マフノフ運動の結末

 (最新見直し2006.9.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 宮地健一氏の「共産党問題、、社会主義問題を考える」の「マフノ運動とボリシェヴィキ政権との関係 共闘2回とボリシェヴィキ政権側からの攻撃3回」が、マフノ運動を検証している。興味深い内容であり、れんだいこはこれを学ぶことにする。
 マフノ運動は、「ウクライナの悲劇」として歴史に登場する。日本では、1923年、大杉栄が、いち早く「無政府主義将軍ネストル・マフノ」を著しており、当時のボリシェヴィズム礼賛一辺倒の左派運動にあって、水準の高い見識を示している。その大杉栄が関東大震災の混乱時に虐殺された。大杉有りせば、その後の左派運動に染み付いた陰運動は防げたかもしれず、日本左派運動の大いなる損失となった。正力松太郎派がテロったが、かえすがえすも残念な国益的損失であった。その大杉氏ののマフノ論を下敷きにする。

【1917年ロシア10月革命までのウクライナの動き】
 当時ウクライナは、タムボフ・ペンザ県、西シベリアと並ぶ3大穀倉地帯であり、都市の飢餓を解決する上で重要な位置を占めていた。そのウクライナでこれから考察するマフノ運動が発生する。

 1917年のロシア2月革命により皇帝が退位した。この機運に乗じてウクライナの中心地キエフに「中央ラーダ」(「評議会」)が結成された。中央ラーダは、ロシヤの革命後の臨時政府軍を破り自治国を維持した。中央ラーダは、2月の段階でウクライナ人の大多数の支持を得ていた。7月から始まったウクライナ大部隊の編成によって、中央ラーダは軍事的にもウクライナで最強だった。同9月、エスエル系の地区ソビエト権力が確立された。この状態で10月革命を迎える。


 1917.3.1日、民衆はモスクワ最大のトゥイルキ監獄におしよせ、政治囚を解放した。足伽をたたきこわしてもらった囚人たちは、獄衣をぬぎすて、下着だけになって、正門からおぼつかない足どりを踏み出した。その人々の中に、8年8カ月この監獄に閉じ込められていたマフノビチナ(以下、単にマフノと記す)もいた。2月革命によって自由の身になったマフノ(Nestor Ivanovich Makhno l889〜1934)が刻む破天荒な歴史の検証が本サイトの眼目である。


 ここでマフノの履歴を寸評しておくことにする。 マフノは、ウクライナのエカチェリノスラフ県グリャイ・ポーレ村(現在サポロージェ州)に農民の子として生まれた。7つの時から村の農民の羊や牛の番人として働き、その後あちこちの地主の領地やドイツ人の植民村なぞで小作人として働いた。受けた教育はほんの初等教育だけで、しかもその村の小学校にたった一年通ったにすぎない。


 ロシヤの民衆は伝統的に農民戦争の指導者スチェンカ・ラージンとプガチョーフの伝承を語り伝えてきた。この他にも、富者から奪い、貧乏人を助ける多くの義賊(ブラゴロードヌイエ・ラズボーイニキ、ホブズボームのいうノーブル・バンディット)が愛されてきた。1905年革命のさい、金持を略奪した革命家の中からも、フォークロアの世界の主人公即ち義賊とされた者があったことが知られている。現代ソ連の民族学者ソコローヴアによれば、1905年に「土地と自由」と書いた赤旗をかかげてウラルの村や町に出没したエスエルのルボーフとその「森の兄弟」にかんする伝承が1963年にウラルのヴィシーム地区で採集されたとのことである。ウクライナは伝承を受け継ぐ土地柄であった。


 マフノはこうしたロシア義民伝説に影響を蒙りつつ成長していった。1905年革命の翌年1906年、17歳の時、無政府主義運動に加わり、その翌年無政府主義テロリストとして警察や商人、富豪への襲撃に加わり、グウライポリエ村の一憲兵と数名の警察官とを暗殺し、1908年、逮捕された。死刑の宣告を受けだが、未丁年のため終身懲役に減刑された。そして爾来1917.3.1日まで服役していた。この獄中生活の間に、独学で歴史や自然科学や政治学や文学を学んだ。

