身となった。
ラヴロフの『歴史書簡』ネチャーエフ裁判は、ロシア革命の流れのおける転換点となった。革命を志す青年たちはここで立ちどまった。ピーサレフが「思考するプロレタリアート」といったインテリゲンチアがいままで革命の先頭に立ってきたが、人民との関係はどうなるのか。学生サークルだけを組織したネチャーエフはつまずいたではないか。再びピーサレフウに立ち戻って近代化学で自己を武装しなければならない。
このとき、ピョ−トル・ラヴロフ(1823-1900)の『歴史書簡』が啓示のように革命への道を教えた。この本は、68年から69年にわたって「ニジェリャ」(週)という雑誌にに連載されて70年に1冊の本として出版された。亡命中のラヴロフのところに青年たちが、「あなたにだけ期待をかけています。革命の綱領をつくって、出版物の指導をしてください」と頼みにくるまで、ラヴロフは「歴史書簡」がそんなに読まれているとは知らなかった。『歴史書簡』は、ピーサレフの自然科学至上主義とモラルの不在に対する抗議として書かれたものだった。ラヴロフも自然科学は否定しない。自然科学は認める。しかし自然主義は思想の説明にすぎない。人間が主体として価値を求めていけば歴史に入りこまざるをえない。歴史は宿命ではない。時代の最高モラルを説くインテリゲンチアが、歴史を創造する。その創造が進歩なのだ。だがインテリゲンチアは、自分が歴史の創造者だと思い上がってはならない。インテリゲンチアが知識の特権者でありうるのは、多数の人民大衆が食うや食わずで働いてくれるおかげなのだ。インテリゲンチアはこの負債を民衆に返すべき道徳的義務がある。進歩の代償を払うべきときが来たのだ。
この『歴史書簡』はネチャーエフ事件のショックに意気消沈していた青年たちにとって大きな救いだった。陰謀が失敗したからといって革命が絶望のわけではない。それが失敗したのは戦術だけががあって、モラルがなかったからだ。インテリゲンチアはモラルによって民衆につながっているのだ。この人民大衆と一緒になれば、革命は陰謀ではなく、公然と人民の力によって行ないうるではないか。『歴史書簡』は、革命的青年をネチャーエフの孤独から解放した。
ラヴロフは地方貴族の家に生まれ1837年ペテルブルクの砲兵士官学校で学び、卒業後は同校の教授になり数学を教えながら、歴史・社会・哲学の研究を続け、次第にチェルヌイシェフスキーのグループに近づいた。革命的活動家というより学究的人柄だったが、62年には結社「土地と自由」のメンバーだった。66年、アレクサンドル二世の暗殺未遂事件の関連で行われた要注意人物の一斉家宅捜索によって、チェルヌイシェフスキーとの連絡書簡が発見され、首都追放になった。『歴史書簡』を書いたのはこの追放地においてであった。
『歴史書簡』を書き終えるとラヴロフは、「1ルーブル社」をつくって農民の中で宣伝活動をやっていたロパーチンの手引きで脱出し、1870年2月にパリに向かった。そこで彼はパリ・コミューンに参加する。
[人民のなかへ]1873年暮れから、ペテルブルク、モスクワ、キエフ、オデッサ、サラトフ、サマラ、ハリコフの学生を中心に青年たちが続々農村に入り、農民に対して社会主義の宣伝をしたり、革命の必要を説いたりした。この運動は翌74年の夏に最高潮に達し、2万3000人の青年が参加した。参加者の3分の1が女子学生だった。「狂った夏」が過ぎて74年の冬から青年たちの大検挙が始まり、女性を含めて700人以上が逮捕された。
この運動は全く自然発生的に起こったのだった。組織らしい組織といえば、ペテルブルクのニコライ・チャイコフスキー(1850-1925)を中心とした学生グループだろう。このグループは71年ごろにできたが、厳しい秘密組織ではなかった。誰が参加してもかまわない。ネチャーエフにこりた学生たちは、組織を秘密にせず、そこでは合法的な出版物しか読まなかった。しかし実際は、革命をどういう方法で実現すべきかを、自由に討論できる場だった。
「人民のなかへ」運動は75年にはほとんど終息してしまったが、それは革命家の徒弟修行ともいうべきものだった。後で革命家として知られる人物は、ほとんどがこの運動をつうじて革命宣伝を学んだ。のちにテロリストとして名をなしたクラフチンスキー(1851-95)はこの運動を回顧して、あれは政治運動というよりも倫理的な運動だった。社会主義は宗教で、人民は神だったと語っている。
「人民のなかへ」運動に参加した学生たちは、上述したチャイコフスキー(1850-1926)をリーダーとするグループのほかに、三つのグループがあった。 この運動が宗教的な運動といわれるだけあって、実際に新興宗教の団体も参加していた。A・マルコフという、暴力革命に絶望した人物を教祖にし、人間にはだれにも「神の火花」があって、隣人愛、寛容、犠牲心となって現れる、祈りによって「神の火花」をもたらせば社会平等は実現されるというのが教義だった。その後、逮捕されたマリコフは検事のなかに「神の火花」を祈りだしてみせると主張してやまなかったので、精神異常者として釈放された。
NN団と呼ばれたのは、スイスにいたラヴロフの出している「フペリョート」(前進)を中心に集まったグループだった。スイスに留学して社会主義者になった学生の多くはこのグループに属した。
第四のグループはブンタリと称しバクーニン派である。これはキエフなど南方とモスクワに加盟者を多くもっていた。ブンターリというのはブント(蜂起・一揆)を起こす人という意味で、行動派である。
チャイコフスキー派がもっとも有名になったのはM.ナタンソン(1850-1919)やソフィア・ペロフスカヤ(1853-81)のような有能な活動家がいたばかりか、ピョートル・クロポトキン公爵(1842-1921)が社会的地位をなげうって参加していたからであった。
「人民のなかへ」はそれに参加した青年には、えがたい教訓を与えたが、農民たちは青年からほとんど何も学ばなかった。まだまだ皇帝を信じていた農民たちは、青年らの宣伝を聞こうとしなかっただけでなく、彼らを警察に密告したり、ひっくくって突き出したりした。青年たちの人民信仰は大きく揺らいだ
革命の老戦士バクーニン
「人民のなかへ」運動に老戦士バクーニン(1814-76)は異常な情熱をそそいだ。そうすることによって彼は自分の革命家としての名誉を守ろうとしてのである。事実バクーニンの革命家的経歴は立派なものだった。スタンケーヴィチ(1813-40)のサークルでドイツ哲学を学んでいた彼は、ゲルツェンの援助で1840年にベルリンに行き、ベルリン大学で哲学の研究を続けた。フランスの社会主義者プルードンと交友しながら、アナーキズム(無政府主義)革命の理論をつくりあげた。彼は心から自由を愛し、いかなる束縛をも拒絶した。権力とりわけ国家権力を憎んだ。1848年2月、パリに革命が起こると、陣頭に立って熱弁をふるった。3月にはプラハに走って革命的汎スラヴ主義の運動を起こして6月に蜂起の先頭に立ち、ヨーロッパ中の支配者を戦慄させた。49年のドレスデン蜂起のさなか逮捕され、ザクセン政府から死刑の判決を受けたまま、オーストリアに引き渡された。そこで絞首刑ついで終身刑に減じられてロシアに移された。51年から57年までペテルブルクの要塞監獄につながれていたが、その後シベリア流刑になった。61年脱走して、アメリカ船で日本経由、アメリカをまわってロンドンのゲルツェンと再会した。
67年にスイスに移り、革命家の国際組織をつくる運動に参加した。69年9月、第一インターナショナルのバーゼル大会でマルクス派とはげしく対立した。72年、マルクス派と完全に別れて、アナーキストのインターナショナルをつくったものの、ロシアの亡命革命家の中でしだいに疎外されていった。そのころバクーニンを熱心に迎えてくれるグループができた。それはロシアから大挙してチューリッヒへやってきた若い学生たちだった。
彼は学生たちに説いた。最大の悪は国家である。国家は廃絶しなければならない。ヨーロッパは国家の強いところだ。ビスマルクのドイツ帝国ばかりか、それと対決するマルクスのドイツ社会主義も革命国家をつくるという。本当に国家を否定できるのは、ロシア人だけだ。ロシアの農村共同体は国家否定の原型である。ロシアの農民は本能的に反国家主義だ。彼らには、国家に対して反逆したプガチョフやステンカ・ラージンの伝統がある。革命的青年は人民を教育する必要はない。人民の中に入っていきさえすればいいのだ。学生は、大学や国家機構によって汚れてしまわないうちに人民の中へ行かねばならぬ。人民は何をなすべきか知っている。人民は一揆によって立ち上がるに違いない。
バクーニンのこの理論は、『国家性とアナーキー』の付録として73年に出され、「人民のなかへ」に参加した学生にも読まれた。だがこれらの学生は、ロシアの農民が一揆に備えていないことを知ったのだった。
[人民のなかへ]を反省する 「人民のなかへ」の運動は失敗した。農民は立ち上がらなかった。学生たちはこの厳しい実験の反省をはじめた。いったい何だって農村に大挙して出かけたのか。パリ・コミューンがひとつのショックだったことは間違いない。そこでは、無名の大衆が国家権力に反抗して立ち上がり、短い期間ではあるが権力を握った。
ヨーロッパでできたことがロシアでやれないことはない。パリ・コミューンをやったのは社会主義者だ。社会主義は19世紀の福音だ。ヨーロパの社会主義者は、工場労働者という名のプロレタリアだ。ロシアのプロレタリアはだれか。それは農民だ。ロシアの社会主義は農民によって実現されるだろう。こうして学生らは、福音の使徒として農村に行ったのだった。
バクーニンはすぐにも革命が起こるように訴えたが、すべての学生がその言葉を信じたわけではない。だが革命をすぐ引き起こせるとは思わないにしても、ロシア革命がどういう革命であるべきかについては一致した考えがあった。それはヨーロッパにあったような政治革命であってはならないということである。政治的でない革命というのは意味が通らないように思えるが、彼らは政治革命ということを君主制を共和制にするとか、専制を議会制にすることと解釈していた。たとえば、「人民のなかへ」の裁判にかけられたコーモフは供述の中でこう説明する。「確信をもって言いますが、政治革命は社会主義革命の結果として起こるべきものだったのです。現在の社会体制のすべてが消滅したら、それを条件づけている政治権力が存続することは考えられません」
彼らがそれほどまでに政治を嫌ったのは、政治は自由主義者が権力と取り引きしてやることで、革命家のすることではないと思っていたからである。「人民のなかへ」が失敗して、そのために裁判にかけられながらも、彼らの政治的な革命を否定する気持ちは変わらなかった。
農民による社会主義と、政治闘争の拒否とのほかに、もうひとつ彼ら学生を特徴づけるものは、マルクス主義に対する違和感であった。バクーニンの影響が強かったので、クロポトキンはもちろんだが、ラヴロフも革命のあとは自由な共同体連合の社会ができることを期待していた。ロシアの革命家にすると、『資本論』は資本主義社会の悪を書いたもので、腐敗した西欧文明の証明のように受け取られた。ロシアは西欧の資本主義をまねる必要はないし、またマルクスの革命理論は西欧にあてはまるのであって、労働者のいないロシアには関係ないと考えていた。それに、マルクス派のいう革命後のプロレタリア独裁は国家権力をなくそうとする彼らにはなじめなかった。彼らがマルクス主義を知らなかったのではない。『資本論』の訳者(プレハーノフのこと−筆者)はロシアが世界のどの国よりも早く、「人民のなかへ」運動の始まる前、1872年に出版され、3000部も売り上げがあったのである。ネチャーエフの陰謀革命と違う道を選んで、彼らは人民大衆による革命を期待し、組織のない無党派の運動をやったのだが、農民の無関心にぶつかって、もう一度組織について考えざるをえなかった。
[ナロードニキとは]70年代のロシアの革命家はナロードニキと呼ばれる。ナロード(人民)の中へ入っていった革命家という意味である。だが一般にナロードニキといえば、結社「土地と自由」とその盟員を言う。
「土地と自由、この二つの魔のような言葉は、いくたびロシアの地底から力強い自然の動きを呼び起こしたことか」とのアピールで綱領ははじまる。
革命は人民の事業であり、革命を準備するのは歴史である。革命家には革命を修正する力はない。革命家にできることは、ただ人民の意向の表現者になるだけだ。歴史は命ずる。ロシアの人民は土地と自由を要すると。地主と貴族から土地を取り上げて、自由な共同体の自治にする。この綱領が、第一に問題にするのはヨーロッパと違って農業の問題だった。
綱領はさらにつづく。
社会主義は全人類にとって最高の形態である。社会主義だけが人間の理性を完成させる。性も宗教も民族も階級も問わない。万人に自由と幸福を与える。
全人類に奉仕するという信念だけが燃えるような社会主義の宗教的ファンタジーを引き起こす。偽善紳士諸君、社会主義者にとって人間の尊厳は君たちよりも遙かに神聖なのだ。
われわれは、あらゆる隷属とくに労働の資本への隷属から人類を解放するため闘いつづける。一部にテロが行われているが、テロリズムによって労働大衆を解放することはできない。体制を破壊しうるのは人民だけである。
現在の政治体制は没落近くにある。しかしこのまま放置しておけば、より現代的な立憲体制に変わるだろう。そうなれば前面に出てくるのは、地主、商人、工場主などの特権階級だ。これらのブルジョアは、憲法の自由によって党をつくり、最も危険な敵となる。
以上が綱領のあらましである。この綱領は当時の革命的なロシアの青年の気持ちを実によくあらわしている。「人民のなかへ」の失敗から教訓をくみとろうと模索しつつあるが、政府のはげしい追及に、テロを否定しつつテロをつづけ、混乱と逃亡のなかに、革命と人民との関係や当面の革命目標について十分に考えられない困惑がみてとれる。官憲の追及に対する抵抗からテロに移らねばならなかったグループ、農村のなかに腰を落ち着けて啓蒙とセツルメント活動をするグループ、都市労働者のなかに宣伝をするグループ、さまざまな模索が70年代の終わりにつづいた。「土地と自由」社のメンバーは、右往左往していたのだ。
ナロードニキとは 70年代のロシアの革命家はナロードニキと呼ばれる。人民(ナロード)のなかに入った革命家という意味だ。ナロードニキという言葉は60年代からあるにはあった。また「人民のなかへ」の始まる前、72、3年にスイスから帰ってきたバクーニン派の青年が、古い世代を「教養派」と呼んだので、古い世代がやり返して「ナロードニキ」と名づけた。しかし、一般にナロードニキといえば、次ぎにいう革命的政治結社「土地と自由」とその革命家を指す。
「土地と自由」社のメンバーは、ほとんどが「人民のなかへ」運動に参加している。組織の必要を感じた彼らは、ロシアではじめて定期刊行の機関誌をもった党をつくったのだった。初期の中心人物は、上述したチャイコフスキー・グループのナタンソンだった。
こうしてできたグループは「人民のなかへ」運動のOBによる人民戦線だった。プロパガンジストという革命の宣伝を主とした穏健派とブンタリに属した即時決行派の両方を含んでいた。党の建設と警察の追及の競争になると、過激な連中は武装活動を始めるし、スパイに対して報復リンチも加えることになる。否が応でも権力の先端部とぶつからなければならない。血の気の多い南方でとくにこの種の衝突が頻発した。
テロは、ペテルブルク総督トレーポフ将軍の射殺事件から始まった。78年1月、知事室前に控ええていた請願者中のひとりの女性が、自分の番になって知事室に入ると、いきなりピストルを出して知事に発砲した。刑務所で政治犯が虐待されたことに対する返報だった。知事は重傷を負ったが死ななかった。女性は、容易に名を明かさなかったが、かつてネチャーエフのサークルに属して、流刑になったヴェーラ・ザスーリッチ(1849-1919)であることが判明した。
2月にはキエフでオシンスキーら党員が検事コトリャレフスキーを狙撃して失敗した。3月には同じくキエフで党員ポプコが憲兵副隊長のゲイキング男爵を路上で刺殺した。8月にはクラフチンスキーが秘密警察の長官メゼンツェフ将軍をペテルブルクで白昼、刺殺した。党と警察は食うか食われるかのデットヒートを演じているとき、スイスから届く雑誌はひどく生気のないものになった。各地の秘密サークルがめいめい勝手な党名をつけてビラを出しているのも組織のルーズさを示した。
9月になってペテルブルクの組織が潰滅的な打撃を受けたのを立て直したアレクサンドル・ミハイロフ(1855-84)は党の健在を占めそうとして、10月から定期的に機関誌を出し始めた。この機関誌に60年代の革命党の名「土地と自由」を採用したので、この党名が「土地と自由」社と呼ばれるようになったのである。その第1号にクラフチンスキーによる綱領が発表された。 |
革命の党へ
[革命の党の任務]「土地と自由、この二つの言葉は、いくたびロシアの地底から力づよい自然の動きを呼び起こしたことだろう」という呼びかけで綱領ははじまる。
