マフノフ運動の結末 |
(最新見直し2006.9.3日)
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
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【1917年ロシア10月革命までのウクライナの動き】 |
当時ウクライナは、タムボフ・ペンザ県、西シベリアと並ぶ3大穀倉地帯であり、都市の飢餓を解決する上で重要な位置を占めていた。そのウクライナでこれから考察するマフノ運動が発生する。 1917年のロシア2月革命により皇帝が退位した。この機運に乗じてウクライナの中心地キエフに「中央ラーダ」(「評議会」)が結成された。中央ラーダは、ロシヤの革命後の臨時政府軍を破り自治国を維持した。中央ラーダは、2月の段階でウクライナ人の大多数の支持を得ていた。7月から始まったウクライナ大部隊の編成によって、中央ラーダは軍事的にもウクライナで最強だった。同9月、エスエル系の地区ソビエト権力が確立された。この状態で10月革命を迎える。 1917.3.1日、民衆はモスクワ最大のトゥイルキ監獄におしよせ、政治囚を解放した。足伽をたたきこわしてもらった囚人たちは、獄衣をぬぎすて、下着だけになって、正門からおぼつかない足どりを踏み出した。その人々の中に、8年8カ月この監獄に閉じ込められていたマフノビチナ(以下、単にマフノと記す)もいた。2月革命によって自由の身になったマフノ(Nestor Ivanovich Makhno l889〜1934)が刻む破天荒な歴史の検証が本サイトの眼目である。 ここでマフノの履歴を寸評しておくことにする。 マフノは、ウクライナのエカチェリノスラフ県グリャイ・ポーレ村(現在サポロージェ州)に農民の子として生まれた。7つの時から村の農民の羊や牛の番人として働き、その後あちこちの地主の領地やドイツ人の植民村なぞで小作人として働いた。受けた教育はほんの初等教育だけで、しかもその村の小学校にたった一年通ったにすぎない。 ロシヤの民衆は伝統的に農民戦争の指導者スチェンカ・ラージンとプガチョーフの伝承を語り伝えてきた。この他にも、富者から奪い、貧乏人を助ける多くの義賊(ブラゴロードヌイエ・ラズボーイニキ、ホブズボームのいうノーブル・バンディット)が愛されてきた。1905年革命のさい、金持を略奪した革命家の中からも、フォークロアの世界の主人公即ち義賊とされた者があったことが知られている。現代ソ連の民族学者ソコローヴアによれば、1905年に「土地と自由」と書いた赤旗をかかげてウラルの村や町に出没したエスエルのルボーフとその「森の兄弟」にかんする伝承が1963年にウラルのヴィシーム地区で採集されたとのことである。ウクライナは伝承を受け継ぐ土地柄であった。 マフノはこうしたロシア義民伝説に影響を蒙りつつ成長していった。1905年革命の翌年1906年、17歳の時、無政府主義運動に加わり、その翌年無政府主義テロリストとして警察や商人、富豪への襲撃に加わり、グウライポリエ村の一憲兵と数名の警察官とを暗殺し、1908年、逮捕された。死刑の宣告を受けだが、未丁年のため終身懲役に減刑された。そして爾来1917.3.1日まで服役していた。この獄中生活の間に、独学で歴史や自然科学や政治学や文学を学んだ。 釈放されるや、獄中で親しくしていた同じエカチェリノスラフ県出身の労働者アナーキスト、ピョートル・アルシーノフと別れて、ただちに、故郷のグリャイ=ポーレへ向かった。 マフノは、帰ってきた義賊としてグリャイ=ポーレの農民に迎えられた。以降、 マフノは、この地域の民衆の運動を燃え上らせた。地方ソヴィエトや労働組合を組織して、村の農民や労働者の間に働いた。エスエル系の農民同盟の地区委員会をつくり、この議長となり、また頼まれてグリャイ=ポーレ金属工・木工組合の責任者ともなった。当然ながら、アナーキスト・グループを再建した。彼は農民同盟の代表として、地域の権力主体であった社会委員会に入っていたが、8月初めの県ソビエト大会の決定で、従来の農民同盟を農民ソビエトに改組することとなって生まれたグリャイ=ポーレ農民・労働者ソビエトの議長になった。彼は農民の武装部隊を組織し、グリャイ=ポーレを「自由郷」と化した。 