 釈放されるや、獄中で親しくしていた同じエカチェリノスラフ県出身の労働者アナーキスト、ピョートル・アルシーノフと別れて、ただちに、故郷のグリャイ=ポーレへ向かった。 マフノは、帰ってきた義賊としてグリャイ=ポーレの農民に迎えられた。
以降、 マフノは、この地域の民衆の運動を燃え上らせた。地方ソヴィエトや労働組合を組織して、村の農民や労働者の間に働いた。エスエル系の農民同盟の地区委員会をつくり、この議長となり、また頼まれてグリャイ=ポーレ金属工・木工組合の責任者ともなった。当然ながら、アナーキスト・グループを再建した。彼は農民同盟の代表として、地域の権力主体であった社会委員会に入っていたが、8月初めの県ソビエト大会の決定で、従来の農民同盟を農民ソビエトに改組することとなって生まれたグリャイ=ポーレ農民・労働者ソビエトの議長になった。彼は農民の武装部隊を組織し、グリャイ=ポーレを「自由郷」と化した。

 8月末、コルニーロフ反乱の前後、マフノの主宰するグリャイ=ポーレ地区土地委員会は、地主地を清算し、農民に均等に分配した。ペンザ県、カザン児などの先進地域につづいて、ここでも農民は自立的に土地を闘いとった。農民たちは、マフノを新しいスチェンカ・ラージン、プガチョーフとみるようになった。マフノはこうして農民革命運動の中心人物となった。


 マフノビは、彼を評した大杉栄が激賞する理想政治を行った。まず各村に自由に選挙されるソビエトを組織し村を自治支配させた。旧来の地主の土地は没収され農民に分配された。農民はあるいは個的にあるいは共同でその土地を耕した。ドン河付近にいるコサック兵の干渉に対しては、村々の大会で選抜された若干名ずつのパルチザンを動員しマフノ軍として闘った。彼らは危険が過ぎると各村に帰って仕事に戻った。マフノ軍の大部分はこうした農民によって組織され、その糧食は農村から支給された。

 問題は、このようなマフノ政治に対して、ロシア10月革命で政権を掌握したボルシェヴィキ政府が如何に対応していくことになったかにある。レーニン、トロツキー、スターリンの三者間抗争は知られているが、彼らは、マフノら無政府主義運動弾圧と云う意味では同じ穴のムジナであったことは知られていない。ロシア10月革命のみならず、いわゆるマルクス主義運動が地上のどこにでも果たした無政府主義運動弾圧史は銘記されるべきである。

【1917年の動き】
 ウクライナにおける十月革命は、ドンバスの革命拠点を先頭として展開された。ルガンスク、ゴルロフカ=シチェルビノフカ地区、ドルシコフカ、クラマトルスク、グコフカ、マケーエフカなどでは、ソビエトは既に革命派の手中にあり、首都革命に続いて各地にソビエト権力が樹立された。中央ラーダによるウクライナ権力の掌握は、ウクライナ各地のソビエトの大多数によって承認された。キーエフ、ハリコフ、エカチェリノスラフ、ニコラーエフ、オデッサというウクライナ五大都市のソビエトの動向を見ても、キーエフ・ソビエトが全ウクライナ・ソビエト大会による中央ラーダの改組を条件として中央ララーダの権力を承認した以外は、特別の条件なしに中央ラーダの権力を承認している。各地の権力については、キーエフとニコラーエフのソビエトが市ソビエト権力樹立の方針をとったが、それ以外は、市会や中央ラーダ地方機関などとソビエトの連立権力樹立となった。