革命は人民大衆の仕事である。革命を準備するのは歴史である。革命家には革命を修正する力はない。革命家にできることは、ただ歴史の道具になり、人民の意向の表現者になるだけだ。歴史は命ずる。ロシアの人民は土地と自由を必要とすると。地主と貴族から土地を取り上げて、自由な共同体の自治にし、人民の選挙する、いつでも交代させることができる代表者を置くというのが、過去の革命家社会主義者の一貫した綱領であった。われわれナロードニキもその綱領を採用する。
この綱領が第一に問題にするのは、ヨーロッパと違って農業の問題である。将来の社会主義の体制がどういう形をとるかは論じない。将来のことは将来に任せる。さしあたっての任務は人民革命だ。人民革命だけが、すでに人民の知恵の中にある基礎から将来の社会主義体制をつくりだすだろう。
社会主義は全人類の幸福の最高形態である。社会主義だけが人間の理性を完成させる。性も年齢も宗教も民族も階級も問わない。社会主義は万人を生命の饗宴に招待する。万人に平和と自由と幸福を与える。ここで与えられた力によって社会主義の人間はつねに新鮮・純粋・清廉になるだろう。全人類に奉仕するとの信念だけが燃えるような社会主義の宗教的ファンタジーをもたらす。
偽善紳士諸君、社会主義者にとって人間の尊厳は君たちよりもはるかに神聖なのだ。たとえ短剣に救いを求めることがあっても、それはわれわれの神聖な人権を尊敬させるほかの方法がないからにすぎない。われわれは、あらゆる隷属、とりわけ労働の資本への隷属から人類を解放するため戦い続けるだろう。一部にテロが行われているが、テロリズムによって労働大衆を解放することはできない。搾取階級に対しては非搾取階級が立ち上がらなければならない。専制体制を倒しうるのは人民だけである。
政治体制の没落は目前にある。だがこのままにしておけば、より現代的な立憲体制に代わるだろう。そうなれば前面に出てくるのは、地主・商人・工場主などの特権階層だ。彼らブルジョアは、団結して憲法の自由によって党をつくり、われわれの最も危険な敵になり、われわれ社会主義者に対して十字軍を差し向けてくるだろう。だから、われわれは現体制の打倒を急がねばならない。
以上が綱領のあらましである。この綱領は当時の革命的ロシア青年の気持ちをよく代弁している。そこには、彼らが専制のはげし追及に、テロを否定しつつもテロを続けざるをえないでいる困惑の様相が見てとれる。
「土地と自由」の分裂 人民大衆と結びつこうとすればするほど政府から弾圧を受け、有力なメンバ−がつぎつぎ逮捕されるとなると、活動的な党員ほど焦りが出てくる。権力がこれほどしつこく党に襲いかかるとき、権力との闘争を前面に押し出さないでいいのか。ところが、権力との闘争ほど政治的なものはないのに、党綱領は政治について発言することを避けている。政治を論じる者はブルジョア自由主義者だということでいいのか。
1887年の初めの頃から、綱領に政治的要素を入れないといけないという動きがあった。88年の末からテロ活動がまた激しくなった。自由主義者たちは、それをいくらか緩和したくて、作家ツルゲーネフの一時帰国に際して大々的な歓迎会を開き自由主義者がデモをやって気勢をあげた。このデモに労働者が参加したことから、政治闘争一般を拒否すべきかが改めて問題になってきた。 そのころ、「土地と自由」社の指導的地位にあったミハイロフは、皇帝官房第三部の中に逆スパイ、クレチェトニコフを送りこむことに成功した。それ以後テロの成功率が高くなった。ミハイロフの状況判断では、いま党員を農村に送りこんで革命を準備するには党員の数が少なすぎる。少数で有効に戦うためには権力の中枢部に打撃を加えるよりほかない。そうすることによって人民に活気を与えようとミハイロフは考えた。
テロについて徹底的に反対だったのはプレハーノフだった。彼は労働者の中での宣伝に重点をおくべ機だと考えた。ミハイロフ派とプレハーノフ派と衝突が表面化したのは、1879年春からだ。サラトフからテロリスト、ソロヴィヨフがやってきて皇帝暗殺をしたいから、「土地と自由」社で援助してほしいと言ったときである。激しい討論の末、組織としては支援できないが、個々の党員が援助するのはかまわないという妥協に落ち着いた。その後4月にソロヴィヨフは散歩中のアレクサンドル二世に5発の銃弾を放ったが、どれも当たらなかった。ソロヴィヨフはその場で逮捕された。
プレハーノフは、これ以上テロをつづけるかどうか党大会で決着をつけようと提案し、6月にヴォローネジで大会が開かれた。大会での「農村教宣」派は上記のプレハーノフはじめ、ヴェーラ・ザスーリッチ、パーヴェル・アクセリロートなどだったが、主導権はミハイロフ、フロレンコ、モロゾフ、ジェリャーボフなどのテロ派の手中にあり、採決の結果、テロ派が多数を占めて勝った。
プレハーノフは「もうここに用はない」と席をけって立ち去った。
党の分裂というのはまずいとのことで、分裂しためいめいの党が新しい党名をつけることにした。自分こそ「土地と自由」の正統であるという系図争い式の紛争をあらかじめ予防したのだった。
「人民の意志」党 テロ派は8月にペテルブルクに会合して別の組織をつくった。「土地と自由」(ゼムリャ・イ・ヴォーリャ)のヴォーリャをもらって「ナロードナヤ・ヴォーリャ」(人民の意志)という名をつけた。 「人民の意志」党は
1879年10月から85年12月まで12号の機関誌「人民の意志」を出した。その中に発表された論文によって「人民の意志」党は、かつて現れた革命組織のなかで最高の地点に立っていることを示した。
「人民の意志」党はロシアの革命家をアナーキズムの呪縛から解放した。社会革命さえやれば政治闘争はその結果として起こるという思想を逆転した。まず政治革命をやらなければならない。そのためには今の権力を倒すことが先だ。
権力を打倒するまでは革命家の党が指導しなければならない。「土地と自由」社が将来のことは将来に任せたが、「人民の意志」党は権力打倒のあとのプログラムを持っていた。権力を奪取したら党は憲法制定会議を召集する。これによって人民の手に国家権力がゆずり渡される。党が人民の力を組織し、人民が自主的に活動を始め、中央権力を獲得したとする。
「党のそれからの役割は何か。新しい国家の体制をつくって、改革を命令するか、否。もっとも不幸な場合にはそうするだろう。それは人民が生命の火を燃やさないときだけ命令してもいい。しかし、通常、党は権力をロシアの革命化のために使う。人民に権力の奪取と希望の実現を呼びかける。もっぱら人民の組織化を助けるために権力を掌握するだろう」
原則としては、人民が自主的に憲法制定会議によって革命をすすめるべきだ。不幸にして人民が無気力であったときだけ、党など臭い権力となるというのだ。「人民のなかへ」運動に見られた人民への盲目的な信仰はない。しかし、「若いロシア」にあったようなジャコバン主義はない。彼らにはまだ人民を偽っていいとしたネチャーエフの記憶が消えていなかった。
また彼らには政治闘争を押しだしたとはいえ、バクーニンの思想と無縁ではなかった。憲法制定会議によって農民に土地が分けられたあと、各地方は独立して自治体連合となることで国家悪から解放されると信じていたからである。
もちろん、革命は農民を解放することが第一の任務であり、かつ革命を急がないと、ブルジョアに権力を先取りするという思想は「土地と自由」社からそのまま引き継いだ。彼らは「人民のなかへ」運動の中で農民の敵はクラーク(富農)だと見てきただけ、ブルジョアに対する反感は現実性を持っていた。
「人民の意志」党は、権力を粉砕するための軍隊として究極的に革命は人民の参加を必要とすると考えながら、そのきっかけとしてテロによる権力の解体を期待した。テロに深く足を踏み入れるに従って、陰謀になり、人民から離れ、実際にはネチャーエフの組織原理に近づかねばならなかった。
「黒い再分割」派 テロ行為にどうしても賛成できなかったプレハーノフは、1897年の末になってやっと「黒い再分割」という機関誌を出した。「黒い」
とは、農民自身の手によるという意味である。彼らの多くが「農村派」であり、
農村の中での宣伝と教育を続けることを譲らなかったのは、彼らには人民への信頼がまだあったからである。革命は人民みずからが起こすものでなければならないという信念があった。「人民のなかへ」の思想がそのまま続いていたのだ。彼らは政治闘争を第一にすることに反対だった。「社会の経済関係は他のすべての関係の基礎である。政治生活ばかりか、その中の人間の知的・道徳関係の根本原因であるだからラジカリズムは経済的ラジカリズムでなくてはならない」(黒い再分割第1号)
政治的ラジカリズムを排した彼らは、ステンカ・ラージンやプガチョフの型の国家解体を考えていた。農業革命を要求する人民の声は神の声であり、神の声は、その啓示を革命的インテリゲンチアに示し給うとした。
「黒い再分割」誌を印刷した直後に、印刷所が官憲によって暴かれ、「黒い再分割」派は多くの党員を失ってしまった。「人民の意志」党のテロの続くかぎり、うんどうはこのままで続けられないというので、指導者を国外に亡命させることになった。1880年1月、プレハーノフ、ザスーリチ、ディッチュらは国外に去った。アクセリロートは残ってペテルブルクの組織を指導した。その頃、40人ばかりの活動家がいた。「黒い再分割」派は全国的に統一した党とはいえななった。共通目的を持ったサークルの連合とでもいうべきだった。
皇帝に対する死刑の宣告 権力の最高の拠点に打撃を加える方法として皇帝の暗殺が、「人民の意志」党では早くから考えられていた。それが党によって確認されたのは、79年8月であった。この大胆な最後の戦いが決定されたとき、「執行委員会」の中では大きな吐息が聞こえた。武器はダイナマイトと決まった。地下生活の中に、火薬製造の実験室兼工場が加えられることになった。皇帝暗殺のための幾つもの班がつくられ。それぞれの地点で「刑の執行」が準備された。まずツァーリのクリミアから帰ってくる途中を3カ所で狙うことになった。オデッサに派遣されたフロレンコ、レーベジェワ、キバリチーツの作業が無駄になった。オデッサに皇帝は来なかったのだ。
アレクサンドロフスクではジェリャーボフのグループが、レールの下にダイナマイトを埋めることに成功した。皇帝の列車がその上を通過する瞬間ボタンは正しく押された。しかし爆発は起こらなかった。電極の繋ぎ方を間違えたのだった。
最後の関所はモスクワだった。ここには「執行委員会」の精鋭ミハイロフ、ソフィア・ペロフスカヤ(1853-81)らが、線路に近い家を買って40bの地下道を掘った。11月19日、浸水に半ばおぼれながら、爆薬を装填した。列車は過たず爆破された。しかし、破壊された1両は貨車で、あとの8両は脱線しただけ。しかも皇帝は難を逃れた。脱線車には随員しか乗ったいなかった。
翌年2月5日には、さらに驚くべきことが起こった。皇居である冬宮の食堂の床が爆薬で吹っ飛んで5人の死者と58人の負傷者が出た。皇帝は一緒に食事するはずの賓客が遅れたため危うく難を逃れた。
爆薬を仕掛けたのは、党員ステパン・ハルトゥーリン。彼は指物師だったのを幸い、冬宮に高級家具職人として採用された。この腕のいい職人その実直さで信用され宮殿の地下室に住むことを許された。彼はダイナマイトを道具箱に隠し入れて少しづつ冬宮に運んだ。これ以上沢山になると目立つというときに爆破を決行した。導火線に火をつけて外に出たハルトゥーリンは、疑われることなく無事立ち去った。
冬宮の爆破は、その不成功にもかかわらす、全世界に「人民の意志」党の存在をしらせた。「人民の意志」党は、巨人ゴリアテに立ち向かう牧童ダビデのように世間の目に映った。革命家たちは見かけの自由主義にだまされないことを明らかにするため、皇帝暗殺を続けると宣言した。1880年に2度、暗殺が試みられたが2どとも失敗した。そのたびに残り少ない活動家が逮捕された。組織はほころびていった。ペテルブルクのどんな裏町の小路でも知悉していた脱走の名人ミハイロフが逮捕された。
もう一瞬も待てないと思ったとき、81年の1月、思わぬ連絡の手紙が党にもたらされた。
ペトロパヴロ要塞監獄からのネチャーエフの手紙だった。陰謀の革命家はまだ生きていたのだ。生きていたばかりでなく、彼は脱獄してもう一度戦列に加わり隊と言ってきたのだった。いま監獄の看守たちを味方にして、脱出の援助を求めてきたのだ。しかし、「人民の意志がわにしてみれば。ネチャーエフの感覚はすでに古くなっているとして、彼を敬遠した。
1881年3月1日 暗殺決行の日は3月1日と決められた。皇帝は乗馬練習のためミハイロフスキー練兵場にいくので、その通り道のどこかで襲撃することになった。練兵場からネフスキー大通りに抜けるマーラヤ・サドーワヤ通りがいいというので、そのいちばん端の家を借りた。通りの下に坑道を掘って、爆薬を仕掛けるのだ。坑道掘りが始まった。
大変なことが起こった。秘密警察の内部にいて、向こう側の情報を流してくれ、同志の逮捕の情報を流してくれていた諜報員クレトシニコフがつかまった。不注意から、逆スパイであることが露見したのだ。党は探知器を失った。
党の被害は急速にふえた。急がねばならないのに爆薬の製造もはかどらないし、坑道も思うように進んでいない。2月の初めに委員会で、暗殺と同時に反乱が起こせるかどうかを討議した。委員会にはせいぜい20人ぐらいしかいない。どんなにしても百の単位の人間しか動かせない。とにかく決行するまでだ。 チーズ店から掘った坑道に地雷を仕掛けるのが第一だ。だが地雷が失敗したらどうしよう。それには4人の投弾者がマーラヤ・サドーワヤ通りの両端に分かれて、はさみ打ちにして投弾すればよい。それもうまくいかなかったら、その時は、私が短剣でもって校庭を刺すと言ったのはジェリャーボフだった。この恐れを知らぬ雄弁家のオルグは党の全員の信頼を負っていた。革命が勝利して政府ができたら彼を置いて首班となるべき人間はいなかった。そのジェリャーボフが、決行を2日後に控えた2月27日に逮捕されてしまった。
明日決行だというのに、地雷はまだ仕掛けられていない。四発の爆弾はまだ一つもできていない。28日の夜を徹して爆弾の製造を急いだ。ジェリャーボフに代わって指揮をとったのは、ソフィア・ペロフスカヤだった。貴族の娘として生まれ、反対を押し切って保健婦となり、「人民のなかへ」の運動に参加して逮捕され、裁判被告となった彼女は、当時の女性革命家の典型だった。色が白く、まだ少女らしい表情が残っている彼女は敵に対しては容赦なかった。 3月1日の朝、爆弾と地雷ができ上がった。チーズ店の坑道に地雷が仕かけられた。投弾者を二人連れてペロフスカヤはマーラヤ・サドーワヤから離れた。チーズ店に残った二人は、練兵場から帰ってくる皇帝がチーズ店にさしかかるのを、ボタンのそばで待ちかまえていた。しかし午後1時をまわっても皇帝は来ない。ほかの道を選んだらしい。もうだめか。それにしてもペロフスカヤはどこで、皇帝を待っているのか。
2時をすこし過ぎたとき突如、砲撃のような爆発音が聞こえた。少し間をおいて同じような爆発音があった。とうとうやった。だが首尾はどうか。
間もなく街に噂が流れた。エカテリナ運河に沿う道でアレクサンドル二世が、2発の爆弾を受けて重傷のまま冬宮に帰ったというのだ。
この運河沿いに投弾手を配置し、対岸からハンカチを振って投弾を指令し、成功を見とどけ立ち去ったのが、ペロフスカヤであることを知っていたのは同志だけだった。
爆弾を初めに投げたのは、ルィサコフだった。馬車ぞりが一部こわれただけだけで、従者にけが人はあったが、皇帝は無事だった。ルィサコフはただちに捕らえられた。混乱の中で将校のひとりが皇帝に「ご無事でしょうか」と尋ねた。皇帝は言った。「神に感謝する。私はどうもない。彼はどうする」とそばに重傷を負った男を指した。取り押さえられた
ルィサコフが叫んだ。「神に感謝するのはまだ早いぞ!」
皇帝は身をひるがえして、また馬車に乗ろうとした。そのとき、第2の投弾手グリネヴィツキーが近づいて、目の前の皇帝とともに自爆すべく足元に爆弾を投げた。もうもうと立ちこめる硝煙が消えると、皇帝は仰向けに倒れていた。出血がひどかった。すぐ冬宮に運ばれたが、1時間とは生きていなかった。グリネヴィツキーも夕刻、息を引きとった。 |
マルクス主義の時代
ナロードニキからマルクス主義へ ロシアで『資本主義』が読まれていたにかかわらず、マルクス主義者と名のる者が現れなかったのはなぜか。青年たちは、革命を起こそうとすれば「土地と自由」や「人民の意志」党に入っていった。
その理由は簡単だ。マルクス主義は革命の理論としては受け取られなかったのだ。それは西欧にある資本主義に関する経済学のように受け取られた。あるいはドイツ社会民主党の綱領と考えられた。
マルクス主義がロシアで革命理論として受け取られるためには、ロシアもまた西欧と同じ社会発展の経路を踏んでいくということにならなければならない。しかしそれだけでは足りない。マルクス主義が革命の理論であって、単なる経済史でないことが証明されなけばならない。実際ロシアでは、ピョートル・ストウルーヴェ(1870-1944)とかツガン=バラノフスキーといった経済学者がロシアの資本主義化を説いた。彼らにとってマルクス主義は単なる経済学だった。彼らは革命家でないというので、合法マルクス主義者と呼ばれた。マルクス主義が革命の理論であることを証明するには、ロシアの革命家が、いままでの革命運動の続きとして、マルクス主義を信じるのでなければならない。それを、身をもって証明したのがプレハーノフである。