8月末、コルニーロフ反乱の前後、マフノの主宰するグリャイ=ポーレ地区土地委員会は、地主地を清算し、農民に均等に分配した。ペンザ県、カザン児などの先進地域につづいて、ここでも農民は自立的に土地を闘いとった。農民たちは、マフノを新しいスチェンカ・ラージン、プガチョーフとみるようになった。マフノはこうして農民革命運動の中心人物となった。 マフノビは、彼を評した大杉栄が激賞する理想政治を行った。まず各村に自由に選挙されるソビエトを組織し村を自治支配させた。旧来の地主の土地は没収され農民に分配された。農民はあるいは個的にあるいは共同でその土地を耕した。ドン河付近にいるコサック兵の干渉に対しては、村々の大会で選抜された若干名ずつのパルチザンを動員しマフノ軍として闘った。彼らは危険が過ぎると各村に帰って仕事に戻った。マフノ軍の大部分はこうした農民によって組織され、その糧食は農村から支給された。 問題は、このようなマフノ政治に対して、ロシア10月革命で政権を掌握したボルシェヴィキ政府が如何に対応していくことになったかにある。レーニン、トロツキー、スターリンの三者間抗争は知られているが、彼らは、マフノら無政府主義運動弾圧と云う意味では同じ穴のムジナであったことは知られていない。ロシア10月革命のみならず、いわゆるマルクス主義運動が地上のどこにでも果たした無政府主義運動弾圧史は銘記されるべきである。 |
【1917年の動き】 |
ウクライナにおける十月革命は、ドンバスの革命拠点を先頭として展開された。ルガンスク、ゴルロフカ=シチェルビノフカ地区、ドルシコフカ、クラマトルスク、グコフカ、マケーエフカなどでは、ソビエトは既に革命派の手中にあり、首都革命に続いて各地にソビエト権力が樹立された。中央ラーダによるウクライナ権力の掌握は、ウクライナ各地のソビエトの大多数によって承認された。キーエフ、ハリコフ、エカチェリノスラフ、ニコラーエフ、オデッサというウクライナ五大都市のソビエトの動向を見ても、キーエフ・ソビエトが全ウクライナ・ソビエト大会による中央ラーダの改組を条件として中央ララーダの権力を承認した以外は、特別の条件なしに中央ラーダの権力を承認している。各地の権力については、キーエフとニコラーエフのソビエトが市ソビエト権力樹立の方針をとったが、それ以外は、市会や中央ラーダ地方機関などとソビエトの連立権力樹立となった。 同10月、ソヴィエト議長マフノとグリャイポーレ無政府主義グループによって地主のすべての土地が没収される。 同11月初め、ウクライナでは、中央ラーダを主権力とし、革命派ソビエトを第二権力とする独特の二重権力状態が生まれた。革命派ソビエトの中央ラーダとの関係は微妙であった。中央ラーダとソビエトの関係は言葉の上からも微妙で複雑だった。そもそも、ウクライナ語で「ラーダ」とは、ロシヤ語の「ソビエト」のことであり、「全権力をソビエトへ!」は、ウクライナ語では「全権力をラーダヘ!」を意味する。そこへ別組織革命派ソビエトが生まれたことは、反ラーダ的ソビエトとして創設された事を意味する。全ウクライナ・レベルでは中央ラーダの権力を認めるものが多かった。 11月、中央ラーダは「第三次宣言」を出して、「ウクライナ人民共和国」の独立宣言を発した。「ウクライナ人民共和国」樹立宣言は、「平等で自由な諸民族の連邦」であるロシヤの一員としての「国」であることを宣言していた。宣言によると、ウクライナとは、キーエフ、ポドリスク、ヴォルイニ、ポルタヴァ、チェルニーゴフ、ハリコフ、へルソン、エカチェリノスラフ、タヴリーダの九県を意味した。宣言はさらに、地主・皇室・修道院・教会の土地私有権即時廃止、8時間労働日即時実施、「生産に対する国家統制」の即時実施、大赦、裁判所改革、地方自治強化などの改革の実施を宣言した。宣言はまた、「和平交渉即時開始」を中央政府を通じて敵味方に迫り、ウクライナ居住諸民族の自由を保証し、国内外でウクライナ民族の権利を擁護することを約束した。宣言は最後に、ウクライナ憲法制定会議選挙をおこない、同会議を1918.1.9日に召集すると宣言した。 |