 同10月、ソヴィエト議長マフノとグリャイポーレ無政府主義グループによって地主のすべての土地が没収される。

 同11月初め、ウクライナでは、中央ラーダを主権力とし、革命派ソビエトを第二権力とする独特の二重権力状態が生まれた。革命派ソビエトの中央ラーダとの関係は微妙であった。中央ラーダとソビエトの関係は言葉の上からも微妙で複雑だった。そもそも、ウクライナ語で「ラーダ」とは、ロシヤ語の「ソビエト」のことであり、「全権力をソビエトへ!」は、ウクライナ語では「全権力をラーダヘ!」を意味する。そこへ別組織革命派ソビエトが生まれたことは、反ラーダ的ソビエトとして創設された事を意味する。全ウクライナ・レベルでは中央ラーダの権力を認めるものが多かった。

  11月、中央ラーダは「第三次宣言」を出して、「ウクライナ人民共和国」の独立宣言を発した。「ウクライナ人民共和国」樹立宣言は、「平等で自由な諸民族の連邦」であるロシヤの一員としての「国」であることを宣言していた。宣言によると、ウクライナとは、キーエフ、ポドリスク、ヴォルイニ、ポルタヴァ、チェルニーゴフ、ハリコフ、へルソン、エカチェリノスラフ、タヴリーダの九県を意味した。宣言はさらに、地主・皇室・修道院・教会の土地私有権即時廃止、8時間労働日即時実施、「生産に対する国家統制」の即時実施、大赦、裁判所改革、地方自治強化などの改革の実施を宣言した。宣言はまた、「和平交渉即時開始」を中央政府を通じて敵味方に迫り、ウクライナ居住諸民族の自由を保証し、国内外でウクライナ民族の権利を擁護することを約束した。宣言は最後に、ウクライナ憲法制定会議選挙をおこない、同会議を1918.1.9日に召集すると宣言した。

 ウクライナの中心都市キーエフで、ウクライナ中央ラーダ、ソビエト、軍管区司令部の三者の間で権力闘争が起った。10.27日、キーエフ労兵両ソビエト拡大合同総会は、首都革命支持、革命委設置、市権力の革命委への移行を、489対187対17で決議した。 10.29日夕刻〜31日夕刻にかけて、ソビエトと軍管区司令部の間で市街戦がおこなわれ、ソビエトが勝利した。中央ラーダは中立の立場を執った。

 だが、キーエフにおける市街戦での勝利も、ソビエトに全権力をもたらさなかった。中央ラーダがいたからである。11.1日、中央ラーダは、自己をウクライナの最高権力であり、この権力を臨時に中央ラーダ総書記局に委ねると宣言し、新しい総書記局を選出した。新総書記局は、ウクライナ社民党、ウクライナ・エスエル党、ウクライナ社会連邦党の三大ウクライナ大政党を中心に、ボリシェヴィキを除く非ウクライナ人諸党派を加えていた。その中心人物は、ヴィンニチェンコ議長兼内務担当総書記とペトリューラ軍事担当総書記であり、二人はどちらもウクライナ社民党員だった。総書記局には、外務を除いて独立国政府の持つすべてのポスト(軍事を含む)が置かれており、事実上のウクライナ臨時政府だった。

 ソビエト自体の内部にも中央ラーダの勢力があった。例えば、2月中旬のキーエフ・ソビエト執行委改選の結果、兵士選出委員の構成は、ウクライナ・エスエルおよびウクライナ社民党16、エスエル6、メンシェヴィキ3、ボリシェヴィキ5となった。キーエフ・ソビエト兵士部会は中央ラーダ派に掌握された。ハリコフ・ソビエトでも、2.5ー9日の部分的改選の後、中央ラーダ派が代議員の1割を占めた。

 11月の全ロシヤ憲法制定会議選挙のウクライナでの結果は、1、ウクライナ人諸派、2・その他民族諸派、3・自由主義諸派、4・ボリシェヴィキ、5、エスエル、6・メンシェヴィキという順に票を獲得していた。キーエフ、ヴォルイニ、ポドリスク、ポルタヴァの四県でウクライナ人諸派が過半数。チェルニーゴフ、エカチェリノスラフ両県でもほぼ半数。ハリコフ県では、ウクライナ・エスエルとロシヤ・エスエルのブロックが過半数。へルソン、クヴリーダ両県だけでエスエルが過半数をとっている。キーエフ、ヴォルイニ、ポドリスク、ポルタヴァ、タヴリーダの五県では、ボリシェヴィキの得票はとるに足りない。ウクライナ人諸派の強い県では概してボリシェヴィキが弱かった。