プレハーノフにナロードニキからマルクス主義への橋渡しが可能であったのは、マルクス主義の経済優位的な理論が、「黒い再分割」の政治否定につながり、マルクス主義のプロレタリア信仰に、「黒い再分割」の人民信仰が重なったからである。
プレハーノフは「土地と自由」社から、人民信仰を保持しながら、人民の中での宣伝を主活動とする「黒い再分割」派に入っての政治否定とつながり、マルクス主義のぷろれたりあしんこうに、
プレハーノフは「土地と自由」社から、人民信仰を保持しながら、人民の中の根気のいい宣伝を主とする「黒い再分割」派に入って、弾圧で亡命した。そこで「人民の意志」党の皇帝暗殺が、これといった政治効果を上げなかったのを見て、プレハーノフは、「黒い再分割と「人民の意志」党の皇帝暗殺が、これといった政治効果をあげなかったのをみて、プレハーノフは、「黒い再分割」と「人民の意志」党の敗北を革命の立場からもう一度反省した。「黒い再分割」が人民信仰の対象に農民を選んだこと、「人民の意志」党が革命はすぐ起こるととしたこと、これが誤りだった。
この誤りのもとは、ロシアの農民は革命に関して熟していると考えたことにある。もし、ロシアの経済がこれから資本主義の段階にに入るとするなら、革命は遠のくけれども、マルクス主義の革命理論が、そのままロシアにあてはまることになる。
ロシアは果たして資本主義の段階を通るだろうか。ロシアの農村調査は、農村共同体が資本主義のためにだんだん滅びていくことを示している。ロシアにも資本主義の波が押し寄せてきていることは、もはや疑いえない。こうなれば仕方がない、マルクス主義を認めなければならない。
ロシアは資本主義社会になって、それから社会主義社会になるのだから、革命を二つやらなければならない。ツァーリ体制を倒してブルジョア・デモクラシーをつくる民主主義革命(ブルジョア革命)と、そこにできる資本主義社会を倒す社会主義革命(プロレタリア革命)とだ。
革命は遠のいていた。しかし、マルクス主義は歴史的必然性によって、封建制が資本主義になり、資本主義が社会主義になることを証明している。それゆえ、いまツァーリ体制がどんなに強くても、革命家は落胆することはない。きっと勝つに違いない。
ナロードニキからマルクス主義に変わることで、プレハーノフの人民信仰と革命の勝利の信念はそのまま維持されることになる。あとはナロードニキの革命家を説得して、ロシアにも資本主義が来ることをわからせればいい。そうすれば革命家はマルクス主義者になるだろう。何よりも資本主義の発展がロシアに労働者階級をつくるから、彼らを主体にした革命運動が起こるだろう。労働者階級は農民と違って分散していないし、近代工業によって規律化されているから、革命の担い手としては、農民より強力だ。農民にやれなかった革命が今度は成功する。プレハーノフが1883年に、アクセリロートやザスーリチを呼び集め、マルクス主義者の集団「労働解放団」を作ったときはそういう気持ちだった。
マルクス主義の父 1880年に亡命したプレハーノフは、パリ、ジェノバ(ロシア語ではジェネヴァ)の大学や図書館で、マルクス、エンゲルスの著作を熱心に読みふけった。82年、『共産党宣言』のロシア語訳を出した。これはプレハーノフのマルクス主義宣言でもあった。ついで翌年、国内のナロードニキをことごとくマルクス主義に改宗させようという意気込みで書き上げたのが、『社会主義と政治闘争』である。「あらゆる階級闘争は政治闘争である」というマルクスの言葉を冒頭に掲げたこのパンフレットは、ナロードニキの病弊であった政治闘争侮蔑の清算を呼びかけた。
バクーニンの影響で国家を否定し、政治はブルジョア自由主義者のすることで、政治を変えようとするなら社会を革命で変えるべきだとするナロードニキは間違いだ。プレハーノフは、「人民の意志」党が権力との対決をという形で政治に突入し、その綱領にも憲法制定会議の召集を載せたことを取り上げて政治否定では革命はできないことを認めたではないかとと言う。プレハーノフは、労働者の中に階級意識を喚起するため、教宣活動の重要性を強調する。
「人民の意志」党はどこが間違ったか。それは、革命がすぐにも到来すると期待したことだ。社会主義社会を築くには、それを可能にする経済力がなけばならない。社会主義実現の条件がないときに、少数のインテリゲンチアの集団が権力を奪取するしてもだめだ。階級の独裁が、小グループの独裁になってしまう。主力は労働者階級にあるのだから、労働者に階級意識をもたせ、組織をつくらせなければならない。インテリゲンチアはそのために、労働者階級の中に入って宣伝活動をしなければならない。労働者階級の戦闘的綱領をつくるのが、当面の仕事だ。革命は一挙に成るものではない。それは長い政治闘争のドラマの終幕だ。プレハーノフはドイツ社会民主党をモデルにしていたから、今いそいでインテリゲンチアだけによる陰謀の党をつくるのはよくないとした。 プレハーノフがとくに党内の独裁に警告を発したのは、1882年の「人民の意志」党の残党が少数による権力奪取と独裁政権を企図していたからである。彼はまた、マルクスの社会主義がロシアにも当てはまることを納得させるには、それを2年後『われわれの意見の相違』で果たしている。
レーニンの登場 経済学の学会などで、おおっぴらに研究されるマルクス主義が合法マルクス主義といわれたのは、それに対して非合法活動の中で学ばれるマルクス主義があったからである。インテリゲンチアがサークルをつくって、そこへ労働者を呼んできてマルクス主義を教えるのは、革命のためである。政府はそういうマルクス主義に厳罰をもって臨んだ。 1895年12月にペテルブルクで、秘密にマルクス主義を研究し、労働者の中に宣伝を行なっていたサークルが検挙された。その中に弁護士だという、若いのに頭のはげ上がった青年がいた。その名をウラジーミル・イリーイチ・ウリヤーノフ(1870-1924)という。彼はまだレーニンというペンネームは使っていなかった。
兄のアレクサンドルが87年に皇帝暗殺に失敗したとき、弟のウラジーミルは17歳だった。すでに寡婦となっていた母は、首都の大学で危険な思想にかぶれさせまいとして、その年の春に高校を卒業したウラジーミルをカザンの大学に入れた。だが大学はいずこも同じである。翌年にならないうちに、ウラジーミルは法学部の学生大会で異常な活動能力を示したたため、退学になってしまった。退学にならなくても同じだった。翌年ウラジーミルが在学中に参加していたサークルが検挙され、キャップだった中退生のフェドセーエフはシベリア流刑になったからだ。
母はウラジーミルを革命に引き渡さないため農場経営者にしようと、サマラ県に土地を買って移住した。1889年だった。サマラ県はヨーロッパ・ロシアの東南の端で、政治犯の流刑地だった。たまたまウリヤーノフ家を訪れるようになったヤーシネワという27歳の女性がいた。彼女は、かつてジャコバンのグループをつくってシベリア送りになったザイチネフスキーが主宰するサークルのメンバーだ。そのために、サマラに流刑になって保護観察を受けている女性闘士だった。
レーニンは自分がマルクス主義者になったのは1889年だというが、それがその年に読んだ『資本論』か、プレハーノフの『われわれの意見の相違』か、あるいはヤースネワから聞いたチェルヌイシェフスキー直伝のザイチネフスキーのロシア・ジャコバン主義かは、問題のあるところだ。
自活できる人間となる意志を捨てなかったレーニンは91年、飢饉のさなか、ペテルブルク大学法学部の国家検定試験を受けて134人の受験者のトップでパスした。
レーニンが1893年サマラを発ったのは、活動家としてペテルブルクで活動するためだった。大学の学生とかねてつけた連絡によって、彼はただちに非合法サークルに加入してマルクス主義の講義をやり、革命家の養成に取りかかった。合法マルクス主義者の中で有名なアレクサンドル・ポートレソフ(1869-1934)という貴族出身の人物と近づきになったところから、マルクス主義者の共同戦線をつくろうということになった。国内の合法、非合法のマルクス主義者とスイスの「労働解放団」と一緒になって、合法的な雑誌をつくろうということになった。1号はどうにか出したが、すぐ押さえられた。やはり、もっとしっかりした組織が必要とわかり、95年の初め党創立の相談に、国内代表としてレーニンがスイスに行ってプレハーノフに会った。
亡命地のベテランたちは、レーニンの学識と器量にすっかり喜んでしまった。だがレーニンはそれ以上にプレハーノフにすっかり傾倒してしまった。パリ、ベルリンを回ってレーニンは5カ月後にペテルブルクに帰ってきた。サークルは広められた。旧名ヴィルナ(現ビリニュス)からやってきたL.マルトフ(1873-1926)を中心にしたサークルをも合併して、いよいよ党を作る準備に新聞をだそうというところで1895年12月9日レーニンは逮捕された。
ヴィルナから来たマルトフ 本名をツェデンバーウムといったマルトフは、コンスタンチノープルのユダヤ人の家庭に生まれ、早くから人種的差別の迫害を受けた。13歳でベリンスキーを読み、14歳でチェルヌイシェフスキーを読んだというから、早熟な革命家だった。ペテルブルク大学に入ったが、「人民の意志」党のサークルに加わり92年に逮捕された。追放地としてリトアニアのヴィルナを選び、そこでユダヤ人労働者の地下活動に参加した。
ヴィルナはポーランドに近く、労働者の動きはその影響を受けて、ロシア本土よりも活発だった。学生が労働者のザークルに来て宣伝をすると、労働者唖たちはインテリゲンチアの政治闘争に利用されることに反対した。彼らの中には、ユダヤ人であるために大学に入学できない青年が多かった。学生たちは労働者の中で扇動を行なって、大きなストを起こすことを計画した。それがしばしば成功したので、従来のインテリが労働者の中に指導者をつくり指導者がサークルを広げストに持っていったとたんに大量検挙されるといった方式と違う道つまり新方式があることがわかった。
マルトフは『扇動について』という本を書いて、この新方式を広めた。サークルで労働者エリートをつくりだすのは、労働者から離れさせてしまうことだ。抽象論で労働者をたちを引きまわすよりも、日常の問題を取り上げて、労働者を扇動して立ち上がらせることが、労働者を直接、権力に立ち向かわせる。大多数をストに立ち上がらせれば権力は譲歩せざるをえない。そういう扇動者が労働者の中から出てくるに違いない。
マルトフは、労働者階級がみずからの力で労働者階級を解放するというマルクス主義の正統の思想を、理想主義的に信じた。この始祖からマルトフは生涯離れることがなかった。
94年にマルトフはこのヴィルナ方式を携えてペテルブルクにやってきて
レーニンと会った。まず宣伝といって、インテリゲンチアがチューターになる古い方式をとっているレーニンらのサークルとの間に多少の食い違いはあった。しかし、ともかく力を結集しようと合同したところ、たちまち弾圧をくってしまった。
レーニンが捕らえられるとすぐ、マルトフは、「労働者階級解放闘争同盟」の名で、検挙によって労働者階級は打撃を受けていないから、大衆の中で扇動を続けるよう訴えた。その結果が96年夏の大ストライキとなって政府に労働時間の短縮を約束させた。これによって、労働者は初めて社会的勢力として認められた。95年にはヤロスラフの綿工場で4000人の労働者が、続いてイワノヴォ・ヴォズネセンスクで2000人の織工がストを起こした。
ここで再びレーニン関係に戻る。1995年12月に逮捕されたあと、レーニンは、14ヶ月間の獄房生活ののち、東シベリアのシューシェンスコエ村に3年間流された。流刑中かれは大著『ロシアにおける資本主義の発展』を書き上げた。1900年、刑期を終えたレーニンの頭を一杯にしていたのは、機関紙を出すことだった。それには国外で編集し、印刷しなければならない。
レーニンのつもりでは、社会民主主義者はもちろん、ストウルーヴェなど学究まで入れた人民戦線的なものにしたかった。新聞を新しく出すためプレハーノフに相談したところ、彼からストウルーヴェと一緒にやるのはごめんだ、それに新聞の編集長は自分以外にないといって、レーニンに対してひどく冷淡な態度をとった。レーニンは尊敬していたプレハーノフのあまりの頑固さにがっかりして、もう新聞のことはダメかとまで思ったが、ザスーリチが中に入って古い世代のプレハーノフ、ザスーリチ、アクセリロートと若い世代のレーニン、マルトフ、ポ−トレソフで新聞を出していくことになった。新聞名は「イスクラ」(火花)ということに決めた。デカブリストのオドエフスキーがプーシキンに答えた詩「火花から火炎が燃え上がる」からとったものだった。
レーニンはドイツ社会民主党の支援を得てミュンヘンに編集局を置いて12月の末に「イスクラ」第1号を発行した。印刷したのは、ライプチヒだった。ロシア内部との連絡はレーニンが一手におさめ、連絡事務の一切は、翌年4月から加わったクループスカヤ(1869-1939)が担当した。クループスカヤはペテルブルクのサークルでレーニンと知り合い、レーニンより少し遅れて逮捕され、レーニンの妻となって流刑地で身の回りの世話をした。それからあとも絶えずレーニンのそばにあって秘書の仕事を続けた。
「イスクラ」紙に出す論文にはレーニンが必ず署名を入れた。プレハーノフも編集者のひとりではあったが、新聞は完全にレーニンのものだった。プレハーノフに代わって新しい指導者が誕生したのだ。
ドイツの国境から秘密のルートで運びこまれる「イスクラ」によって、レーニンは、全人民の中に反政府の意識を掻き立てようとした。レーニンの最大目的は政府と戦う革命の党をつくることだった。秘密サークルを指導するインテリが、「イスクラ」支局員となって、その読者に労働者を増やしていきながら労働者を指導することになれば、サークルの指導権が労働者に渡ってしまうことはないはずである。
「イスクラ」の発行を流刑地で考えていたとき、レーニンは人民戦線的なものにしようとしていたが、「イスクラ」を出し始めてみるとレーニンの重点は、党組織をつくることに置かれた。レーニンは次第に「人民の意志」党の組織原理に近づき考え方としてはトカチェフに傾いていった。レーニンをそうさせたのは、トカチェフをせきたとのと同じ「革命への焦り」だった。レーニンを何よりもあわてさせたのはライバル党の出現だった。1901年にペテルブルク大学を中心に学生のストが始まった。文相ボゴレーポフが暗殺されたことから騒ぎ出した学生のストは、政府側の譲歩で収まった。政府が弱みをみせたのがきっかけで、右派自由主義者と、憲法制定を要求する左派自由主義者とが活動を始めた。残っていたナロードニキも政党をつくる動きを見せはじめた。専制と戦うのは社会民主主義者だけではなくなった。早く党をつくらなければならない。
レーニンの党組織論 専制を打倒する革命で、自由主義者に先を越されないためには、労働者階級が強い党をつくって先頭に立たなければならないとレーニンは考えた。ロシアの労働者は当時まだ文盲が70%にも及ぶのだから、教育のある自由主義者にたぶらかされないためには、インテリが指導しなければならない。インテリが中心になる強い党は、すでにロシアでは試験済みだ。実践では「人民の意志」党があったし、理論ではトカチョフがいた。
1901年にレーニンはジェネヴァの亡命革命家のための図書館でトカチョフの著作をむさぼり読んだ。そしてその年の秋から『何をなすべきか』の執筆を始め翌年の2月までに書き上げて本にした。党はどういうものでなければならないか、というレーニンの思想が、本書ではっきりと世に示されたわけだ。この本の中心になる考えは、労働者階級を指導するのは、明確な階級意識を身につけたインテリでなけれがならないということであった。
レーニンは「人民の意志」党こそ手本だと言いたかったのだろうが、当時まだ同党の残党がいて、レーニンは社会民主主義者としてナロードニキと論戦していたので、以上の考えは「土地と自由」派の創造にかかるものだと言ったのであった。それに「人民の意志」党は大衆から孤立していたことも理由の一つだった。率直にいってレーニンとしては、「人民のなかへ」の夢を守り続けた「黒い再分割」派を含めた「土地と自由」派を手本にして置いた方が、労働者大衆を動員する党としては都合が良かった。
『何をなすべきか』によって、つくるべき党の青写真を示したレーニンは、この思想に賛成する代議員を国内から集めて、国外で党大会を開くするつもりだった。そのためにい「イスクラ」を使って宣伝を強め、国内に党大会を準備する「組織委員会」なるものをつくった。地区委員会からなるべくインテリを代議員に出させるよう腹心を国内に派遣した。 |
「ロシア社会民主労働者党」
1898年社会民主主義者組織の代表9人がミンスクに会合して開いたロシア社会民主党の結成大会は、全員が即日逮捕されて、党の創立までには至らなかった。第2回党大会は1903年7月13日ブリュッセルで始まり、途中でロンドンに移動して8月10日におわった。26の組織から51票をもった43人の代議員が集まった。そのうち「イスクラ」派の票は33票だった。「イスクラ」派が一本になれば、問題はなかったが、レーニンとマルトフが対立した。ブント派の票とその反対派の票とは、きわめて接近した。