ソビエト自体の内部にも中央ラーダの勢力があった。例えば、2月中旬のキーエフ・ソビエト執行委改選の結果、兵士選出委員の構成は、ウクライナ・エスエルおよびウクライナ社民党16、エスエル6、メンシェヴィキ3、ボリシェヴィキ5となった。キーエフ・ソビエト兵士部会は中央ラーダ派に掌握された。ハリコフ・ソビエトでも、2.5ー9日の部分的改選の後、中央ラーダ派が代議員の1割を占めた。 11月の全ロシヤ憲法制定会議選挙のウクライナでの結果は、1、ウクライナ人諸派、2・その他民族諸派、3・自由主義諸派、4・ボリシェヴィキ、5、エスエル、6・メンシェヴィキという順に票を獲得していた。キーエフ、ヴォルイニ、ポドリスク、ポルタヴァの四県でウクライナ人諸派が過半数。チェルニーゴフ、エカチェリノスラフ両県でもほぼ半数。ハリコフ県では、ウクライナ・エスエルとロシヤ・エスエルのブロックが過半数。へルソン、クヴリーダ両県だけでエスエルが過半数をとっている。キーエフ、ヴォルイニ、ポドリスク、ポルタヴァ、タヴリーダの五県では、ボリシェヴィキの得票はとるに足りない。ウクライナ人諸派の強い県では概してボリシェヴィキが弱かった。 |
【1918年の動き】 | |
1918年はじめ、グリャイ=ポーレではマフノの指導で旧地主領に四つの農業コミューンがつくられていた。ほぼ10家族、成員は100〜300人程度のものであった。マフノは、そのうちでもっとも大きなコミューンで、週のうち二日は働き、のこり四日はアナーキスト・グループの活動と地区革命委員会での仕事にあてるという生活をしていた。コミューンに入らぬ一般農民とコミューンとの関係は良好であった。 ウクライナ・ラーダが支配を広げようとしてグリャイ=ポーレを抑えにかかると、マフノたちは、「社会主義」の名において、同1月、ウクライナに攻めこむボリシェヴィキ軍の支援にまわった。1918.1月、激戦の末、中央ラーダ政府はキエフから追い出された。 ところが、中央ラーダ政府はドイツ軍と対立し始めた。ウクライナの大地主たちは中央ラーダ政府の革命的な土地改革を危険視していて、またドイツ軍もウクライナを確実な自分たちの支配下に置きたいと考えていた。そのため両者(民族主義者・オーストリア軍)は結託してクーデターを起こし、1918.4月、総裁政府を樹立した。中央ラーダ政府は解散させられた。地区ソビエトも崩壊した。外国軍は、例のブレスト・リトウスクのボルシェヴィキ政府との条約のもとに、ウクライナに軍政を布いた。 マフノは初期のアピールの中で次のように訴えている。
マフノ軍は、タガンログやロストウやツアリスティンの各地を走り回り広大な地域を支配した。反革命軍や外国軍と頑強に戦いながら、また猛烈に地主らとも戦った。そして瞬く間に、地主どもの数百の家を襲い、また数千の敵軍を倒した。マフノの大胆不敵と、その神出鬼没の行動と、その軍略的才能とは、敵軍の非常な恐れと憎しみとを加えるとともに、ウクライナの民衆には非常な喜びと力とを与えた。マフノ軍のこの先例と成功とはさらに各地の小パルチザン軍を続出させて、僅か7名人の小団体から出発したものがその年の暮には4、5千人の大軍隊となった。マフノは総大将と仰がれた。 |
【1919年の動き】 | |
ロシア10月革命で政権を握ったレーニン、トロツキー率いるポルシェヴィキ革命政権は、ウクライナに目をつけ、軍事割当徴発による過酷な穀物収奪を採用した。農村での階級闘争が特に強調され、クラークが槍玉に挙げられた。ロシア共和国では早々に挫折した貧農委員会の指揮の下にウクライナでの穀物調達が実行され、ロシヤ以上にそれは暴力的であった。 帰ってきたウクライナのソビエト政権は、2.11日付法令で、甜菜プランテーション、酒造工場用プランテーションの土地を農民に分配することを禁じた。地主や資本家的富農の土地をすべて農民に均等に分配するのではなく、そのかなりの部分を集団農場組織のためにあてることにし、地主や富農の農場から持ち去られた馬や牛、機械などを取り戻すことさえ定められた。要するに、農民が自主的にすすめた農民革命の成果に介入し、それを取り上げようとした。