【1918年の動き】

 1918年はじめ、グリャイ=ポーレではマフノの指導で旧地主領に四つの農業コミューンがつくられていた。ほぼ10家族、成員は100〜300人程度のものであった。マフノは、そのうちでもっとも大きなコミューンで、週のうち二日は働き、のこり四日はアナーキスト・グループの活動と地区革命委員会での仕事にあてるという生活をしていた。コミューンに入らぬ一般農民とコミューンとの関係は良好であった。

 ウクライナ・ラーダが支配を広げようとしてグリャイ=ポーレを抑えにかかると、マフノたちは、「社会主義」の名において、同1月、ウクライナに攻めこむボリシェヴィキ軍の支援にまわった。1918.1月、激戦の末、中央ラーダ政府はキエフから追い出された。

 西に逃れた中央ラーダ政府は、1.27日、ブレストで第一次大戦でロシヤと戦争していたドイツ、オーストリアと講和条約いわゆる「パン条約」を締結し、莫大な穀物と引き換えにウクライナを独立国家として承認させた。2月には、両国軍が、ウクライナに兵を進め、条約で約束された穀物の確保をはかろうとした。束の間の農民共和国は、侵入したドイツ・オーストリア軍に占領されてしまった。ウクライナ・ラーダは、3月までにドイツの大軍の援護と共にキエフへの帰還に成功した。

 マフノは農民と労働者からなる小部隊を率いて、闘いに立ち上った。しかし、圧倒的に優勢な敵に押しまくられ、タガンローク、ロストフ、そしてヴォルガのほとりのツァリーツィンへと撤退をよぎなくされた。グリャイ=ポーレでは、彼の母親の家が焼かれ、廃兵の長兄エメリヤンが銃殺されていた。

 ところが、中央ラーダ政府はドイツ軍と対立し始めた。ウクライナの大地主たちは中央ラーダ政府の革命的な土地改革を危険視していて、またドイツ軍もウクライナを確実な自分たちの支配下に置きたいと考えていた。そのため両者(民族主義者・オーストリア軍)は結託してクーデターを起こし、1918.4月、総裁政府を樹立した。中央ラーダ政府は解散させられた。地区ソビエトも崩壊した。外国軍は、例のブレスト・リトウスクのボルシェヴィキ政府との条約のもとに、ウクライナに軍政を布いた。

 しかし、総裁政府の地主保護土地政策や、ドイツ軍の強引な作物の収奪は、ウクライナ全土の貧農(ウクライナ人のほとんどが貧農だった)の反発を買い、各地で農民蜂起が勃発した。

 6月、マフノは、ウクライナでの活動の方針を立てるため、モスクワのアナーキストの同志に会いに上京した。マフノは、このときクロポトキンとレーニンに会っている。レーニンは、マフノがウクライナに帰るのを援助することを約束した。ウクライナ南部で、マフノが六人の同志と一緒に武器をとって登場した。

 
7月、マフノ軍はグリャイ=ポーレに潜入し、パルチザン部隊の組織にとりかかった。ウクライナの穀物を奮いにきたドイツ、オーストリア軍とそれがもり立てた傀儡スコロバツキー軍に対する民衆の怒りは高まっていた。農民軍としての性格を基本としながら労働者、アナーキストも参加するマフノ軍が結成された。マフノ軍は、農民ゲリラを率い、農民パルチザン部隊を組織し、スコロバドスキーの反革命軍やオーストリア軍を悩ました。