ミンスクの創立大会は、規約のあらましを決めただけですぐ消滅したので綱領を決めていなかった。
だから第2回党大会で綱領を集団討議することになり、事実上の創立大会であった。
大会で問題になったのは、レーニンの考え方である。『何をなすべきか』で党組織の構想を発表し、「イスクラ」によって同調者を集めているレーニンに対して、反対者が少なくなかった。
マルクス主義者を科学的に正しい思想として受け入れたロシアの革命家は、みずからを社会民主主義者と呼んでいたことからもわかるように、ドイツの社会民主党をモデルにしてマルクス主義を考えていた。それゆえ「土地と自由」派を手本にした中央集権組織をつくるというレーニンに質問が集まった。殉教者的な革命家アキーモフの質問がもっとも鋭かった。彼は、ヨーロッパ諸国の社会民主党の綱領と比較して、レーニンの党綱領が偏向しすぎているという。「すべての偏向を比べて気づいたことは、偏向はすべて同じ方向に向かい、ただ一つの傾向によって貫かれているということだ。それは社会民主主義の発展に関して、プロレタリアの創造力を否定し、その活動的役割をわい矮小化している」
アクセリロートは歴史的必然によって公然と登場したプロレタリア党が、どうして陰謀的であると必要があるかと聞きただした。マルチーオノフは、党綱領にプロレタリアが搾取者と戦うとしか書いてなく、歴史的必然でそうなるということが抜けていると非難した。
しかし、レーニンにしてみると、革命は革命家がつくり出すというトカチェフの思想は動かせなかった。歴史的必然性を強調すると、労働者の自発性にインテリが譲歩することになる。党は革命家エリートの集団で、労働者階級の役割を代行するのだ。だから、綱領に賛成し、党費を払う者はみな党員と認める、というマルトフの案にレーニンは反対した。党員は党のどこかの組織に加わって、上部からの統制に服する者に限らねばならない。
自由主義者に対する態度においてもレーニンは厳しかった。共同闘争の条件を決めるというのでなく、労働者の党は独自の道を進む。君らは勝手についてこいとといった調子だった。農民問題については、「農奴解放」のときにとられた「切り取り地」の返還を要求するだけで、地主の土地をすべて取り上げて再分割しようという「黒い再分割」より後退した。
中央委員会を「イスクラ」派で占めることには成功したが、そのほかのてんではレーニンの思うようにはならなかった。レーニンの強引な態度に、古くからの革命家は反発した。レーニンに忠実なメンバーとそれに反対する派とに党は事実上二分してしまった。「イスクラ」編集部の構成を決めるときに多数だったレーニン派はみずから多数派(ボリシェヴィキ)と言い、少数派だったマルトフ派を少数派(メンシェヴィキ)と名づけた。
孤立したレーニン 名前はボリシェヴィキだが、スイスにいる亡命革命家の中で、レーニン派は少数派だった。レーニンは党機構を自分の思い通りに動かせる日は近いと期待じた。しかしこの期待は、プレハーノフがレーニンの冷血非情に付いていけず離れていったとことから、崩れていった。
「イスクラ」編集部からアクセリロートやザスーリチを追い出してしまおうとして、レーニンは逆に自分から辞める羽目になってしまった。「在外社会民主主義連盟」をクーデター式にボリシェヴィキ側につけさせようとした企てに失敗して、レーニンの旗色はいよいよ悪くなった。レーニンはもう一度党大会を開いて挽回しようとしたが。やっとの思いで費用のかかる大会を開いて間もないのに、再び大会を開こうというのは、常識に反するとして中央委員会はそれに賛成しなかった。レーニンは自分だけが正しいということを証明するために『一歩前進、二歩後退』という長い論文を書いた。
「イスクラ」を手におさめたメンシェヴィキは、レーニンがマルクス主義から外れていると宣伝しはじめた。レーニンはマルクス主義者でなく、急進的なプチブルだというのである。西欧の社会主義者たちとしては、ロシアの革命家が二つに分裂して争っているのをやめさせたかった。ドイツ社会民主党のカウツキーも、ポーランド出身でドイツ社会民主党員のローザ・ルクセンブルクも「イスクラ」に論文を寄せてレーニンを糾弾した。
しかしレーニンはひるまなかった。ロシアのことを一番よく知っているのはロシアの革命家であり、ロシアの革命家のことを一番よく知っているのは自分だという自信を動かさなかった。スイスで孤立したレーニンは、支持をロシアの内部に求めた。このときロシアからやってきたのが、アレクサンドル・ボグダーノフ(1873-1928)だった。医者なのに、23歳で分厚い経済学の本を書いて有名になった風変わりな人物である。彼はゴーリキーと仲が良く、ゴーリキーに資金を出させるという。レーニンがスイスで新聞を編集し、自分は国内でボリシェヴィキを組織するというボクダーノフの提案に、レーニンはすっかり喜んだ。ゴーリキーの出した金で、とにもかくにもボリシェヴィキ派の新聞が出せることになった。
「フペリョート」(前進)という新聞がジェネヴァから出はじめたのは1905年1月4日だ。同年1月23日、レーニンは妻クループスカヤと連れだって図書館に行く途中だった。ボグダーノフの義弟、アナトーリー・ルナチャルスキー(1879-1933)とその細君がが駈けよってきた。細君ががふるえる手で差し出した新聞を見ると大見出しで「ロシアに革命」と出ているではないか。 |
一九〇五年ロシア革命
[日露戦争]ニコライ二世は深く神を信じた。13歳のとき祖父アレクサンドル二世が革命的学生の手で暗殺された。そのこともありニコライはインテリが好きになれなかった。神が皇帝と人民とを結びつけた聖なるきずなを断ち切ろうとするのが、自由主義者や革命家だと思っていた。神のみ心によって専制を守ることが自分の使命だと信じて疑わなかった。1894年、父アレクサンドル三世の急死によって帝位についたとき、自由主義者たちは即位宣言に憲法制定をを期待していた。しかし彼は宣言で「人民が政府のことに口出しできると思うのはおろかな夢だ」と断言した。
人間としてニコライ二世はデリケ−トな感情の持ち主だった。人と面と向かって、その人の気を悪くするようなことは言えなかった。しかし彼は運の悪い人間だった。1896年、モスクワで戴冠式の日、しきたりの振る舞い酒がホデインカ原で飲ましてもらえるというので集まった何万という民衆が混乱して多数の圧死者が出た。その時間に皇帝はたまたまフランス大使館招待の舞踏会に出ていた。人民に対して冷酷であるという風評が立ったが、彼の本意でなかった。
皇太子時代、1891年、92年にかけての中東、極東の巡遊にあたって日本をも訪れた。そこで彼は津田巡査によって危うく殺されるところだった。シベリア鉄道建設の委員会議長だったので、極東については関心が深かったが、そうだといってロシア極東政策の推進する主体的な役割をしていたとはいえない。日清戦争で勝った日本が清国から遼東半島を割譲させる条約を結んだとき、皇帝に反対の気持ちはなかった。しかし閣議で蔵相ウイッテが遼東を日本に押さえられては、せっかくシベリア鉄道をつくっても極東の経済的な支配はできないと奏上した。
またロシア海軍は、極東に不凍港をどうしてもほしいと思っていたから、遼東半島は日本にゆずりたくなかった。そこで皇帝は、露仏独の3国による干渉にふみきった。
三国干渉によってせっかく手に入れた遼東半島を返さなければならなかった日本国民のロシアへの恨みは深かった。干渉のリベートに東支鉄道の権益を得たロシアは、ドイツが清国に言いがかりをつけてチンタオ(青島)を99年間借りたのに便乗して旅順口を軍港として使うことになった。これが日本の危機感をさらに強めた
日本には韓国についての権益を、ロシアには満州の権益を、という協定を、ロシア側が十分に守らなくなったとき、英米2国のバックアップによって、日本はロシアに宣戦した。
シベリア鉄道の輸送力の不十分、戦争統帥部内における意見の不一致、そして何よりも、専制のもとで無気力、無目的になっていた農民から徴発した兵士は、ロシアにとって大きなマイナスだった。旅順口が陥落し、日本海海戦に大敗したロシアが、まだ余力を残しながらも、総動員力を使いつくした日本との和議に応じたのは、国内に革命の危険性があったからだった。
ペテルブルクの人民戦線 「血の日曜日」に対する抗議は、まず労働者の中から起こった。ペテルブルクはもちろん、モスクワ、サラトフ、エカテリノスラフ(ドネプロペトロフスクの旧名)、リガ、ワルシャワ、ヴィルナとストの波が広がった。内相ミルスキーは1月22日に辞職してブルイギンがこれに代わった。2月には農民の暴動がクルスクに始まり、オリョール、チェルニーゴフに広がった。2月4日には反動家で有名な皇帝の叔父セルゲイ大公が暗殺された。
2月、皇帝は議会制の調査のため指揮者に諮問するむねの勅令を出したが、すでに遅すぎた。自由主義者は労働者と共同戦線をつくる姿勢で「組合連合」なるものを5月に発足させた。
知識人の職業組合ができたのは前年の11月だった。法律家、教授、ジャーナリスト、ゼムストヴォ(地方自治会)の事務員などが集まってそれぞれの職業組合をつくった。この音頭取りをやったのは、自由主義者の集団で、1903年スイスで第1回会合をやって結集した「解放同盟」だった。自由主義的な地主と、社会主義から転向したインテリとが参加していた。事務局を担当したのは社会主義者だった。
「解放同盟」ゼムストヴォにも働きかけて1904年に第1回ゼムストヴォ大会を開かせていた。この「解放同盟」の指導者はモスクワ大学の歴史学教授パーヴェル・ミリューコフ(1869-1943)だった。
5月27日の日本海海戦のバルチック艦隊全滅は大きなショックだった。6月6日には左右対立を克服してゼムストヴォ大会が開かれ、これには市会代表も参加した。組合連合は即時停戦をアピールした。指導者のミリュコーフは逮捕された。7月には農民組合がナロードニキによって結成された。軍隊も動揺した。6月14日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの乗組員が反乱し、1週間の「解放」ののち、ルーマニアの港に入って武装解除された。この反乱も全く自然発生的で、社会民主主義者は参画していなかった。
7月6日にモスクワでゼムストヴォと市会代表の合同大会が開かれた。官憲は禁止したのだが、それを押し切って大会が開かれ、「解放同盟」が起草した憲法草案を可決した。8月6日、皇帝は2月に約束した国会の選挙法に関する勅令をブルイギンに発表させた。それは自由主義者たちが要求していた普通直接選挙でなく、貴族、市民、農民の三つに分け、貴族と市民は2段階選挙、農民は3段階選挙で代議員を選ぶことになっていた。都市では財産の制限があって、インテリと労働者の多くは選挙権をもっていなかった。しかも国会は議決権を持たない諮問機関だった。
自由主義者は満足しなかった。学生も承知しなかった。学生たちは紛争を重ねて、ついに大学の自治を勝ち取り、学内に警官の立ち入りをさせないことになった。このことが大きな政治的結果をもつことになった。8月には農民の暴動が全国的にまた激しくなった。満州から引き揚げてくる軍隊の中にも小規模の反乱がみられた。8月のポーツマス条約調印によって政府は軍隊の余裕ができ、首都の治安に軍紀の保たれた軍隊を投入できるようになった。
社会民主主義者といわれる党員の数は、1905年現在、ペテルブルクでは
ほぼ1000人と推定されている。大部分の党員は、亡命地にいる幹部たちの仲間争いにはうんざりしていた。派閥の統一は、末端の党員の願いだった。しかし、地区委員会となると、そうはいかなかった。ウクライナとシベリアの地区委員会はメンシェヴィキ派がすべてだった。ボリシェヴィキ派が優勢だったのは、モスクワとその周辺で、ペテルブルクではかろうじてボリシェヴィキが委員会を押さえていた。中央委員会はメンシェヴィキが占めていたが、党を二つに割りたくない気持ちから、ボリシェヴィキには反対しながらも、強いことは言わなかった。
各派の革命の見通し 専制政府は万人の目の前で解体しはじめた。革命は目前にある。闘争の舞台に上っているのは、自由主義者と社会民主主義者だ。それぞれは、来たるべき革命をどう見ていたか。
自由主義者は、労働者たちのエネルギーを使って専制を倒した上に、西欧式の民主主義社会をつくろうと考えていた。だから革命は専制を倒すのに必要で十分なだけ過激であってくれればよかった。自由主義者にとって、メンシェヴィキの革命理論は都合のいいものだった。メンシェヴィキは革命をブルジョア革命と考えていた。プロレタリア革命をやるためには、ロシアはまだ資本主義的にも熟していない。ブルジョア革命をやって、プロレタリアが成長し、人民の大多数がプロレタリアになったとき、社会主義のためのプロレタリア革命になる。ブルジョアと戦うのは、ブルジョアが政権を取ってからのことだ。専制を倒すための革命ではブルジョアと協力する。途中でブルジョアが革命を裏切らないように左へ左へと押しやる。しかし、ブルジョアとやがて戦う運命にあるのだから、革命臨時政府には参加しない。これがメンシェヴィキの理論であった。革命までは手伝ってくれて、革命政府ができたら、それをすっかり任せてくれるというのだから、自由主義者にとってこんなにありがたい仲間はない。
自由主義者が嫌がったのは、ボリシェヴィキのレーニンである。レーニンは革命はすでに武装蜂起の段階に入ったと考えた。とにかく専制から権力を奪い取らねばならない。「プロレタリアは、実力で専制の抵抗を押しつぶし、ブルジョアの動揺性を麻痺させるために、農民大衆を味方に引きつけて民主主義的変革を最後まで遂行しなければならない。プロレタリアは、実力でブルジョアの抵抗を打破し、農民と小ブルジョアの動揺性を麻痺させるために、半プロレタリア分子の大衆を味方に引きつけて社会主義的変革をやりとげなければならない」レーニンはプロレタリア革命を呼びかけているのだ。しかし、それは民主主義的にやらねばならない。民主主義革命というのは、農民の利益も考えなければならないからだ。
農民が果たしてプロレタリアの同盟者として社会主義的変革をやれるかどうかについてレーニンの論証は十分でない。レーニンは、この理論を説いた『二つの戦術』を掻いた1905年5,6月の段階では、革命権力である「プロレタリアと農民の革命的民主主義独裁」がどのくらい続くかということについてはっきりした見通しを与えていない。
しかし、同年9月14日に『わが国の自由主義的ブルジョアは何を望み、何を恐れているか』を書いたときは、革命の推移についてはっきりとした見通しを持つようになった。「なぜなら、われわれは、民主主義革命から直ちに社会主義革命に移行するからだ。しかもわれわれの力に応じて、自覚し組織されたプロレタリア後からに応じて移行し始めるだろうからだ。われわれは永久革命を支持する。われわれは中途で立ちどまりはしないだろう」これは、いわゆる一段階革命論である。ロシアのような社会主義実現のための生産力がない国で社会主義革命をめざすためには、ロシアの革命が口火になって、ヨーロッパに革命が起こり、そこで権力を取ったプロレタリアが、ロシアの社会主義建設を支援するという前提が必要だ。レーニンはこの前提を当然考えていた。
ペテルブルク・ソビエトの誕生 ブルジョア革命では、労働者が臨時政府をつくらなければならないとという考えに、レーニンよりさきに到達していた二人の人間がいた。一人はパヴルスのペンネームで知られるイスラエル・ヘルファンド(1869-1924)という白ロシア生まれのユダヤ人で、ドイツ社会民主党の理論家だった。もう一人はトロツキーという名の方が今はよく知られているレフ・ブロンシテインという南ロシア生まれの同じくユダヤ人である。
トロツキーは高校時代から非合法運動に参加し、シベリア流刑になり、脱走してロンドンのレーニンのもとに至って「イスクラ」編集に参加し、レーニンの信頼にかかわらず第二回党大会以後はメンシェヴィキだった。彼がメンシェヴィキとも別れてフリーランサーになった途端、ロシアの革命をスイスで聞き一刻も早くロシアに帰るべく道を急ぐ途中、ミュンヘンでパルヴスと会った。彼らは思想統一をやった。
彼らはロシアのブルジョアはきっと途中で裏切るから共同闘争はできないとした。農民は政治的能力がない。従って労働者が革命をやるしかない。もちろん、ロシアで今社会主義を実現することはできないから、ロシアの革命によって、ヨーロッパの労働者に革命を起こさせねばならない。彼らはロシア革命を全く世界の枠内で考えた。
キエフを経てペテルブルクに潜入したトロツキーは、ボリシェヴィキに近いクラシンと連絡がつき活動を始めた。トロツキーはどちらの派にも属していなかったのでメンシェヴィキの組織にも支持者をもった。
ボリシェヴィキは武装蜂起だけを考えていて、大衆の自然発生的な運動に巻きこまれまいとしていた。メンシェヴィキは自然発生的な運動に参加したが、労働者が権力を取ることには気乗りうすだった。トロツキーは大衆のエネルギーを権力掌握の道に流しこんだ。彼の大衆をとらえる武器はペンと弁舌である。「イスクラ」に載せはじめた彼の論文は、その明快さによってたちまち争って読まれることになった。