更に、食糧独裁令に基づく土地収容革命を敷こうとした。ネストル・マフノー、アルシーノフ、ヴォーリンらアナキスト指導者はどう対応したか。2月、第2回グリャイ=ポーレ地区兵士・労働者・農民大会は、土地問題の解決は、エスエルが「土地社会化と定式化した方式でやれる、すべての土地を勤労農民の手中に移せ」と主張した。一般決議は、「ロシヤとウクライナのソビエト政権が、自らの命令や法令によって、なにがなんでも地元の労働者・農民ソビエトから自由と自主活動を取り上げようとしている」と指摘し、ホリシェヴィキ共産党が左派エスエル、アナーキストを弾圧するのに抗議している。「自分たちで、地元に、暴力的な命令を無視して新しい自由な社会をつくる」。めざす方向はそのように明らかにされた。 マフノはモスクワとの共同戦線に従いながら、社会革命についての思想は譲らなかった。モスクワ政府が派遣した代表者の権威を認めなかった。既に彼ら自身の地方ソビエトがあり、数県にわたる全地方の革命委員会があり、またソビエト連合の大会もあった。現に彼らがその独立を始めて以来、1919.1、2、4月の三たびこの大会が催された。4月の第三国大会がグリャイ=ポーレで開かれたとき、師団長ドゥイベンコはこれを「反革命」とよび、大会組織者を「法の保護の外におく」と宣言した。マフノ軍側が激しくこれに反発したことはいうまでもない。 7.27日、アレキサンドリアに近いセントヴォ村で、革命的パルチザンの大会が開かれた。マフノはグリゴリエフをその大会に招いた。そしてその席上、彼の反革命的罪悪をあばいて、ピストルの一撃のもとに彼を殺してしまった。 8.5日、この方針には、マフノが、へルソン県ドプロヴェチコフカで発した「命令第一号」が対応する。マフノは、「われわれ革命軍と各反乱者の任務は一切の隷属からウクライナの勤労者を完全に解放するために誠実に闘うことである」と述べ、農民からの一切の略奪、没収、ユダヤ人に対する暴行、略奪をかたくいましめた。
この「命令第一号」に、敵の規定がある。民族の別なくすべての「富裕なブルジョワ階級の人間」とともに、「ブルジョワ的不正秩序を守護する者、すなわち、都市や村を巡回し、彼らの恣意的独裁に服従することをのぞまぬ勤労人民を苦しめるソヴェートのコミッサール、懲罰隊、チエカーの隊員」も「勤労人民の敵」と宣言されている。反乱者、すなわちマフノ軍の兵士は、この後者をみつけ次第、「逮捕して、軍司令部に連行し、抵抗すれば、その場で射殺しなければならない」。 9月半ば、マフノ軍は、キーエフ県ウマーニの町の近くにたどりついた。月末、彼らは四方からヂェニーキン軍に包囲された。いまやヂェニーキン軍は、東はヴォルガ川、カスピ海から、西はドニエストル川にいたる南ロシヤ全域を支配しており、最短距離のコースを通って、モスクワへ進撃することに全力をあげていた。マフノ軍をここでひねりつぶせば、後方は完全にかためられるはずであった。 9.26日、デニキン軍はオレルまで進んでいって、モスクワをまでも脅かそうとしていた。マフノは、これまでの退却は戦略的なものであったと宣言し、これより攻撃に移るとの命令を発した。向きを変えたマフノ軍は、マフノ軍はそのあとを追うてきたデニキン軍とペレゴノフカ村に一大決戦を試みた。ペレゴノフカの敵主力を死闘の未にやぶり、以後ヂェニーキン軍の後方を破竹の勢いで突き破っていった。四カ月間の退却行の血と涙のしみ込んだウクライナの地を西から東へ、一カ月でかけぬけたマフノ軍は、10.23日、カスピ海のほとりマリウポリを解放した。ヂェニーキンのいる大本営まで、八〇ヴエルスタの地に迫ったのである。 マフノ軍は、マリウポリを一日しか維持できなかったが、10.28日にはエカチェリノスラフを解放し、40日間ここにとどまった。エカチェリノスラフを中心として、マフノのアナーキスト的農民共和国が生まれることになった。11月、マフノ軍支配(赤軍構成部隊として)。1919年の終りの二カ月間つづいたこのマフノと農民の世界は、1920.1月に赤軍を迎えることになる。赤軍は、1.1日、エカチェリノスラフを占領し、6日、アレクサンドロフスクを占領した。アレクサンドロフスクをあけわたしたマフノ軍とここを占領した第一四軍第四五師団は友好的に話しあった。マフノ軍側は、自分たちは共通の敵との闘争のために一定の地域を占拠することに同意する、政治問題については別個に交渉をもちたいと表明した。 東から迫ったコルチャークと南からのヂェニーキンというブルジョワ=地主的反革命の二つの中心をようやくにして打ちたおした、この時点で、革命派の和解と協力は、人々の願いであったといえよう。だが、事態はそのように進まなかった。 |
【1920年の動き】 | ||