 騎馬隊を中心にし、神出鬼没、広い行動範囲をもって、電撃的に敵を攻撃するマフノ軍はウクライナ農民の抵抗戦の牽引車となった。マフノは、ありふれた馬車に機関銃をのせるという新戦術を編み出した。荷馬車に乾し草をつめば、機関銃車は畑から帰る農民の馬車と区別がつかなくなるのであった。また、マフノは、婚礼の行列や葬式の行列を装って、敵の部隊の本拠に接近するという戦術もしばしば用いた。これらの戦術は古典的に農民的なものであった。

 マフノは初期のアピールの中で次のように訴えている。

 「死ぬか、それがいやなら勝利するかだ−これこそ現在の歴史的時点においてウクライナ農民の前に提起されている二者択一である。だが、われわれがみな死んでしまうことはありえない。われわれはあまりに多い。われわれは人類なのだ。それゆえわれわれは勝利する。しかしながら、われわれが勝利するのは、過ぎ去った数年間の例にならって、自らの運命を新しいお上(ナチャーリストヴォ)に委ねるためではない。われわれは、自らの運命をわれわれの手中ににぎり、自らの生活を自らのヴォーリャ(意志)によって、自らのプラウダ(正義、真理)によって築くために勝利するのである」。

 マフノ軍は、タガンログやロストウやツアリスティンの各地を走り回り広大な地域を支配した。反革命軍や外国軍と頑強に戦いながら、また猛烈に地主らとも戦った。そして瞬く間に、地主どもの数百の家を襲い、また数千の敵軍を倒した。マフノの大胆不敵と、その神出鬼没の行動と、その軍略的才能とは、敵軍の非常な恐れと憎しみとを加えるとともに、ウクライナの民衆には非常な喜びと力とを与えた。マフノ軍のこの先例と成功とはさらに各地の小パルチザン軍を続出させて、僅か7名人の小団体から出発したものがその年の暮には4、5千人の大軍隊となった。マフノは総大将と仰がれた。

 内戦の過程で、ウクライナほど政権と軍事的支配者の交替がはげしかったところはない。9月下旬から10月中旬にかけてマフノ軍とオーストリア軍が交互に一進一退の支配状況になった。そうした状況の中で、ドイツ軍は本国が不安定な社会情勢になったこともあり撤退した。11.27日、オーストリア軍も撤退を開始した。後ろ盾を失った総裁政府は簡単に崩壊した。だが、中央ラーダにも、もはやウクライナの独立を維持する力は無くなっていた。ゲトマン・スコロバドスキーの反革命軍も倒された。ペトリュウナの反革命軍がそれに代わり、ウクライナ人民共和国の復興をはかった。しかし、ソビエト政権と赤軍は、ペトリューラ政権を認めず、マフノ軍も内側からペトリューラをゆさぶった。こうして、ペトリュウナの反革命軍もすぐさま圧しつぶされた。ウクライナは内戦膠着状態に入った。

 マフノ軍には、大敵デニキンの反革命軍との戦いが待ち受けていた。このデニキン軍との戦いには、戦線が百ヴェルストあまりにひろがった。マフノはその全線にわたって、あらゆる機会を捉えて、農民と労働者との地方的自治を説き、各地に独立して結成された自由ソビエトがその経済的および社会的生活をみずから組織することを勧めた。マフノのこの宣伝はマフノ軍の戦線のいたるところに採用されて、それがウクライナの農民労働者の大衆の一大運動となった。マフノはそれらの農民労働者からバティコ・マフノ[父マフノ]と呼ばれ、マフノ自身もまたしばしばこの名を用いた。民衆のこの大運動はマフノビチナの名によってウクライナ以外にまでも知られはじめた。 


【1919年の動き】

 ロシア10月革命で政権を握ったレーニン、トロツキー率いるポルシェヴィキ革命政権は、ウクライナに目をつけ、軍事割当徴発による過酷な穀物収奪を採用した。農村での階級闘争が特に強調され、クラークが槍玉に挙げられた。ロシア共和国では早々に挫折した貧農委員会の指揮の下にウクライナでの穀物調達が実行され、ロシヤ以上にそれは暴力的であった。