労働者のエネルギーは10月のゼネストとして爆発した。それは史上最大規模のゼネストであり、しかも自然発生的に起こった。ペテルブルクの印刷工の間に始まったストは、パン焼き工、鉄道工場員と広がり、さらに拡大してロシアの中部南部、ポーランド、カフカースの鉄道は運行を中止した。ゼネストは10日から13日にかけてモスクワ、ハリコフ、スモレンスク、エカテリノスラフ、サマラ、ミンスク、ペテルブルクと広がった。労働者だけでなく、医者、弁護士、薬剤師、銀行員、郵便局員、公務員がストに入った。夜は電灯がつかず、水道は時間給水になり、3日間は新聞が出なかった。ストをする労働者に賃金が支払われたのが今までと違っていた。
そのなかで、10月13日ペテルブルクの労働者ソビエトが生まれた。フィ
ンランドに潜伏していたトロツキーは勇躍してソビエトに飛びこんだ。労働者は彼の炎のようなアジ演説に完全に魅了された。
ソビエトは自然発生の産物であるが、初めにきっかけをつくったのはメンシェヴィキである。6月頃からメンシェヴィキの機関誌イスクラは、国会の選挙を扇動した。また場合によっては「蜂起の序曲」となりうる「革命的自治」の組織をつくるようアピールしている。10月10日からメンシェヴィキんの党員は「革命的自治」の組織をつくるつもりで、工場に呼びかけて500人に1人の割で代表を選挙して、さしあたりゼネストのための労働者の委員会をつくり始めた。500人に1人というのは、2月に労資協調の機関としてシドロフスキー委員会というのを、代表だけ決めてお流れになってしまったことがあったからだった。
メンシェヴィキの肝いりでつくられた工場労働者の委員会がソビエトであり、その第1回の大会が10月13日にもたれた。そこにトロツキーが姿を現して、盛んな扇動を始めたのだった。
ゼネストの指令本部であるソビエトは、にわかに力を持ち出した。印刷工組合が、検閲印のある原稿は印刷しないと決議した日から、検閲制度はなくなった。10月17日、皇帝はついに譲歩し、基本的人権の承認と国会に議決権を与える勅令を出した。人民にとって国家が幻想であったと同じに、支配者にとっても革命は幻想であった。
ソビエトの潰滅 パルヴスがペテルブルクに着いたのは、10月の末だった。この日から彼とトロツキーとのデュエットが始まる。革命舞台の2人の名優は、その才能にふさわしい役割を分担した。トロツキーが集会から集会に駆け回って、革命の催眠術をかければ、パルヴスは発行部数3万のリベラリスト紙「ルスカヤ・ガゼータ」を、たちまち発行部数10万の革命紙に変えてしまうのだった。
そのころロシアはその歴史で最も自由な時代だった。10月末には不成功に終わったが、クロンシタットとウラジオストックで軍隊の反乱があった。反動派も黙っていなかった。黒百人組という暴力団を組織してしばしばユダヤ人狩りをやった。
10月30日の大赦令で、マルトフやレーニンやザスーリチが11月に帰国したとき、革命の奔馬にまたがっていたのは26歳の青年トロツキーだった。
メンシェヴィキのマルトフらは、ソビエトの自然発生的な力を信じていたから、「イスクラ」の続きとして出す「ナチャーロ」にトロツキーとパルヴスの執筆を依頼した。党から掣肘を受けない条件だったから、2人メンシェヴィキをも自分の側に獲得した。
問題はレーニンだった。ソビエトについてはっきりした態度を示さなかった彼は、11月初めフィンランドで革命の実情を聞いた。ソビエトを臨時革命政府の芽と考え、ソビエトに革命政府であることの宣言を薦めた。それも束の間でペテルブルクに入ると、レーニンは党の強化に集中し、非党組織であるソビエトに敵対感を持った。
パルヴスは計画をさらに一歩進めた。ロシアで労働者デモクラシーを実現するには力が足りない。ヨーロッパに革命を飛び火させなければならない。そのためには、ドイツ社会民主とが10年前からスローガンに掲げてなお勝ち取れない8時間労働制をロシアで実現させればよい。ヨーロッパは労働者の革命の威力を知って同じように立ち上がるだろう。この計画は11月8日に実行に移された。
ペテルブルクの各地区で8時間労働制の要求が出され、ある工場では労働者が一方的に実行に移した。メンシェヴィキは力関係を顧慮して反対した。
ここで人民戦線は終わった。今までのゼネストには賃金を払った工場主は、労働者の中に自分の敵を見た。ブルジョアはより無害な敵、専制と妥協した。11月20日は10万人の労働者に対するロックアウトをもって応じた。
フランスからの借款を得て、体制の建て直しに自信を持った首相のウィッテは攻勢に転じた。12月5日ソビエトの議長フルスタリョフ=ノサーリが逮捕された。トロツキーが代わって議長に選ばれた。再びゼネストをもって応じるには労働者は疲れすぎていた。このとき農民同盟から、政府の金庫をからにするため、税金の不払いと貯金の引き出しの運動を提案してきた。ソビエトはそれに応じて、12月14日の新聞にこの呼びかけを掲載させた。アピールを平明な言葉で書いたのはパルヴスだった。翌日アピールの載った新聞は没収された。ソビエトの幹部は一斉検挙された。トロツキーは捕らえられたが、パルヴスはうまく逃れて再建ソビエトの議長となった。ソビエトは地下に追いこまれた。12月20日、全国のゼネストが指令された。32の都市にストが始まった。モスクワでは、ボリシェヴィキの指導のもとに武装蜂起が始まり、トゥヴェルスカヤ通りにバリケードが築かれた。
モスクワの守備隊に多少の動揺が見えたので、勅令によりペテルブルクから支援に来たセミョーノフスキー守備隊が武装蜂起を鎮圧した。こうしてソビエトは潰滅した。革命を潰滅させた軍隊の成員である農民が、革命を理解できなかったのだ。
国会の召集 皇帝の十月宣言で約束した国会は2院制だった。上院には従来ある国家評議会が母体になった。皇帝から任命されたものの半数に教会、貴族、学者などから選挙された者が加わった。
下院に当たるドゥーマは、間接選挙で農民の代表が多く出られるようになっていた。国会で憲法が議せられることを防ぐために、1906年の5月に「基本法」が発布されて、内閣を皇帝による任命と決めた。ドゥーマに対してどの大臣も責任を負わないことにされた。陸海軍と宮内省の予算は、ドゥーマの審議権から外された。ドゥーマに立法権があるというものの、休会中は政府が法令を出して時期国家に提出すればいいことになっていた。国会がそれまでに解散になれば、事後承諾はなくて良かった。
国会の選挙に対して自由主義者たちは1905年10月に「立憲民主党」(カデット)を結党した。自由党の右派は翌06年2月に「オクチャブリスト」(十月党)をつくった。ナロードニキは1905年12月に「社会革命党」をつくったが、この党は国会選挙に対してボイコットの政策をとった。
社会民主党は、下部組織から分派解消の動きが盛んに名って、、1905年12月の統一中央委員会のできた段階で派、武装蜂起を第一とし、権力と平和共存する国会はボイコットすることにした。
1906年4月にストックホルムでボリシェヴィキとメンシェヴィキ合同の党大会が開かれたが、代表の数はメンシェヴィキ62名、ボリシェヴィキ49名で、中央委員もメンシェヴィキが多数を占めた。メンシェヴィキは国内の状況がもはや武装蜂起の時期でないと判断し、国会選挙に参加することを主張した。ボリシェヴィキは全員徹底抗戦だったが、レーニンだけは選挙に参加すべきだと考えた。手兵のボリシェヴィキを手放すまいとすることと、自分の主張を通したいこととの間で、レーニンは苦悩していた。
選挙の結果はカデットが第1党だった。447議席の内、187席を占めた。農民の票を集めた地方ゼムストヴォのインテリの急進分子が94席を得て第2党のトルドヴィキになった。メンシェヴィキは17席を得た。社会革命党とボリシェヴィキは議席をもたなかった。右派はわずか32票で、それも「十月党」の17議席を加えてのことだった。
前年の騒乱をどうにか切り抜けたウィッテは、国会開会直前に首相を辞めさせられた。代わって首相になったのはゴレムイキンだった。カデットの党首ミリュコーフ派、当然カデットのによる内閣を作るべきことを主張した。官僚とドゥーマの穏健派との連合内閣をつくろうとしたピョートル・ストルイピン(1862-1911)と意見が違った。
政府の発表した農業政策に不満だったドゥーマは人民へのアピールを出したところ、政府は国会をを解散し、議場を軍隊が占拠した。首相はストルイピンに代わった。
自由主義差たちが、カデットに内閣を作らせようと要求したのを、メンシェヴィキを多数派としていた社会民主党の中央委員会は支持した。責任内閣制の要求というスローガンは、革命の夢からまだ覚めきっていなかったペテルブルクの労働者には、いかにもブルジョア的に見えた。労働者は武装蜂起を叫び続けるボリシェヴィキに耳を傾けはじめ、ペテルブルクの党委員会はボリシェヴィキが多数になった。
レーニンの資金調達 国民を代表する国会があるという事実は、その国会がどれほど不完全な代表機関であるにせよ、国民の意識を変えるものである。政治的な扇動を多くの人びとはもはや自由への呼びかけと聞かず、秩序の破壊と見る。この秩序への信頼は、革命家の仕事を甚だしく困難にする。失業した革命家の集団には、内部的な腐敗が避けられない。
そうした中で、レーニンは革命への初志を決して捨てなかった。革命は、強固な意志をもつ指導者により組織された中央集権機構によって人民のエネルギーを汲みだしたときにのみ可能となる。
党の命令となれば、どんなところへでも潜入し、どんな危険な仕事でもするプロフェッショナルの革命家集団を常に用意しておくために、レーニンは多額の維持費を必要とした。
1907年5月から3週間ロンドンで開かれた党大会でもそのことが問題になった。党大会には300人の代議員が集まった。ボリシェヴィキとメンシェヴィキとは、ほぼ同数だったが、ポーランドやラトヴィアの社会主義者が多数参加したので、レーニンはかろうじて多数を制することができた。
メンシェヴィキは、ぼりしぇう゛ぃきの「徴発」に対して党の名誉を傷つけるものだと非難し、「徴発」御実行機関である「戦闘団」を解散すべきだと主張した。しかし、レーニンは屈しなかった。彼にとって、「徴発」の相手が国家であるかぎり、武装闘争のミニ型と解されるべきものであった。「個人財産の『徴発』は許されない。官有財産の『徴発』は奨励しないが、党の統制のもとで行ない、その資金を蜂起の必要に振り向ける」と彼は条件づけた。しかし、
メンシェヴィキのアナーキスト、マルトフやトロツキーはレーニンの「徴発」意見にはげしくはんたいした。
会場の片隅で、トロツキーのレーニン批判を黙って聞いていた青年がいた。イワノヴィチと名乗るその男は「徴発」の名手、のちのスターリンだった。
第一次世界大戦 1914年8月、第一次世界大戦が勃発した。大戦をもたらしたのは、列強間の帝国主義的矛盾であり、戦争を仕かけたのはドイツだった。ドイツは、イギリス、フランスに対して植民地や販路の再分割をねらう戦いに打って出たし、ロシアからはポーランド、ウクライナを、さらに沿バルト諸国をもぎとろうとした。他方、英仏両国にも侵略的意図があり、イギリスはドイツを粉砕し、フランスはアルザス・ロートリンゲン地方を取り戻し、ザール炭田を奪おうとを夢見ていた。
第一次大戦で、ロシアは英仏側に立って戦った。それは、自国の経済が英仏資本に深く結びついていたのと、ドイツがロシア西部の土地をねらっており、それを防ぐため、西側に対独同盟国を探し求めていたからである。
1914年6月末、ボスニアの首都サラエヴォでセルビアの民族主義団体に属する青年がオーストリア皇太子フェルジナンドを暗殺するという事件がおこった。この事件が直接の誘因となって世界大戦がはじまったのである。ドイツからの指示を受けて、オーストリア政府がセルビアに宣戦布告すると、ロシアは総動員を開始した。ドイツは動員解除を求めたが、ロシア政府はこの要求をけった。するとドイツは同年8月1日ロシアに宣戦布告した。ドイツ軍がベルギーの中立を侵して同国領土経由、フランスに侵入した。これを知りイギリスはすぐさまドイツに宣戦布告した。ドイツは対抗措置としてロシアに宣戦布告し、ロシアもただちに対独宣戦布告した。
東部戦線についていえば、開戦後ドイツの電撃的攻撃を受けたフランスの執拗な要求により、最高総司令官ニコライ大公は軍隊の集結と展開の完了をまたず対独攻撃を開始した。ドイツ軍は対仏攻撃軍から3個軍団を割いて東部戦線にまわし、サムソーノフ将軍の第一軍をタンネンベルクで包囲殲滅した。この犠牲によってフランス軍は壊滅をまぬがれたのである。ロシア軍はオーストリア領ガリツイアでは攻勢に出て、拠点リヴォフを落とした。
戦争はかってないロシア国民の団結をつくりだしたかにみえた。国会議長ロジャンコは「ロシアの皇帝と臣民の一身同体」を誇示し、地方自治体は全国大会を開いて恤兵金を募り、傷病兵救護のための全露連合が結成された。挙国一致の雰囲気は社会主義者をも捉え、彼らの中にも戦争を支持する動きが現れた。プレハーノフ、ザスーリチ、クロパトキンのような古い亡命者までが、「野蛮なドイツの勝利はロシア人民の自由な精神まで損なう」として、ロシアと連合国の勝利を望んだ。だがドイツ、フランス、イギリスでは、このような戦争協力派が社会主義者の主流だったのに、ロシアでは反戦派が主流を占めた。挙国一致の国会でボリシェヴィキとメンシェヴィキの議員団が共同して侵略戦争反対を声明したのは、その現れといえる。
反戦の立場をとった社会主義者はインターナショナリスト(国際主義者)と呼ばれたが、彼らの考えはさまざまに分かれていた。そのなかで最左派に位置していたのはレーニンである。彼は亡命地ガリツイアでオーストリア官憲に捕らえられ、かろうじて釈放されるとスイスへ逃れたが、自分の予想を超えた事態の展開に動揺していた。ドイツ社会民主党などの戦争支持がとくに彼を苦しめた。
レーニンは直感的にロシアが敗北した方がロシア革命にとって有利だとして敗戦主義をとなえ、この戦争を内乱に転化、戦争を支持する社会主義者は敵なのだから彼らとは絶縁すべきだと主張した。しかし党外の左派インターナショナリスト、トロツキーは平和をめざすために扇動する革命的意義を主張して、レーニンを批判した。
緒戦ののすべり出しは順調だったとしても、開戦後50日にして早くも兵員輸送難と砲弾物資の補給難が認められた。こうした事態は、1914年末にはまったく危険な状態に立ちいたった。「多くの兵士は、長靴がなくて足が凍傷にかかっている」と参謀総長報告は述べている。そういう状態はいつまでも持ちこたえられるはずがなく、ドイツ軍は翌15年4月、ガリツイアでロシア軍の第一線を突破し、8月までにガリツイア全土から退却させると、引きつづきポーランドでもロシア軍を敗走させた。8月だけで、捕虜は40万に達した。皇帝ニコライ二世は、敗戦の責任をニコライ大公にとらせ、自分が代わって最高総司令官の任につく。
社会主義インターナショナル 社会主義者の国際組織である社会主義インターナショナル(第2インター)は第1次大戦が始まる以前、1907年にシュトゥットガルト(ドイツ)で、1912年にバーゼル(スイス)戦争についての宣言を出した。その両方に共通していわれたことは、平和の保持に努力するが、「それにもかかわらず戦争が起こったら、速やかに終わらせるよう干渉し、人民を立ち上がらせ、資本家階級の支配を廃止するため、戦争で起こった経済的・政治的危機を利用することに全力を注ぐこと」であった。社会主義には色々の傾向があったが、シュトゥットガルトの大会では、ローザ・ルクセンブルク(1870-1919)、マルトフ、レーニンらの左派がリードして、この宣言を採択させたのだった。レーニンらの考えからすればこの宣言は、戦争を内乱に転化させて労働者階級が資本家の政府を倒して権力をとれというよびかけだった。
これに対して右派の社会主義者は別の考えを持っていた。彼らは資本主義の社会は平和的に社会主義社会に移行するとした。労働組合や協同組合の活動を通じて、民主主義を拡大させていくことで、国家は労働者の国家になるのだから、労働者は国家に対する愛をどこででも捨てる必要がない。国家の与える福祉が大きくなるほど労働者は国を愛するのが当然である。もし外敵が国家を侵略してくるのなら、敵に降伏するより決起して祖国を守るべきである。こういう立場から右派の社会主義者は、大戦勃発にあたって祖国防衛の立場に立った。 中間派は、左派党派との間を絶えず動揺した。たとえば、カウツキーは資本主義の没落は必然であるが、なるべく労働者階級の出血の少ない仕方で権力の交替をしたい考えていた。はやる左派に対して、まだその時期でないとなだめた。資本主義社会の中で、労働者階級はもっと政治に習熟しなければならない。資本主義社会はその内部経済的な矛盾でがたがたになるときが来るのだから、そのときに民主主義の力で革命をやればよいという思想だった。戦争における外国軍の侵略は破壊の最大なものだから、これは防がなければならない。自国の独立と領土の保全は、すべての民族国家の労働者階級が努力すべきだと言う立場だった。