1920.1月、赤軍支配。この後、九か月の間、マフノ軍が短期的断続的に支配。 1920.1.7日、マフノ軍は、ウクライナ革命反乱軍(マフノヴィスト)軍事革命評議会・総司令部の宣言を発した。この宣言は、マフノ軍が「ブルジョワ=地主権力」と「ボリシェヴィキ=共産党的独裁」の双方からウクライナの勤労者を完全に解放し、「真の社会主義的秩序」を創出することを目標としていると明らかにしている。 もっとも、宣言は目標を掲げただけで、実際には漸次的にしていた。ヂェニーキン軍のすべての法令はただちに撤廃されるとしながら、ソヴェート政権の法令については、「農民と労働者の利益に反する」ものを撤廃すると区別していた。どの法令がそのようなものだということになるかを決めるのは、村会や工場の勤労者自身でなければならないとしていた。 地主地の没収や工場・鉱山を労働者階級全体の所有に移すこと、政党代表をのぞいて労働者と農民だけの自由ソヴェートをつくること、言論、出版、集会、団結の自由を保障すること、とならんで、「チェカー、党委員会や類似の強制的、権威主義的、規律保持制度は農民・労働者の間においては許されない」という一項目がある。マフノ軍とボルシェヴィキ軍は、ブルジョワ・地主的反革命のヂェニーキン軍を打ちやぶる闘いに於いて共同戦線化していたが、和解していなかったことが判明しよう。 1.8日、第14軍司令官ウボレーヴィチは、マフノに対し、ポーランド軍とたたかうため、アレクサンドリヤから北上し、チェルニーゴフを通って白ロシヤのゴメリへ移動し、第12軍の指揮下に入れとの命令を発した。この命令を受けとり、それに従って発した指示を翌1.9日の12時までに報告せよと書かれていた。この命令は、ウボレーヴィチが第45師団長ヤキールに語ったように、むしろマフノが拒否することを予期した「一定の政治的マヌーヴアー」にすぎなかった。 マフノは、農民パルチザンをその根城、根拠地から切りはなすこの命令に答えなかった。1.9日、全ウクライナ革命委員会議長ペトロフスキー他の名で、マフノを「脱走兵、裏切者として法の外におく」と宣言する決定が下された。次のように記されていた。
南部方面革命軍事評議会のメンバー、スターリンがこの決定をすべての部隊が遵守するよう添書きしている。こうしてマフノ軍に対する赤軍の攻撃がはじまった。
この頃、ボリシェヴィキ革命軍は、反革命軍、自衛軍との闘いに勝ちつつあったが、辛勝というよりも傷だらけの勝利であったといわねばならない。二年余の共同闘争にもかかわらず、労働者と農民の関係は激しい対立の様相を呈しつつあった。 南部ではマフノの農民軍が広大な地域を支配しており、キエフ近郊ではゼリョーヌイ率いる農民反乱が起こった。黒海沿岸のオデッサには、フランスの援助を受けたデニキン将軍による反革命派の「ロシヤ義勇軍」が上陸。1920.5月にはポーランドのピウスツキ将軍がキエフを一時占領した。ウクライナでは、1920年春から夏にかけて、マフノ軍と赤軍は激突していた。しかしながら、秋になると、ふたたび、ヴランゲリ将軍のひきいる反革命軍がクリミア半島よりウクライナに侵入し、9.19日には、アレクサンドロフスクをおとし、9.28日にはマリウポリを占領した。マフノ軍の本拠地はいまや地主的反革命の軍事支配のもとにおかれた。この事情が三度マフノ軍と赤軍との協力への歩みよりを可能にした。 このころ赤軍第12軍革命軍事評議会が出した「政治的指示」(9.24日付)をみてもわかるが、赤軍側は、「ヴランゲリこそロシヤ反革命の最後の支柱であり」、これをたおせば、マフノフシチーナの一掃に有利な条件が出来ると考えていた。 「匪徒活動とマフノフシチーナは、うちつづく内乱によびおこされ、ヴランゲリの白衛軍によって意図的に利用されている現象である。ヴランゲリが消えれば、マフノも消えるのである」。であればこそ、ヴランゲリをたおすのに、マフノの力も利用できれば、それにこしたことはなかったのであろう。 9月末、マフノ軍側と赤軍側の間で交渉がはじまり、10月上旬のハリコフでの会談で、話がまとまって、ウクライナ共和国政府代表ヤーコヴレフ、赤軍南部方面軍司令官フルンゼとマフノ軍代表クリレンコ、ポポーフとが10.15日、政治協定と軍事協定に調印した。 これまで深刻な対立があったからこそ、このようなととのった協定がとり結ばれなければ、一切の共同行動は考えられなかったのである。