 1919年初め、ウクライナ食糧人民委員に任命されたシリーフチェルとともに、総勢2500人の87個の食糧部隊がウクライナに出発し、別の部隊もそれに続いた。そしてこのウクライナ食糧人民委員部の設立は、ウクライナ食糧人民委員部のロシヤ食糧人民委員部への完全な従属の下に行われた。ウクライナ人民委員会議議長ラコーフスキィとシリーフチェルの署名になる1919.2.2日づけ命令書第1号は、ロシヤへの供給をウクライナ・ソヴェート政府の最大の任務と宣告した。

 帰ってきたウクライナのソビエト政権は、2.11日付法令で、甜菜プランテーション、酒造工場用プランテーションの土地を農民に分配することを禁じた。地主や資本家的富農の土地をすべて農民に均等に分配するのではなく、そのかなりの部分を集団農場組織のためにあてることにし、地主や富農の農場から持ち去られた馬や牛、機械などを取り戻すことさえ定められた。要するに、農民が自主的にすすめた農民革命の成果に介入し、それを取り上げようとした。  

 1918年夏にロシヤ中央部で行なわれたと同じ穀物徴発のやり方がとられた。法外な割当額が定められ、暴力的に穀物が徴発されていった。抵抗するものは、「クラーク」だとされた。解放された農村に都市から装甲列車が食糧を徴発する部隊とともにおしよせてきた。農民はこのやり方に烈しく反発した。それは、マフノ軍にも反映している。ブブノーフは、「食糧部隊を派遣するためには、そのあとからかならず装甲列車を運行させなければならない」状態にあると指摘している。

 更に、食糧独裁令に基づく土地収容革命を敷こうとした。ネストル・マフノー、アルシーノフ、ヴォーリンらアナキスト指導者はどう対応したか。2月、第2回グリャイ=ポーレ地区兵士・労働者・農民大会は、土地問題の解決は、エスエルが「土地社会化と定式化した方式でやれる、すべての土地を勤労農民の手中に移せ」と主張した。一般決議は、「ロシヤとウクライナのソビエト政権が、自らの命令や法令によって、なにがなんでも地元の労働者・農民ソビエトから自由と自主活動を取り上げようとしている」と指摘し、ホリシェヴィキ共産党が左派エスエル、アナーキストを弾圧するのに抗議している。「自分たちで、地元に、暴力的な命令を無視して新しい自由な社会をつくる」。めざす方向はそのように明らかにされた。

 こうして、アナキスト達は、ポルシェヴィ機政権の食料徴発政策に抵抗する為の軍を組織して対抗した。こうして、「中央ラーダ」はボルシェヴィキと対決しなければならなかった。 

 1919.2月、デニキン軍の脅威が増したため、マフノはその時初めてウクライナ・ボルシェヴィキの赤軍と提携した。共同の敵であるデニキン軍と戦うために、今まで続けてきた南方の戦線を受け持つこととなった。が、モスクワ政府は、マフノ軍の協力を取り付けながらも、その際の条件である軍需品の供給はいつもきわめて厳密な必要だけに限った。

 ソヴェート政府と赤軍側には、このような決議、このような志向は気に入らない。キエフから東に位置する地方都市ハリコフに終結したウクライナ国内のボルシェヴィキは、ロシヤからの強力な援軍と共に、キエフに向かって進撃を開始する。1919.2月、再びボルシェヴィキがキエフを占領し、ソヴィエト・ウクライナ政権を成立させた。
 
 
2月末、ペトリューラ軍が占領していたエカチェリノスラフをマフノ軍が解放し、市内にボリシェヴィキ、エスエル、マフノ派各五人ずつのメンバーからなる革命委員会が設けられた。マフノはエカチェリノスラフの全武装勢力の司令官となった。この協力関係は、翌年1.27日、赤軍がエカチェリノスラフに入城したあともつづき、マフノ軍はバルト海艦隊水兵出身のドゥイベンコを師団長とするソヴェート・ザドニエプル師団に編入され、その第三旅団となった。そして、折からウクライナに迫る強敵ヂェニーキン軍を迎え撃つ第一線についたのであった。しかし、ともにヂェニーキン軍と闘いながら、ソヴェート政権・赤軍とマフノ軍との関係は急激に悪化した。その基礎には、ウクライナ・ソヴェート政府の農民政策に対するウクライナ農民の根底的な批判があった。