中間派は動揺しながらも、社会主義者の国際的な組織としてインターナショナルだけは残したいと願った。1914年7月16、17日、社会主義インターナショナルの主導的な役をしていた中間派は、ロシアの社会主義を統一させるため、
ブリュッセルに協議会を開いた。レーニンは代理を出した。ロシアの社会主義者といえば、ボリシェヴィキしかいないのだから、いまさらメンシェヴィキとの統一を他国の社会主義者から押しつけられるいわれがないというのがレーニンの考えだった。カウツキーらは、レーニンの代理のイネッサ・アルマンに言いたいことを言わせておいて、つぎのインターナショナルの大会で、もう一度ロシアの社会主義者の統一を訴え、それでも聞かないのなら、ロシアの労働者に、インターナショナルの名でレーニンを非難することにした。しかし、その決定の日にサラエヴォに発せられた銃声は、その企画をお流れにさせた。
戦線の膠着 西と東の両面に敵を控えたドイツの最初の作戦は、初めに大部分の兵力をもってフランスを席巻し、そのあとに東方に転じてロシアを叩くことになっていた。
連合軍の方では、開戦の場合、ロシアがまずドイツに対して攻撃を加えることに決められていた。ロシアはこの約束を守って、8月17日に東プロシャへの攻撃を開始した。十分の用意はなかったが、この攻撃は成功してレンネンカンプ将軍の軍は東プロシアに深く侵入した。これを助けて、サムソノフ将軍がワルシャワ北方から進撃してドイツ本国との通路を絶とうとした。東プロシアの喪失はドイツ国民をいちじるしく刺激したので、ヒンデンブルク将軍を新司令官とし、フランス正面から6個師団を東部に回した。ここに史上最大のタンネンベルクの会戦が8月31日に起こった。」ロシア軍は5個師団を全滅され、サムソノフ将軍は自殺した。ロシア軍の高価な犠牲によって西部戦線のフランス軍は十分に時を稼ぐことができ、マルヌ戦線を失わずにすんだ。数周を待たず、東プロシアに侵入したロシア軍も撃退されたが、南方ではガリシアからポーランドに侵入したオーストリア軍が、ロシア軍に大敗し、9月には全ガリシアがロシアのものとなった。
1914年9月、ドイツ、オーストリア52個師団によるワルシャワ攻撃は成功せず、1カ月の激戦のすえ退却していった。ここでロシア軍は休息を必要としたのだが、フランス、イギリス軍は、ロシアの追撃を要求してやまず、11月ロシア軍はシレジア、ポズナンに向かって攻撃をかけることになった。ドイツ軍は西部からまた14個師団を移動して、ロシア軍に大損害を与えた。
ここでドイツ軍は、戦前の計画を逆にして、先にロシア軍を片づけてしまうことにし、さらに13個師団を東部戦線に振り向け、重砲を集中し、マッケンゼン将軍の指揮のもとに、1915年、東部戦線全線にわたって攻撃し、ポーランド、リトアニア、クールランド、ウクライナ、白ロシアの広大な地域に進出した。この間、フランス、イギリスはドイツ軍を牽制する様な大作戦を一度も取らなかった。わずかにダーダネルス海峡攻撃をかけたが失敗に終わった。
1915年5月のイタリア参戦は事態を何ら改善しなかった。
ドイツ軍の補給路が延びただけ、ロシア軍の補給路は短くなり、外国からの援助もくるようになり、ロシア軍を先に片づけてしまおうとしたドイツ軍司令部の作戦は失敗した。ロシア軍総司令官ニコライ大公の戦線収拾は成功し、リガ、ヴィルナ、ピンスク、タルノーポリの線で防衛戦を安定させた。被占領地の住民を疎開させる仕事はロシア軍にとって大きな負担だった。
開戦最初の10カ月でロシア軍は380万人の兵員を失った。ニコライ大公は、不十分な装備でしか戦えないのと、幕僚の個人的争いに気を腐らしていた。この大公を罷免して、皇帝ニコライ2世みずから全軍の総指揮をとると言いだして、それを実行に移したのは、1915年9月18日だった。
ブルジョアの奮起 戦争の開始とともに、愛国的な民間の運動が起こった。そういう篤志家の動きの中で、最も規模の大きかったのは、モスクワのゼムストヴォの呼びかけに応じて起こった、傷病兵救護のための全ロシア・ゼムストヴォ連合だった。各ゼムストヴォから代表がが出て大会を持ち、会長にはG..リヴォフ公爵(1861-1925)が選ばれた。民間の自発性を喜ばない政府も、目的が目的だけに、許可せざるを得なかった。
続いて中部ロシアの各都市の市会代表が集まって、全ロシア・都市連合をつくって、愛評者にカデットのモスクワ市長チェルノコトフが選ばれた。これも政府は承認した。
これら民間の創意による2団体がモスクワに中心を置いたことは、大きな意味がある。ペトログラートの資本家は権力と直接結びついて、外国資本の導入によって成長した。彼らは専制と共存共栄できたが、モスクワの資本家はロシアの土壌虹力で地位を築き上げた、いわば自立民族資本の担い手だった。モスクワという古い都市が、新興のペトログラートに対して持つ反感も手伝って、ここの資本家は専制に対して批判的だった。
1915年の5月、緒戦の大敗が危機感を巻き起こしたとき、モスクワの資本家リャプシンスキー
全ロシア商工業者代表大会が開かれた席で、ロシア軍の装備はロシアの資本家が自発的に担当しなければならないと熱弁を振るった。愛国的興奮と資本家の使命感の中で民間団体としての戦時工業委員会が結成された。代表に選ばれたのは委員会議長A.グチコーフ(1862-1906)とモスクワの資本家コノヴァーロフだった。彼らにも、戦争は専制政府には任しておかれないという共通の心情があった。
戦時工業委員会は、挙国一致を達成するために「労働者グループ」を付属させて、労働者の代表も参加させることを決めた。ボリシェヴィキは「労働者グループ」に代表を送ることにもちろん反対したが、メンシェヴィキとエスエルは参加した。
ブルジョアの革命本部 ラスプーチンの名で知られるシベリアの馬商人の倅である僧が宮廷に出入りするようになったのは、1905年である。ロシアの典型的な百姓の心情を備えていた彼は泥酔と淫乱の青年時代ののち各地を放浪して加持祈祷をする乞食僧となり、いつのまにか聖者に祭り上げられた。
皇后がラスプーチンを近づけたのは、皇太子の血友病の出血を、ラスプ−チンが止めることができたからだった。皇帝と皇后の異常な信頼を勝ち得たラスプーチンは、高官の人事に関してお告げを提供した。ラスプーチンの知的な低さと粗野を意に介しない出世主義者が彼に取り入って、裏口から皇帝に近づこうとした。そして皇后がラスプーチンを全的に信頼して、彼の意見をモギリョフの大本営にいる皇帝にあてて「私たちの友人」はこう言ってきているという手紙で知らせたことも事実である。
しかし、皇后とラスプーチンがドイツのスパイに踊らされて、ドイツと単独講和を結ぼうとという説は、根拠がない。第2次大戦によってドイツ外務省の文書がごっそり連合軍の手に入って、綿密な調査がなされたが、そこでわかったことは、宮廷を通じての講和の陰謀は、どれも成功しなかったということだった。っそれなら、ロマノフ王朝は、その内部的腐敗から自然崩壊し、その立役者がラスプーチンであったという「伝説」はどこから起こったのだろうか。
ごく最近になって、ドイツ外務省の文書とか、ロシア革命で亡命した有力政治家の回想記とかから、この「伝説」の発信地がほぼ確定した。
1928年に出たソ連の革命史料集「クラスヌイ・アルヒーフ」の第26巻に「人民救助委員会作戦命令第1号」というのが載っている。これはグチコフ文書の中で発見された。命令は12の項目からなり、その第1項は、戦争は二つの戦線で戦われていることを認めることをいうのである。一つはドイツであるが、もう一つは内敵である。この内敵に勝たないかぎり外敵に勝てないことを認めねばならないというのである。人民救助委員会の最高司令部は10人からなり、その中核はリヴォフトグチコフとケレンスキーだと書いてある。
そういうブルジョアの秘密組織があることをドイツのスパイが発見し、本国に伝えた。ドイツ外務省はそれをスイスのレーニンに教えたレーニンが二月革命もってブルジョア革命とし、早く次のプロレタリア革命を起こさなければならないことを「四月テーゼ」で説いたのは、ブルジョアの革命本部とその活動を知っていたからだろう。
戦うブルジョア ロシアのブルジョアは、戦争に勝つためには自分たちが主導権を取らねばならないと思った。それにはゼムストヴォやあ市会に値を持った民家案団体と黒海とを根拠地として、責任内閣制にしなければならないと考えた。そのためせいふにたいして、責任内閣制を作るようにあらゆる機会をとらえて要求した。彼らの武器は議会の演壇と印刷物だった。それはある程度政治を理解し、字の読めるミドルクラスをとらえた。軍部にも役所にも同調者をつくることができた。口から聞いたことしかわからない労働者や農民も、ムードとしての反宮廷、反専制政府を吹きこまれ、結果としては見料一般への不信を植えつけられることになった。
9月6日、ゼムストヴォ大会の前夜に、モスクワ市長チェルノコフ邸に、民間団体と国会の代表、リヴォフ公爵、グチコフ、ミリュコーフ、コノヴァーロフらが集まって、専制政府に戦争担当能力がないことを宣伝するため、宮廷に「黒いブロック」があってドイツと通じているとのデマをまき散らすことが決定された。彼らは民間の中の流言飛語のなかで、最も有効なものを選定したのだった。
11月1日に国会が開かれると、ミリュコーフは、「革命の開始」といわれた有名な演説を国会でやった。ミリュコーフの考えでは、国会外の民間団体の政府攻撃は邪道で、国会こそ政府の最終の批判者でなければならなかった。国会に権威を持たせようという彼の意図が、彼の演説を激しくしてしまった。
ミリュコーフは、スイスの新聞に載った、ドイツとの単独講和がある方面から進められているという噂を取り上げた。暗に宮廷と皇后とを攻撃し、「何ということだ。これは愚劣なのか、反逆なのか」と繰り返し問うた。国会は騒然とした。
「政府が勝利をもたらすとは信じられなくなったというミリュコーフに「そうだ」というかけ声が応じた。だが、ミリュコーフの見た記事は、実はドイツ外務省がスイスに配置したスパイから出ていたのだった。
ラスプーチンは誰かに消されねばならなかった。その役を引き受けたのは、皇帝に姪の配偶者であるユスーポフ公爵である。彼の父がモスクワ知事を辞めさせられたのは、ラスプーチンの差し金だと決めこんだ母親の怒りが、若い公爵を決心させた。
ユスーポフ家の地下室に、12月10日、ラスプーチンは招待された。毒物を入れた馳走と酒を十分に「饗応」されたが、ラスプーチンは平気だった。これまでと思った公爵がピストルを4発ラスプーチンの腹に撃ちこんだ。ラスプーチンは野獣のように吠えながら会談を這い上がって庭に出た。公爵はここでやっと息の根を止め毛布にくるんで、ネヴァ川に投げこんだ。死体はやがて発見されてヴイボルグ陸軍病院で検屍を受けた。検屍官は、肺内に吸いこまれた多量の水をを見て死因は水死であると診断した。1916年のことである。 |
二月革命
革命が始まった 内相のプロトポポフは
革命の宮殿
ニコライ2世の退位 1917年6月、ペトログラードで第一回労兵ソビエト全国大会が開かれた。それに参加した代議員は1000人を超したが、ボリシェヴィキはわずか105人だった。大会で演壇に立ったレーニンは、すべての権力をソビエトで掌握すべき時が来たこと、そしてボリシェヴィキは国の運命に対する責任をわが手に引き受ける用意があることを強調した。しかし、大会の決議は、は臨時政府の政策を引き続き支持していくというものだった。大会で選ばれたソビエト中央執行委員会ではメンシェヴィキとエスエルが過半数を占めたのだ。
連立政権軍事相になったケレンスキーは6月18日、攻撃命令を出したが、それは準備不足の攻撃だったため、18日間に将兵6万の戦死者を出すというの手ひどい敗北に終わった。専制崩壊から5カ月経ったというのに、国民の生活は少しもよくならなかった。国内で経済、農地の荒廃が続き、民衆は飢えに苦しんだ。臨時政府に対する不平不満が強まった。
7月3日、機関銃連帯の兵士が軍用車両でソビエト中央執行委の本部になっていたタヴリード宮殿に乗りつけた。翌日さらに5万を超す労働者や兵士が同宮殿に押しかけた。彼らは全員、中央執行委の代表に対し、ソビエト権力の樹立を要求した。だが、メンシェヴィキとエスエルの代表は、労兵代表との交渉を引き延ばしながら、その間に臨時政府側とひそかにデモ隊鎮圧について話し合っていたのである。ケレンスキーの命令で、北方戦線から臨時政府に忠実な士官候補生やコサック部隊が呼び戻された。7月4日、彼らはデモ隊に向けて発砲し、約400人の死傷者が出た。
二重権力が終わった。メンシェヴィキとエスエルに支えられた臨時政府は全権力を一手に収めた。メンシェヴィキ・エスエルのソビエトは臨時政府の忠実なイヌに成り下がった。ケレンスキーは陸海軍相兼任のまま首相になった。彼は反革命勢力すべての鎮圧令を出した。全土にわたって逮捕の風吹き荒れた。ボリシェヴィキ党の有力なメンバーが多数捕らえられた。
臨時政府はレーニンの逮捕令を出した。ペトログラート軍管区司令官ポーロフツェフ将軍はレーニン特捜隊を組織し、見つかりしだい撃ち殺せと命じた。士官候補生は3たびレーニンの住まいを急襲したが、無首尾に終わった。レーニンは党中央委の勧告で非合法状態の移り、数日間ペトログラートに潜伏したのち郊外のラズリフにある老党員エメリヤーノフのもとに身を寄せた。
ラズリフの住人は草刈り人夫としてフィンランド人を雇った。エメリヤーフ
はこのしきたりを活用することにした。彼は草刈り場を賃借し、そこに藁葺き小屋を建て、そこにフィンランド人の草刈り人夫をよそおったレーニンを住まわせた。口ひげと頬ひげを剃りとって、フィンランド人の百姓すがたになったレーニンを本物と見分ける者は誰もいなかった。エメリヤーノフの2人の息子が食べ物や新聞を届けた。そこへは彼の同志であるボリシェヴィキ党の中央委員が密かに訪ねてきた。ラズリフ海岸のわら小屋はちょっとした革命本部となったのである。秋になり、レーニンは労働者イワーノフの仮名でフィンランドに入った。
1917年7月末にペテルブルクで第4回ボリシェヴィキ党大会が半合法裏に開かれた。レーニンは大会には出席できなかったが、彼と連絡をとっていた同志を通して必要な指示を出した。大会は、ブルジョア独裁が敷かれた以上、革命を平和的に進めることは不可能と、認めた。政府は人民と武力以外では話し合わないことがわかった。人民はこの挑戦を受けざるをえなくなった。ボリシェヴィキ党大会は反革命の政府を倒すため武装蜂起の準備に取りかかった。
レーニンの帰国 スイスのチューリヒにいたレーニンが、ロシアに革命が起こったことを新聞で知ったのは、3月15日(ロシア暦の3月2日)だった。彼は早速ロシアに出発するボリシェヴィキに電報を打った。「われわれの戦術、新政府への完全な不信任、いかなる支持もふか、ケレンスキーはとくに疑わし、プロレタリアの武装が唯一の保証、ペトログラート市会の即時選挙、他の政党へのいかなる接近も不可、このことをペトログラートへ打電せよ」
ここにレーニンが多年主張してきた革命理論が圧縮されている。ボリシェヴィキ党だけが、武装蜂起によって権力を奪取せねばならないのだ。それにブルジョアの秘密革命本部の存在を知らされていたレーニンにしてみれば、その中枢であるケレンスキーの入っている政府は、どんなに偽装したところでブルジョア政府だ。人民が武装蜂起して皇帝政府を倒したいまこそ、精鋭の革命家による権力奪取のチャンスではないか。
レーニンとしては何としてもロシアに行きたかった。スイスの社会主義者でインターナショナリストであるF.ブラッテンが、捕虜交換の名目でドイツを通過し、北欧経由でレーニンをペトログラートに送ってもいいというドイツ政府の申し入れを伝えたとき、レーニンはすぐ承諾した。いかに封印されて祖国に帰るにしても、帰ってからドイツのスパイと言われる恐れは十分ある。
レーニンは、おそらくブラッテンがドイツ外務省の諜報員だったことを知っていたのだろう。敵がこちらを利用するのと、こちらが敵を利用するとどちらが大きいかの計算っした上この決断はなされたと思う。途中、ストックホルムに寄ったとき、ドイツ外務省の公使ヒュールステンベルクと会って、同地にいるマルクス主義者グスタフ・マイヤアー博士のアドレスを通じて、「あるシンパ」から莫大な金をボリシェヴィキに定期的に貰うことを約束したのも、同じ計算から出たのだろう。
4月2日、ペトログラートのフィンランド停車場に降り立ったレーニンは、かんげいにやってきたソビエト議長チヘイゼの挨拶に応えず、取り囲む兵士や労働者に演説した。
レーニンが指導者でなしに大衆に向かったのは単なるゼスチュアではない。その時点では、すべての指導者は、ボリシェヴィキも含めて臨時政府支持だった。大衆の中にだけ、革命人民の政府をつくろうという動きがあった。