そして、この協定の内容は、赤軍側、ソヴェート権力側からの明らかなる譲歩であった。その意味では、マフノ軍の側でも、永続的な協定、協力がありえないことを、もはや十分承知していたであろう。 ともあれ、この協定のもと、マフノ軍と赤軍の共同反攻がはじまった。10月、マフノ軍支配(赤軍構成部隊として)。11月のはじめには、両軍は、ヴランゲリ軍をペレコープ地峡にまで追い込んだ。そこからマフノ軍は凍った海をわたり、ヴランゲリ軍の背後をついた。ヴランゲリ軍は総くずれとなり、赤軍はクリミア半島に進出した。11.16日、赤軍はケルチを解放して、南部戦線は消滅した。 束の間の協力もこれで終りであった。翌11.17日の命令の中で、フルンゼは、マフノ軍を第4軍の指揮下に入れ、カフカースに転戦させるとの方針を示した。これは、農民軍をその本拠から切りはなす考えに発するもので、1920.1月の手口がくりかえされようとしていた。11.23日付でマフノに出されたフルンゼの指令というものがある。これは、対ヴランゲリ戦終了にかんがみ、マフノ軍を正規軍に完全編入するように提案している。マフノ軍を第4軍に編入し、解体再編は第4軍の革命軍事評議会に委ねるとの内容である。マフノ軍側の史書は、この指令はついに伝達されず、のちに発表されたものだと主張している。26日付のフルンゼの決定的な命令には、23日の要求の内容として、暴行を働いたパルチザン部隊の解体再編の要求のみがあげられているにすぎない。 その同じ不満が、1920年の夏以降、中央部ロシヤでも、伝統的農民革命の中心地タムボフ県で、一大農民反乱を顕在化させていた。8月、カメンカ村でおこった勤労農民同盟の反乱は、1905年革命当時、略奪行動に加わっていたテロリストで、エスエルに入ったアントーノフを指導者として急速に拡大し、年末には、タムボフ全県の農村部から、ソヴェート権力と共産党組織を完全に一掃するにいたっていた。反革命との闘いに勝つまでは、と抑えに抑えてきた、穀物徴発政策に対する農民の不満が一時に爆発した。「平等、友愛、自由の名における人馬の解放」をスローガンにかかげる、この農民戦争を前にして、ソヴェート権力は、さしあたり施すすべがない状態であった。この他、農民反乱は、ヴォルガ沿岸地方から西シベリアにもおこっていた。 |
【1921年の動き】 | |
至るところで穀物の割当徴発制に農民の不満は向けられていた。1921.1月、エセーニンがその農民の苦しみをリアルに歌った詩、「穀物の歌」を書いたとき、彼は国中にひびきわたる反乱の叫びを代弁していた。 この深刻な危機に、レーニンは、ついに、政策の転換を決意した。彼は、エセーニンの「穀物の歌」が発表された1921.2月、穀物の割当徴発制より食糧税制への移行を求める人々の声に同調することに踏み切った。翌月、クロンシュタット要塞の水兵の反乱と同時にひらかれた第一〇回共産党大会は、この政策転換を決定した。その決定を大義名分として、その決定を力として、反乱する農民への総攻撃が開始された。ウクライナでも、タムボフ県でも、西シベリアでも、ドラスティックな鎮圧作戦が進められていった。 4月には「最近ウクライナの運輸を根本から解体し、未曾有の大量の担ぎ屋が溢れている。特にウクライナに隣接するヴォロネジ、クルスク、ゴメリ、さらにはトゥーラ県から、多くの個々の担ぎ屋、様々な組織は、ロシヤの食糧組織と県執行委の通行許可証を持っている」、「緊急措置が執られないなら、担ぎ屋の波は、ウクライナの主要な穀物諸県での調達活動と、軍隊とドンバスへの供給を最終的に崩壊させる」など、ウクライナ共産党中央委から再三このような非組織的穀物獲得を停止させるようにとの要請が出されたが、5月末にはゲー・ペー・ウー議長によって、ウクライナでの穀物調達活動がこれらの組織によって完全に解体されたことが確認された。ロシヤの飢餓民によって、ウクライナにある余剰はこうして、すっかり汲み出されたのであった。 やがて、キエフのボルシェヴィキによる「ソヴィエト・ウクライナ政権」が内戦を勝ち抜いていき、1922年、ウクライナはソヴィエト・ロシヤやベラルーシなどと連合したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に組み込まれることになった。