 マフノはモスクワとの共同戦線に従いながら、社会革命についての思想は譲らなかった。モスクワ政府が派遣した代表者の権威を認めなかった。既に彼ら自身の地方ソビエトがあり、数県にわたる全地方の革命委員会があり、またソビエト連合の大会もあった。現に彼らがその独立を始めて以来、1919.1、2、4月の三たびこの大会が催された。4月の第三国大会がグリャイ=ポーレで開かれたとき、師団長ドゥイベンコはこれを「反革命」とよび、大会組織者を「法の保護の外におく」と宣言した。マフノ軍側が激しくこれに反発したことはいうまでもない。

 つまり、モスクワ政府は、こうした民衆の自主自治を許さなかった。「労働者の解放は労働者自身の仕事でなければならない」というマルクスの言葉や、「ソビエトにいっさいの権力を」というレーニンの言葉は、国家主義マルキシズムの真赤な嘘となった。マルキシズムは民衆が自分で自分の運命を創っていくことを決して許すものではないことを判明させた。


 5月、赤軍に加わっていたフリホリエフ〔グリゴーリエフ〕の部隊がボルシェヴィキ政府に反逆した。グリゴリエフはもとペトリュウナの一首将であったのだが、ペトリュウナ軍の壊滅の際にその手兵と武器とを携えてボルシェヴィキ軍に投じていた。モスクワ政府からルーマニア戦線につくことを命ぜられた機会に応じず反革命の旗をあげたのであった。

 モスクワはマフノ軍とグリゴリエフ軍の接近を恐れ、マフノに対する不安を募らせた。赤軍司令部は、フリホリエフに宣戦布告しなければ、赤軍に宣戦布告したものとみなすとの通告をおこなった。この通告に反発したマフノ側は、独自の調査の上で、「フリホリエフとはなにものか」というビラを出し、その中でフリホリエフを敵と宣言したが、同時に、「ポリシエゲイキ=共産党」もまた「まさるとも劣らぬ労働の敵」であるといい切るにいたった。
 5.5日、共和国防御委員会特別使節カメネフがハルコフ州の数名の政府代表者を従えて、マフノビチナの中心グウライポリエ村に到着した。そしてただちにそこのソヴィエト連合の解散を要求した。マフノもソヴィエトの委員らもまた農村の代表者らも、かくのごとき要求は革命労働者の権利侵害であるとして、それをカメネフらと討議することすらも斥けた。

 ソヴィエト連合の執行委員会は、この重大事を議するために、ことにまたそのころ始まりかけた、デニキン軍の総攻撃に備えるために、6.15日を期して全労農民の特別大会を開くことにきめた。

 5.19日、デニキン軍はイギリスやフランスの連合軍から多くの武器弾薬タンク等を支給されて、新たに大攻勢をとってきた。マフノ軍は弾薬に欠乏していた。マフノはそれをモスクワ政府に要求していたのだ。が、モスクワからはなんの返事もなかった。そして赤軍はウクライナを白軍の蹂躙するままに任しておいた。

 マフノ軍は主要打撃をうけ、ほとんど危地に陥った。そしてモスクワ政府は、それに乗じて、トロツキーの名によってマフノおよびマフノビチナ全体に戦いを挑んだ。軍南部方面軍はマフノを逮捕し、軍法会議にかけるとの命令を発した。かくしてマフノ軍は白軍と赤軍との挟撃を受けて、西方に戦いを交えつつガリシア方面にまで退却した。そして数千の農民家族はその財産と牛馬とを携えて、マフノ軍のあとに従った。この大移住軍は、九百ヴェルスト余りの戦線の間にほとんど絶望的の不断の戦闘を続けつつ四ヶ月の間退却行をつづけた。アルシーノフは、これを「民族移動」とよんでいる。ソヴェート政権側は、 マフノのこの行動はヂェニーキン軍の侵攻に道を開いた裏切りとして非難している。