二月革命が起こったとき、ペトログラートにいたボリシェヴィキは、ほとんど虚をつかれた格好だった。党のペトログラート市委員会は、2月初めに全員逮捕され、党中央委員会のロシア・ビューローがわずかに残っていた。政治犯の釈放で市委員会が戻ってきた。戦争と臨時政府に対してどういう態度をとるべきかについて、彼らの間の意見は分かれた。ビューローのシリャーブニコフ(1884-1937)、モロトフ(1890-1989)は教条主義的に戦争反対、臨時政府反対を唱えていたものの、市委員会は戦争には反対だったが臨時政府に関してはソビエトに同調していた。市委員会が逮捕されたあと、それに代わって活動していたヴイボルグ地区委員会が最もラジカルであり、戦争反対は当然、さらに臨時政府の武力打倒を訴えていた。彼らがとくにラジカルだったのは、工場地区であっただけでなく、そこがアナーキストの根拠地だったからだ。
3月14日にシベリアからスターリンとカーメネフ(1883-1937)が戻ってきてから、ボリシェヴィキは、さらに右寄りになった。党機関紙プラウダの編集局に入った彼らは、臨時政府の条件付き支持を言い出したばかりか、「戦争をやめろ」のスローガンさえ降ろしてしまった。
「四月テーゼ」 4月4日、レーニンはボリシェヴィキのソビエト代表の集会に姿を現した。代表たちは、スターリンの発議でメンシェヴィキと合同しよとしていたのだ。れーにんはそれを食い止めようとして演壇に立った。彼は提案を要約して「四月テーゼ」として読み上げた。テーゼは、まず戦争についての態度から始まる。
革命的祖国防衛というのは、資本家の政府ではありえない。いま革命的防衛戦争がありうると思っているのは、労働者や兵士がブルジョアに騙されているのだ。根気よく労働者や兵士に、いまの戦争は帝国主義戦争で、資本家の利益にしかならないことを説明しなければならない。とくに前線の兵士によく分からせ、戦争をやめてドイツ軍兵士と交歓するようにさせることだ。
ロシアにいまブルジョア臨時政府ができているのは、プロレタリアの自覚と組織が不足しているためだ。ブルジョアが横取りした権力を、こんどはプロレタリアと貧農の手に奪い返さねばならない。革命の第一段階は終わってこれからは第二段階にはいるのだ。
臨時政府をいっさい支持してはならぬ。彼らの約束はみなウソだ。
エスエ(社会革命党)やメンシェヴィキはブルジョアのとりこになって、プロレタリアを取り込もうとしているが、わが党は違う。わが党はまだ少数派だ。この事実を認めることだ。現在、可能な政府の形は露ウッド雨者ソビエトだけだ。大衆が臨時政府を信じている誤りから抜け出させるために大衆みずからが経験から学ぶようにさせねばならぬ。「全権力をソビエトに」の宣伝が必要だ。
議会共和国ではなく、全国におよぶ労働者と雇農と貧民のソビエトだ。警察、軍隊、官僚の廃止、官吏はずべて選挙され、いつでも代えることができるものとし、俸給は熟練労働者の平均賃金を超えぬこと。
農業綱領では、雇農ソビエトに重点を置く。
すべての地主所有地の没収。すべての土地の国有化。土地の処理を雇農、農民ソビエトに任せる。
すべての銀行を一つの全国的銀行に統一し、労働者ソビエトで統制する。
生産と分配のソビエトによる統制。
党大会を召集し、綱領を改め、党名を変えること。
新たな革命的インターナショナルの創立。
大多数の聴衆はレーニンが長いこと国外にいたため、ロシアの事情をよく飲みこめないのだと思った。
4月6日のペトログラート党委員会は、レーニンのテーゼを13対2で否決した。4月8日のプラウダ紙でカーメネフは、四月テーゼはレーニンの個人的見解であると書いた。しかし、レーニンは孤立しなかった。4月14日のペトログラートのボリシェヴィキの全市会議は、臨時政府を非難し、「全権力をソビエトへ」を呼びかけるレーニンの提案を37対1で可決した。
きわめて短期間にレーニンがボリシェヴィキの多数派になったのは何によるのか。もちろnレーニンの器量にもよるが、流刑地から帰ってきた旧党員の多くが、レーニンの武装蜂起論を、メンシェヴィキの自然発生追随に対して守っていた硬派であったことにも寄ろう。さらに、急速に党員を増やしつつあった党に、「四月テーゼ」の国家と官僚の否定に魅せられたアナーキストが加入したことにも寄ろう。リアリストのレーニンに対してはめずらしいロマンチシズムがそこにあったのだ。
臨時政府の最初の危機 臨時政府に代表されるブルジョアと、ソビエト荷台表される人民との最大の争点は戦争だった。ブルジョアにとって革命は戦争を有効に行なうための清掃手段である。人民にとって革命は戦争と飢餓からのがれるための救いであるべきだった。
3月14日にソビエトが出した「全世界の諸国民へ」のメッセージ以後、ソビエトと政府とは戦争について争い続けた。ソビエトにすれば、無併合、無賠償の社会主義路線をはっきりさせたかったし、臨時政府の方は連合国に応援して貰いたいから、ツァーリ政府が決めた併合と分割を認めることを主張しなければならなかった。政府とソビエトで話し合ってお互いの主張を認めるとなると、政府声明は戦争に関してきわめて歯切れの悪いものにならさるをえない。
外相としてミリュコーフは、連合国にそこのところを明確にしなければならなかった。また明確にすることで、彼自身の代表するブルジョアの真意を伝えたかった。
4月18日のミリュコーフ覚え書きはそういうものだった。それは3月27日づけ政府の「戦争目的に関する声明」のブルジョア的解釈を示したものだった。
この声明の調子が解釈の新しい空気を示しているからといって、連合の戦争におけるロシアの役割を弱めるもおではない。
4月20日の新聞に覚え書きが発表されると、ペトログラートの街頭にはたちまち兵士と労働者のデモが流れ出した。「ミリュコーフを倒せ」のスローガンが、次第に「臨時政府を倒せ」のスローガンと交替するようになった。
ペトログラートのソビエト執行委員会はその調停者としての性格をはっきりさせた。臨時政府に対しては覚え書きの取り消しを要求する一方、デモ隊に対しては冷静になるよう訴え、各部隊には執行委員会の許可証なしに街頭に出ないよう指令した。
[臨時政府の基本方針]専制は倒れた。ブルジョアはいまこそ、自分の思うように効果的な戦術を駆使して戦争に勝たなければならない。社会主義者は戦争に熱心でない。彼らが革命をさらに押し進めてブルジョアを追い出そうとしたり、戦争をやめさせようとしては困る。革命に歯止めをかける必要がある。これが臨時政府の政策であった。同政権の意向を忠実に示すのは、3月6日に出された臨時政府第1回宣言である。
宣言は、臨時政府が1905年の革命で皇帝からかちとった「十月宣言」のデモクラシーの正当性を印象づける。民主的な国会が専断と絶対主義によってゆがめられてしまったのだ。「旧政府に理性の声を聞かせようとする一切の試みはむだになり、敵によってわが祖国が引きこまれた世界戦争のなかで、旧政府は道徳的に腐敗し、人民から離れ、祖国の将来に無関心になり、崩壊に瀕した。銃後の混乱にあえぎながらも、前線で示した軍隊の英雄的奮戦も、困難に直面して一致した人民代表の訴えも、以前の皇帝と政府を人民と一致させることができなかった。ロシアがその支配者の違法な致命的行為で、最悪の事態になったとき、国民は権力を自らの手に奪いとらなければならなかった。事態の重大さを察知した人民の革命的熱狂と国会は、臨時政府を生み出した」
臨時政府はデモクラシーの象徴である国会によっているから合法だと言いたげだが、国会は停止されていたし、全議員が出席したわけでないから、実は違法である。それを政府として成立させたのは、ソビエトをバックアップする蜂起した人民である。革命が合法的であると言いたいのは、旧政府がはじめた戦争に対して、今の政府も法的に責任があると言いたいからだ。宣言は続く。
「臨時政府は、旧体制への戦いのなかで人民が示した愛国心が、戦場における兵士諸君を元気づけることを信じる。政府は、戦争を勝利に終わらせるために必要な一切をわが軍に供給すべく努力するだろう政府は、わが国と連合国との同盟を神に誓って守り、連合国との協定を、ためらうことなく果たすであろう」 ブルジョアにとって連合国との同盟は、戦争に勝つための資金や軍需品の導入ルートとしてだけでなく、革命の歯止めの支柱としても必要だった。戦争さえ勝てば、支配の体制は確保される。それまで革命の興奮は抑えなければならない。この宣言では、ソビエトの合法性については一言も述べられていない。
[レーニンの帰国]チューリッヒにいたレーニンが、ロシアに革命が起こったのを新聞で知ったのは、3月15日だった。彼は早速ロシアに出発するボリシェヴィキたちに電報を打った。
「われわれの戦術、新政府への完全な不信任、いかなる支持も不可、ケレンスキーはとくに疑わし、プロレタリアの武装が唯一の保証、ペトログラード市会の即時選挙、他の政党へのいかなる接近も不可、このことをペトログラードに打電せよ」
ここにレーニンが多年主張してきた革命の理論が圧縮されている。ボリシェヴィキの党だけが、武装蜂起によって権力を奪取しなければならないのだ。それにブルジョアの秘密革命本部の存在を知らされていたレーニンにしてみれば、その中核であるケレンスキーのはいっている政府は、彼がどんなに偽装したところでブルジョアの政府だ。人民が武装して立ち上がって皇帝政府を倒したいまこそ、精鋭の革命家による権力奪取のチャンスではないか。
レーニンは何としてもロシアに行きたかった。スイスの社会主義者でインターナショナリストであるF.ブラッテンが、捕虜交換の名目でドイツを通過し、北欧経由でレーニンをペトログラードに送ってもいいというドイツ政府の申し入れを伝えたとき、レーニンは即座に承諾した。いかに封印され、ドイツと連絡の機会をなくして帰るにしても、交戦国の手によってきこくすることは、帰ってからスパイといわれる恐れが十分にある。
四月テーゼ レーニンは帰国前から、「臨時政府をいっさい支持せず、ソビエト権力をめざせ」と国内の同志に書き送っていたが、国内のボリシェヴィキはカーメネフとスターリンの指導のもとに革命的祖国防衛主義に傾いていた。したがって、レーニンの帰国第一声は一部同志から当惑の目で迎えられていた。
レーニンは翌四日、ボリシェヴィキのソビエト代表の集会に姿を現した。集会は、スターリンの発議でメンシェヴィキと合同しようとしていた。レーニンはそれをくい止めようとして演壇に立った。彼は自分の提案を「四月テーゼ」として読み上げた。同テーゼの内容を慨述しよう。
革命的祖国防衛というのは、資本家の政府のもとではありえない。革命的
祖国防衛戦があり得ると思っているのは、労働者や兵士がブルジョアにだまされているからだ。いまの戦争は帝国主義戦争で、資本家の利益にしかなっていないことを説明しなければならない。とくに前線の兵士によくわからせて戦争をやめてドイツ兵と交歓できるようにすることだ。
ロシアにブルジョア臨時政府ができたのは、プロレタリアの自覚と組織とが不足しているためだ。ブルジョアが横取りした権力を、こんどはプロレタリア階級と貧農の手に奪い返さなければならない。革命の第一段階は終わってこれからは第二段階に入る。臨時政府をいっさい支持してはならない。彼らの約束はすべてウソなのだ。
エスエルやメンシェヴィキはブルジョアのとりこになってプロレタリアを取
りこもうとしているが、わが党は違う。わが党はまだ少数派だという事実を率
直に認めなければならない。いま可能な政府は労働者ソビエトだけだ。大衆が臨時政府を信じている誤りから抜け出させるために大衆自らが経験から学ぶよう
にさせなければならない。全権力をソビエトに!という宣伝が必要だ。
議会制共和国ではなく、労働者と農民のソビエト共和国なのだ。警察、軍隊、官僚は廃止し、官吏はすべて選挙され、いつでもリコールできるようにしなけ
ればならない。農業綱領では雇農ソビエトに重点を置いていく。地主の土地は
すべて没収して、すべての土地を国有化する。土地の処理は雇農・農民ソビエトに一任する。
全銀行を一つの全国的銀行に統一し、労働者ソビエトで管理・統制する。生
産と分配もソビエトによって統制する。党大会を召集して綱領を改め、党名を
変える。以上が四月テーゼのあらましである。
レーニンは、革命を完遂できるのは、ボリシェヴィキの独裁のみと信じていた。だから、六月四日の労兵ソビエト第一回全国大会で、「わが党は、いついかなるときでも、全権力を掌握する用意がある」といったのは、決して見えを切ったわけではない。しかし当時、権力を奪取・維持するためには、ボリシェヴィキの力だけでは足りなかった。ここに同盟者として現れたのがアナーキスト(無政府主義者)だった。レーニンにとって彼らほど都合のいい同盟者はなかった。アナーキストは権力を倒すためには働くが、自分では権力は望まない。人民のエネルギーをかきたてることだけに没頭してくれる革命家を、権力だけ
[二重権力の終わり]ソビエトで指導的地位にあったメンシェヴィキとエスエルは、専制君主制の崩壊後のロシアは資本主義の道を進まべきだとして、社会主義革命をめざす行動はしなかった。彼らはソビエトが権力を握ることに望まず、臨時政府の反ソビエト政策を支持した。臨時政府のミリュコーフ外相は、一九一七年四月に連合国のイギリスとフランスに覚え書きを送り、ロシアは戦争を勝利の終結までやめないと誓った。この覚え書きにロシア国民は憤激し、ボリシェヴィキの呼びかけにより四月二一日、一〇万の労兵が口々に「戦争反対」「全権力をソビエトへ」のスローガンをかかげてペトログラード市街をデモった。同年年六月、ペトログラードで労兵代表の第一回大会が開かれ、一〇〇〇人の代表が参集した。大会ではレーニンが演説し、「いよいよ全権力をソビエトの手に掌握するときがきた。ボリシェヴィキは国の運命に対する責任をわが肩に担う用意がある」と宣言した。しかし、大会は臨時政府を支持する方針を続けることを決定した。大会で選ばれたソビエトの中央執行委員会メンバーの大半はメンシェヴィキとエスエルだった。
連立内閣の陸海軍相ケレンスキーの命令により、前線で総攻撃がはじまった
が、それは作戦計画が不備だったためロシアの敗北に終わり、一八日間の戦闘でロシア軍は戦死者六万任を数えた。専制ロシアが倒れて五が月になろうとしていたが、後方では経済の破綻が続き、住民は飢え、農民は土地をうしない、国民は相変わらず貧苦にあえぎ、臨時政府への怒りが頂点に達していた。
七月三日、機関銃連隊の兵士が中央執行委員会とペトログラード・ソビエトが置かれているタヴリード宮殿に車で乗りつけ、数千の労働者があとに続いた。翌日、総勢五万を上回る労兵の大群が次から次へと同宮殿へ殺到した。彼らは
中央執行委員会の指導者に対しソビエト政権の樹立を訴えたが、メンシェヴィ
キとエスエルのボスは、労兵の代表者との交渉をを故意に引き延ばしつつ、ひそかに臨時政府と、デモ隊の検束について話し合っていたのだ。ケレンスキーの命令で北部戦線から呼び戻された将校集団がデモ隊に銃火を浴びせ、多くの死傷者を出した。
二重政権は終わった。臨時政府はメンシェヴィキとエスエルに助けられて、
政権を掌握した。メンシェヴィキ・エスエル集団は臨時政府の従順なイヌに成りさがった。やがてケレンスキーは陸海軍相を兼任したまま首相の座に就いた。彼は、軍隊内で革命的行動に対する鎮圧令を出した。国じゅうに逮捕の波が押し寄せた。ボリシェヴィキの有能な指導者の多くに弾圧が加えられた。
ケレンスキー政府はレーニンの逮捕令を出した。ペトログラード軍管区司令官ポーロフツェフは特捜班長にレーニンを見つけしだい、その場で射殺するよう命じた。特捜班は三たびレーニンの住まいを奇襲したが、いずれも失敗に終わった。ボリシェヴィキ党中央委の決定でレーニンは地下にもぐった。レーニンは数日間ペトログラード市内に潜伏したが、危険がせまったので、ラズリフ(首都北部の郊外)に住む地下活動家、老党員のエメリヤノフのもとに身を隠した。ラズリフの住民は
草刈り用にフィンランド人の季節労働者をよく雇っていた。エメリヤノフはこの習慣に目をつけた。彼は干し草用地として借りた土地にわら小屋を作って草刈り人夫を装ったレーニンを住まわせた。あごひげを剃りおとし、農夫すがたのフィンランド人になりすましレーニンを本物と見破る者はいなかった。食事と新聞雑誌は同じく党員の、エメリヤノフの息子たちが運んだ。ラズリフ海岸沿いのわら小屋は一時的な革命司令部となり、そこへはボリシェヴィキの幹部たちがひそかに訪ねてきた。秋になってレーニンはイワノフの偽名でフィンランドに入国した。
一九一七年七月末、ペトログラードでボリシェヴィキの第四回党大会が開かれたが、レーニンはそれには出席せず、彼と常時連絡のある同志を通じて必要な指示を大会に送った。ロシア国内にブルジョア独裁が確立したのちは革命の平和的は進展が不可能になった。臨時政府が人民に対処するのは、武力手段だけということが判明した。人民側は、こうした武力の挑戦に受けざるの得ない立場になった。ボリシェビキ党大会は反革命政府を打倒するため、武力蜂起の
準備に取りかかる決定をとった。
コルニーロフ反乱 力の論理しかない世界の主人公は、軍人である。最高総司令官コルニーロフは、前線だけでなく後方でも抗命者に対する死刑を復活することを要求するなど、軍隊内での秩序の復活をめざしていた。それを可能にするためには、軍事独裁をも辞さない腹だった。