名目上はウクライナはロシヤと対等な共和国であったが、実質的にウクライナは再びロシヤの支配下に入ることになった。この内戦で国土は荒廃、飢饉で100万人近くが餓死した。しかしウクライナ人にとっての試練はむしろこれからであった。 レーニンは、「ネップ」後も、マフノ軍の掃討作戦を行った。ボリシェヴィキ政権・赤軍は、マフノ運動賛同者を、最終的に老若男女ほぼ皆殺しにした。それとともに、飢餓の救援をしないという意図的な餓死政策を採った。餓死500万人中、レーニンによる意図的な政策的餓死数は、250万人という研究文献もある。ウクライナにたいするレーニンらの政策については、梶川伸一が、2006年7月、ソ連崩壊後のアルヒーフ(公文書)に基づき、初めて検証した。 ウクライナ化政策が功を奏しはじめる一方で、そのころソ連の首都モスクワでは、ソ連の中央集権国家化を目指す独裁者、スターリンが登場する。彼はウクライナ化政策を推進してきたウクライナ共産党を、民族主義的偏向を犯したとして強く非難した。そして1930年代のスターリンの「大粛清」の時代には、彼はソビエト連邦の全土において、自分に反対する者(潜在的なものも含めて)を容赦なく虐殺していった。ウクライナ化政策を進めていたウクライナ共産党員も指導者、一般党員も含めて全体の37%が1930年代末までに処刑され、粛清の対象は、富裕農民(クラーク)、知識人、牧師、そしてやがては一般人にまで及んだ。密告が密告を呼び、政治警察である内務人民委員部(NKVD)によって罪のない人々が処刑されたり、強制収容所に送られたりした。この時期、ソ連全土で1000万人以上がスターリンの粛清の犠牲者となった。(このときにウクライナで粛清を指揮していたのは、後のソ連共産党書記長フルシチョフであった) 一九二一年の夏、マフノは数個師団の赤軍騎兵にとりかこまれてルーマニアの国境にまで追われ、ルーマニア政府のために武装解除されて投獄され、危うくモスクワ政府に引き渡されようとしたが、一九二二年の春ルーマニアをのがれ出て、こんどはポーランドの官憲に捕えられた。
これは、1・ドイツ・オーストリア占領軍とのパルチザン戦争。2・白衛軍、デニキン軍との戦闘、後退→総突撃。3・ボリシェヴィキ赤軍との2回の共闘。マフノ軍は、マフノがアナキストでありながら、主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因だった。但し、軍事人民委員トロツキー・ウクライナ赤軍司令官フルンゼは、マフノ軍との2回の共闘時に意図的に武器・弾薬の供給を怠った。4・ボリシェヴィキ側からの3回の攻撃との戦闘となった。果敢にたたかい、赤軍に3万人の死者という損害を与えた。マフノ運動は、これら3つの勢力と複雑で臨機応変な戦闘をした。3つの勢力との戦争で、マフノ軍は最大時5万人以上にもなった。 マフノ反乱の首都、マフノグラートと呼ばれたグリャイポーレは4年の間に17回、一方、「ウクライナ人民共和国」の首都キエフは3年の間に14回支配者が変わっている(「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」の首都はハリコフ)。 同12月、ロシヤ共産党第八回協議会で、ウクライナのボリシェヴィキを代表したヤーコヴレフは、ウクライナの農民について、次のように述べた。
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【マフノ運動史考】 |
マフノ農民軍は、ドイツ軍撤退の後、ウクライナ農民の代表としての立場を堅持し、ウクライナ民族派のペトリューラ(1879〜1926)の軍、白衛軍のデニキン、ヴランゲリの軍との戦闘においては、ボリシェヴィキと協力したが、のちに1919年から20年にかけてはソヴィエト政権の穀物徴発政策をめぐってボリシェヴィキと厳しく対立するようになった。この点、(1)タンボフ県のアントーノフの反乱や、(2)同じウクライナのゼリョーヌイ(縁)の反乱と同じ性格をもっている。 1919年後半の最盛期にはマフノは5万人以上の勢力を擁し、ウクライナ農民の強い支持を受け、<パチコ(父)>の愛称で呼ばれた。20〜21年のマフノ軍とソヴィエト軍の戦闘は凄惨をきわめ、双方に数万の犠牲者を出した。21年夏、マフノはソヴィエト軍に追われてルーマニア国境を越え、パリに亡命。