八月三日、彼は自分の意見書をもって上京し、ケレンスキーと会った。ケレンスキーはコルニーロフのなかにクーデターへの意図を感じとり、警戒心をいだいた。陸軍省総務長官になっていた元エスエルのサヴィンコフは、両者を和解させるためコルニーロフの意見書を書き直して、鉄道と軍需工場に戒厳令を敷き、労働者のストライキを厳禁するという内容の新意見書を作成した。ケレンスキーはこの案を拒絶した。しかしカデットの閣僚はこれの採用を求めてケレンスキーを突きあげた。コルニーロフに対するブルジョアの支持は、その直後開かれた国家会議にコルニーロフが出席した際、強く
誇示された。ケレンスキーは死刑を後方に拡大することの法制化を認めた。しかしモスクワでの成功で自信をつけたコルニーロフはすでに反乱を決意していた。彼は軍隊の首都進撃を命じると共に。ケレンスキーに屈服を要求した。この問題を審議した閣議で、カデットの四閣僚はコルニーロフ支持を表明した。となれば、ケレンスキーがこれと対決するにあたって頼りうるのは、ソビエトだけである。ソビエトは一丸となって、コルニーロフ軍を迎え撃つ態勢を取った。その中核となって力を発揮したのは、ボリシェヴィキだった。二八日、コルニーロフ軍は前進をはばまれ解体され、コルニーロフは逮捕された。ケレンスキーはコルニーロフに替わって自ら全軍の総司令に就任した。
コルニーロフ反乱をカデットが支持し、一方でソビエトが一体となってこの反乱とたたかったという経験から、いまやソビエト権力を求める肥が普遍的になった。メンシェヴィキやエスエルのなかでも、そのような声が強まった。一方で、これまた一段と権威を高めたボリシェヴィキは、単なるソビエト政権ではなく、従来ブルジョアとの連立を進めてきたソビエト右派をのぞいたボリシェヴィキ主導のソビエト左派政権を望んでいた。労兵代議員ソビエトのボリシェヴィキ化が全国的規模で進んだ。九月から十月にかけて多くの都市で勤労者階級へ権力を移すべきだという声が高まった。
[レーニンとトロツキー]労働者と兵士という大衆は権力を倒す力はあっても、権力を維持することはできない。革命は権力を奪取したのち上からの力で行うものだという、革命的ナロードニキ、トカチョーフ(1844-86)によって完成され、レーニンによって引き継がれたロシア革命家の理論は、ロシアの伝統に適合したものだった。しかし専制を倒したのは、デモクラシーのための革命であり、ロシアはデモクラシーに進みつつあるのだという夢をもっている人民が、レーニンの一党独裁を支持するだろうか。
その点でレーニンに疑問をもち、レーニンと別れたのがトロツキーだった。いま、ブルジョア政府の責任者ケレンスキーから権力を奪取するチャンスであることを見抜いた点では、トロツキーはレーニンと同じだが、レーニンよりも
ロマンチックだったトロツキーは、人民のデモクラシーを大切にしたかった。
トロツキーのまわりに集まったインテリも、レーニンのリアリズムが我慢できなかった。ルナチャルスキー、ヨッフェ、ポクロフスキー、カラハンらもそのなかにいた。彼らはボリシェヴィキとメンシェヴィキを統一させようととして、どちらの派にも属さない「地区連合派」なる組織をつくってトロツキーと連絡しあっていた。「地区連合派」は第6回党大会で集団入党し、トロツキーは獄中にいながら中央委員に選ばれた。
トロツキーにしてみれば、いままで「全権力をソビエトへ」という扇動をしてきたのだから、ソビエトが権力をとるというのが、人民革命への夢をもっともスムーズにみたすだろうと考えた。ところがレーニンはこうした考えをあやうんでいた。権力の奪取である蜂起という現実的な活動と、大衆の革命的ムードの盛り上がりというロマンチックなハプニングとを、どうして一点で統一できるか。それは不可能に近いというのだ。 |
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十月社会主義革命
深まる革命 ソビエト主流派が取り組まねばならないのは、戦争と平和の問題だけではなかった。
まず、二月革命により八時間労働日を獲得して工場に戻った労働者は、工場委員会に結集して権利要求を高めていた。これにより経営権をせばめられていく資本家側は、労働者の要求を抑えこむのに必至だった。
他方、農村は、村共同体や郷委員会に結集して、地主経営に圧力を加えはじめ、農村共同体から離脱した個人農の共同体復帰を強制した。もとより土地割り替えへの農民の渇望は強かった。5月に開かれた全国農民大会は、個人農に均等に土地を分配して使わせるという〈土地社会化〉の実現を決議した。村の農民には、この決議は彼らの宿願をすぐにも実現できるものと受け取られた。しかしそうはならず、個人農の不満は増大した。
民族運動のなかでは、ウクライナ人運動のがもっとも強力だった。彼らは臨
時政府に対して、ウクライナの自治、ウクライナ軍の創設、国際会議へのウク
ライナ代表の参加などを要求した。だが、これらの要求は臨時政府、なかでもカデット派の強い反発にあい、何一つ解決されずお蔵入りになった。
前線では引き続きロシア軍の苦戦が続き、兵士のなかに公然たる抗命が起こっていた。前線の兵士でもそうなのだから、ましてや革命的首都の兵士が政府
批判、戦争批判の行動を強めたのは不思議ではなかった。
冬宮襲撃
1917年の9月が到来した。戦争は続いていた。それは毎日天文学的ともいうべき巨額の資金を呑みこんでいった。経済は崩壊し、資本家は大小工場を閉鎖し労働者を首にし、失業者がふえた。臨時政府に対する国民の不満は日を追って増大した。労働者は政権をソビエトに引き渡すよう要求した。農民一揆も頻発し、9月だけで雇用農民が地主所有地を略奪する事件が1000件ほど記録された。兵士が戦うことを拒否するケースがふえた。臨時政府はペトログラードをドイツ軍に手渡してモスクワに撤退しようとしていた。
10月7日レーニンが亡命先のフィンランドからひそかにペトログラードに戻ってきた。彼の提議によりボリシェヴィキ党指導部は武装蜂起の準備を早めることにした。ペトログラード・ソビエトに「軍事革命委員会」が設置された。ソビエト政権をめざす行動を起こすため、「赤衛軍」という名の労働者戦闘隊2万3000、兵士防衛隊15万、バルチック艦隊水兵8万が編成された。全国に編成されたボリシェヴィキ赤衛軍の総数は数百万に達した。
蜂起が軍事革命委員会に決定で開始されたのは、25日の午前2時からだった。駅、橋、発電所、電話局が少数の兵士によって占拠された。兵は動いたが、労働者は街頭に出てこなかった。工場は操業をつづけていた。赤衛軍の一部が
部隊についていただけだった。
ケレンスキーは、前線から兵をつれて帰るため、冬宮から脱出していた。その他の閣僚のいた冬宮が降伏したのは、26日の午前2時だった。はじめ、士官学校生、女性部隊らで守られていた「政府軍」は2000人くらいいたのだが、次第に減って半数ほどになった。午後になってボリシェヴィキの頼みとするクロンシュタットの水兵2000人が到着して、やっと包囲が完了し、アウローラ号から2発の命中弾が冬宮に落ちて、降伏の話し合いがついた。
ソビエト国家の誕生 十月蜂起の日々に全土から労農兵代議員地方ソビエト
の代表が第2回全露ソビエト大会に出席するため続々ペトログラードに集まってきた。まだ冬宮手有家銃撃が行われている最中に10月25日の夕方、同ソビエト大会が開かれたのである。レーニンは蜂起の指揮をとっていたため大会には出席していなかった。大会でメンシェヴィキとエスエル右派は、臨時政府に対する武装蜂起を非難する演説をした。大会の過半数が彼らの言動n憤慨すると、彼らは会場をあとにして立ち去った。エスエル左派と少数のメンシェヴィキは会場に残った。
25日の午後11時に開かれた大会では、ルナチャルスキーがレーニンの書いた大会宣言を代読した。
「圧倒的多数の労働者、兵士、農民の意志により、またペトログラードで行われた労働者と守備隊による蜂起の勝利により、大会は権力を掌握し、臨時政府は打倒され、閣僚の多くは逮捕された。
ソビエト権力は全人民の即時の民主的平和と全前線の即時休戦を提案する。ソビエト権力は、地主、皇室、修道院の土地を無償で農民委員会の処理にゆだねることを保証し、兵士の権利を守り、軍隊の完全な民主化を実現し、労働者の生産管理を確立し、憲法制定会議の適時召集を保証し、都市にパンを配給し、農村に生活必需品を配給することを配慮し、ロシアに住む全人民に真の自決権を保証する。
大会は、地方の全権力を労働者、兵士、農民のソビエトに移すことを決定する。ソビエトは真の革命的秩序を保証しなければならない。
大会は、塹壕の兵士に警戒とがんばりを呼びかける。
ソビエト大会は、新政府が直接全人民に提案する民主的平和を締結するまで、革命軍が帝国主義のあらゆる侵害から革命を守ることを確信する。新政府はあらゆる手段をとり、有産階級の徴発と課税の断固たる措置によって、革命軍に必需品を保証し、兵士の家族の状態を改善する。
コルニーロフは軍隊をペトログラードに送ろうとしている。ケレンスキーにだまされて出動した部隊のあるものは、蜂起した人民の側に移ってきた。
兵士諸君、コルニーロフ派のケレンスキーに断固抵抗せよ。警戒を怠るな。
鉄道従業員諸君、ケレンスキー軍の軍用列車のペトログラード進入を許すな」
エピローグ
希望の人キーロフ 農村の集団化の非人間的な進め方に、党のなかに反発が起こったのも当然である。イルクーツクの農民の子で、小学校の教師をしたことのある党員で、当時モスクワ、バウマン区で党書記をしていたリウチンが最初の声を上げた。彼は1931年から32年にかけて秘密の綱領を書いた。それはスターリンの人物についての攻撃も含んでいた。復讐と権力欲に飢えたこの悪の天才を取り除かないかぎり党も国も回復できないという。
リウチンはただちに逮捕された。スターリンは、これは自分に対する暗殺計画だから、リウチンを死刑にするよう主張した。政治局と中央委員会にこの問題が出されたとき最も強く反対して、多数の支持を得たのがセルゲイ・キーロフ(1886-1934)だった。
キーロフは1904年来のボリシェヴィキで、十月革命のときはカフカスにソビエトをつくり、1921年に中央委員となり、14回党大会ではスターリン派であり、ジノヴィエフに代わってレニングラートの党書記となり、反スターリン派を押さえた。1930年から政治局員となった。きわめて有能なばかりでなくトロツキ−以後はじめての雄弁家で、人選の的確さは定評があった。
1932年はかつてない食糧不足だった。とくに穀倉地帯の収穫が悪かった。それはひどく不条理な集団化の結果だった。この食糧危機で500万から600万の生命が失われた。農民の政府に対する感情はひどく悪化し、クロンシュタットの反乱直前を思わせた。
スターリンには退いてもらわねばならないというのが、党員のなかに起きた気持ちだった。多数の意向はそれだけでは力にならない。それを人間的信頼によって結集できる器量のある人物が現れてはじめて、有効な勢力となる。キーロフはまさに、時代によって選ばれた希望の人だった。
1933年に開かれた17回党大会は転機だった。多くの反対派は流刑地や強制収容所から呼び出された。右派もジノヴィエフやカーメネフも党大会で発言が許された。党の統一は回復されるとみんな思った。ブハーリンは、党大会で激しいナチ攻撃をやり、作家大会では、人間性の擁護を叫んだ。人びとを捉えた人間性への郷愁は、ブハーリンを政府機関誌イズヴェスチヤの編集長に返り咲かせた。17回党大会は、スターリンに書記長をやめさせ、書記局にキーロフを入れた。キーロフと緊密に結んで党の統一をすすめたのは、オルジョニキーゼとクイブィシェフだった。
1934年11月25日から28日まで開かれる中央委員会幹部会は、とくに重要だった。ここではキーロフの提案で大改革が行われるはずだった。
キーロフに対する第1回の暗殺が企てられて失敗したのは、この幹部会に彼が出ようとした夜である。キーロフに恨みを持つという青年ニコラエフ某がピストルをもって、スモールヌイの党本部の廊下をうろついていたところを逮捕された。その同じニコラエフ某がどうしてか釈放され、「偶然に」警備員がいなかったとき、幹部会から帰ってきたキーロフを射殺したというのである。
幹部会の決定のうち経済に関することは発表されたが、政治に関することは、ついに発表されなかった。ニコラエフ某を逮捕したレニングラートの公安警察署長は、スターリン直属の「特別秘密公安政治局」の指令で赴任した人間だった。この組織がのちの大粛清の企画本部となった。その責任者だったエジョーフは、かつて帝政時代に警察のスパイだった前歴を隠していた。スターリンはその秘密を握りながら彼を自由に動かしたのである。
党員を政治的見解の相違だけで死刑にすることはできないが、殺人となれば話は別だ。キーロフの殺害をリウチンの計画だとすれば、リウチンと関係した者はすべて殺人罪にすることができる。
大粛清 人民に対する弾圧を少しでも軽くするようにというキーロフの発議で1934年に悪名高いGPU(ゲー・ペー・ウー、国家政治保安部の略)は廃止された。しかし、それに代わったNKVD(エヌ・カー・ヴェー・デー、内務人民委員部の略)は、GPU以上に恐ろしかった。それは一般警察と政治警察を統合し、さらに刑の執行をも行うものであった。これが大粛清の実行機関となるのである。
キーロフの殺人犯はただちに処刑されたが、その男がジノヴィエフ派だったというので、ジノヴィエフとカーメネフがその年に逮捕された。それぞれ10年、5年の重労働の判決を受けた。
1935年に、スターリン、エジョーフ、ジュダーノフ、シキリャートフ、ヴィシンスキーからなる公安委員会がつくられ、徹底的な「捜査」に乗り出した。その結果、1936年8月に「トロツキー・ジノヴィエフ・テロリスト・センター」の裁判が始まった。この事件は反乱罪だというので、軍法会議で裁かれることになった。ジノヴィエフとカーメネフは再び法廷に呼び出された。彼らはトロツキーの指令で、「陰謀の拠点」をつくっていたことを「自白」した。かつてのトロツキーの仲間が多く有罪となった。その「自白」によって、37年1月から「反ソ・トロツキー・センター」の裁判が始まった。これはピャタコグが「主犯」だった。ソコルニコフ、ラデックも被告席にすわった。彼らもトロツキーの指令で「反ソ・トロツキー・センター」をつくってスターリンを殺し、社会主義国家を帝国主義国に売り渡す陰謀を行ったかどで有罪となった。多くはレーニンの死後トロツキーと共同行動をとった党員である。
1938年に第3次「右翼・トロツキー・反ソ・フロック」の裁判が始まる。いままでトロツキーの仲間だった左派が多く告発されたが、今度は残っている反対派全部ということで、右派が多かった。最高の理論家ブハーリン。前首相ルイコフ、中国革命の政治顧問ボロージン、外交官カラハン、コシオール、チュバール、等々すべて有罪となり、多くは銃殺された。その間にオルジョニキーゼ、メンジンスキー、クイブィシェフらは不明の死をとげた。ヨッフェ、トムスキーらは自殺した。最後の裁判では、NKVDの長官ヤーゴダも処刑された。粛清は被告以外に広がり、17回党大会の中央委員140人のうち、残ったのはわずか15人だった。
粛清はロシアの共産党員ばかりか、コミンテルン(共産主義インターナショナル)に来ていた外国人党員にまで及んだ。ドイツ共産党員M.ヘルツ、H.ノイマン、ハンガリー共産党のベラ・クーン、ポーランド共産党中央委員のほとんど全員が殺されるか、強制収容所に送られた。日本人でも、党員の山本懸蔵と留学中の医師国崎定洞が行方不明になった。
粛清は赤軍にも及んだ。37年6月、最高の地位にあったトハチェフスキー元帥が逮捕、処刑された。同時に赤軍首脳だったブトナ、コルク、ヤキール、ウポレヴィッチ、エイドマン、プリマコフ、フェリドマン、ディペンコ、エゴーロフ、ブリュッヘルなどの将軍が粛清された。裁判官に加えられたガマルニク将軍は、トハチェフスキーの無罪をスターリンに訴えて聞かれず自殺した。赤軍8万の現役将校のうち3万が粛清された。
34年から4年間に逮捕され訊問を受けた者は800万人に及んだ。自白を強要するために、さまざまな方法がとられた。入れかわり立ちかわり尋問者が現れ、1週間も2週間も続いた。また、家族を人質にして屈服させたりした。公開裁判では、百戦錬磨の革命戦士が唯々諾々と「罪状」を自白した。
トロツキーから指令を受けたという被告らの自白の信憑性はどうか。トロツキーの息子セドフと被告コルツマンが会ったと称するコペンハーゲンのブリストル・ホテルは、1917年に取り壊されていた。セドフは、コペンハーゲン
でなくベルリンにいたのだ。ピャタコフがトロツキーに会いにオスローに飛行機で行ったというが、その前後数ヶ月間、オスロー空港に民間機は着陸していない。
37年3月、デューイを長とする知識人・ジャーナリスト合同委員会の審査は、トロツキーを無罪と判定した。しかし、スターリンは無罪にしなかった。トロツキーの秘書の恋人になりすましたスパイ、ジャクスンことラモン・メルカデルは、メキシコのトロツキーの書斎で、彼の脳天にピッケルを深く打ちこんだ。血は机の上の書きかけの原稿「スターリン伝」を赤く染めた。トロツキーは病院に運ばれて1日を生きて死んだ。1940年8月21日だった。
(2001.3.11脱稿)
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