34年病死するまでパリで妻と娘とともに亡命生活を送り、ペール・ラシューズ墓地に葬られた。3巻の回想録(1929−36)をはじめとしていくつかの著作がある。マフノを題材にした小説、歴史書などもある。日本では大杉栄による紹介(《無政府主義将軍ネストル・マフノ》1923)以来知られている。 一方、ハプスブルク帝国支配下のガリツィア地方も、1918.11月、独立して「西ウクライナ人民共和国」を成立させる。しかしガリツィア地方にはウクライナ人だけでなくポーランド人やユダヤ人も住んでいた。ポーランド人は戦後に復興したポーランド国家への併合を主張し、ウクライナ人との間に熾烈な民族紛争を展開。しかし結局、ポーランド側には本国からピウスツキ将軍率いる援軍がやってきて、ガリツィアはポーランド領となってしまう(1921年のリガ条約で正式に確定)。内戦で混乱しているウクライナからは援軍は来なかった。 内戦終結後、ウクライナではウクライナ共産党(ウクライナ国内のボルシェヴィキ)の指導下において、「ウクライナ化」政策が行われた。これはウクライナ一般人民とソヴィエト・ウクライナ政府を一体化させようとするもので、具体的にはウクライナ語による教育、公務員へのウクライナ人の採用などである。それまでウクライナ社会の上層階級のほとんど、および都市部はロシヤ人が多数派であり、ウクライナ人のほとんどは貧しい農民で、政治面では局外者だったのである。 マフノビチナとは、要するに、ロシア革命を僕らのいう本当の意味の社会革命に導こうとした、ウクライナの農民の本能的な運動である。マフノビチナは、極力反革命や外国の侵入軍と戦ってロシア革命そのものを防護しつつ、同時にまた民衆の上にある革命綱領を強制するいわゆる革命政府とも戦って、あくまでも民衆自身の創造的運動でなければならない社会革命そのものをも防護しようとした。マフノビチナは、まったく自主自治な自由ソヴィエトの平和な組織者であるとともに、その自由を侵そうとするあらゆる敵に対する勇敢なパルチザンであった。そして無政府主義者ネストル・マフノはこのマフノビチナのもっとも有力な代表者であったのだ。 二 ロシアの民衆は、その革命によって、まずツァーの虐政と地主や資本家の掠奪とからのがれ出た。しかしこの旧主人からの解放は、革命のただの第一歩というよりもむしろ、その下準備にすぎなかった。[四十七字欠] が、旧主人が倒れるか倒れないうちに、すでにもう、新主人の自選候補者どもが群がり集まってきた。火事場泥棒の山師どもの群が、胡麻の蝿どもが、四方八方から民衆の上に迫ってきた。権力を追うあらゆる傾向あらゆる色合いの政治狂どもがおのおの民衆の上に自己の党派の覇権を握ろうとしてきた。みんなできるだけ革命的な言葉を用意して、民衆の自由や幸福のためと称して、民衆対主人の内乱の中に入ってきた。
四 五 かくのごとくマフノおよびマフノビチナのロシア革命における功績は実に偉大なものであった。ヨーロッパ・ロシアのほとんどあらゆる反革命軍と外国侵入軍とは大部分彼らの手で逐い払われた。彼らなしにはボルシェヴィキ政府の確立すらもほとんど考えられないくらいだ。彼らばかりではない。ロシアの多くの無政府主義者はあるいはボルシェヴィキと手を携えあるいは独立して革命の成功のために働いた。もっとも熱心にそしてまたもっとも勇敢に戦った。 六 しかるにロシアの無政府主義者らは、革命のためのその絶大な努力に対してなにを報いられたか。 しかし僕の目的は、かくしてロシア革命における無政府主義者の功績を並べたてることではない。またこの無政府主義者に対するボルシェヴィキ政府の悪辣と残虐に泣き言を並べたてることではない。僕はただ、ボルシェヴィズムと無政府主義とがその本質においてどう違うかを事実の上で見たいのだ。そしてその上になお、[四十五字欠] 七 さすがにボルシェヴィキは炯眼であった。彼らは最初から、ボルシェヴィズムと無政府主義とが相反するものであることを知っていた。社会主義的権力と民衆的革命とがとうてい一致することも調和することもできないものであることを知っていた。そして彼らはしばらくもそれを忘れることをしないで、実はその敵である無政府主義者や民衆をただの革命の初期における旧勢力の破壊にもっとも有力なものとして利用することに努めた。 |
(私論.私見)