 
6.6日、白衛軍支配。

 7.27日、アレキサンドリアに近いセントヴォ村で、革命的パルチザンの大会が開かれた。マフノはグリゴリエフをその大会に招いた。そしてその席上、彼の反革命的罪悪をあばいて、ピストルの一撃のもとに彼を殺してしまった。  

 8.3日、ウクライナ共産党中央委員会総会は、「クラーク反革命」の二つの中心の一つに、(ルソン県のマフノ=フリホリエフ軍をあげ、クラーク反乱とヂェニーキン軍との近い将来における共同行動がありうるので、全力をあげて、クラーク反乱の根城をたたきつぶせ、と指示していた。

 8.5日、この方針には、マフノが、へルソン県ドプロヴェチコフカで発した「命令第一号」が対応する。マフノは、「われわれ革命軍と各反乱者の任務は一切の隷属からウクライナの勤労者を完全に解放するために誠実に闘うことである」と述べ、農民からの一切の略奪、没収、ユダヤ人に対する暴行、略奪をかたくいましめた。

 概要「隊内での不正は許されない。同志的規律を維持せよ。泥酔は犯罪である。われわれは偉大な勤労人民の子であり、一人一人の勤労者はわれわれの兄弟であり、姉妹であることを記憶せよ。その人々のために闘っている勤労人民の息子や娘のどの一人もわれわれの方からはずかしめることがあってはならない」。

 この「命令第一号」に、敵の規定がある。民族の別なくすべての「富裕なブルジョワ階級の人間」とともに、「ブルジョワ的不正秩序を守護する者、すなわち、都市や村を巡回し、彼らの恣意的独裁に服従することをのぞまぬ勤労人民を苦しめるソヴェートのコミッサール、懲罰隊、チエカーの隊員」も「勤労人民の敵」と宣言されている。反乱者、すなわちマフノ軍の兵士は、この後者をみつけ次第、「逮捕して、軍司令部に連行し、抵抗すれば、その場で射殺しなければならない」。

 9月半ば、マフノ軍は、キーエフ県ウマーニの町の近くにたどりついた。月末、彼らは四方からヂェニーキン軍に包囲された。いまやヂェニーキン軍は、東はヴォルガ川、カスピ海から、西はドニエストル川にいたる南ロシヤ全域を支配しており、最短距離のコースを通って、モスクワへ進撃することに全力をあげていた。マフノ軍をここでひねりつぶせば、後方は完全にかためられるはずであった。

 9.26日、デニキン軍はオレルまで進んでいって、モスクワをまでも脅かそうとしていた。マフノは、これまでの退却は戦略的なものであったと宣言し、これより攻撃に移るとの命令を発した。向きを変えたマフノ軍は、マフノ軍はそのあとを追うてきたデニキン軍とペレゴノフカ村に一大決戦を試みた。ペレゴノフカの敵主力を死闘の未にやぶり、以後ヂェニーキン軍の後方を破竹の勢いで突き破っていった。四カ月間の退却行の血と涙のしみ込んだウクライナの地を西から東へ、一カ月でかけぬけたマフノ軍は、10.23日、カスピ海のほとりマリウポリを解放した。ヂェニーキンのいる大本営まで、八〇ヴエルスタの地に迫ったのである。

 その間に、ボルシェヴィキ軍の裏切者グリゴリエフ将軍をも倒してしまった。当時グリゴリエフは一万内外の兵を率いて、アレキザンドリア、スナメンカ、エリザヴェトグラートのウクライナの諸都市を占領し、さらにエカテリノスラフを脅かしていた。そして彼はその勢いをもってさらにマフノと結びつこうとしていた。


 このマフノ軍の電撃戦が、10.13日、オリョールを占領して、モスクワにもっとも近づいたヂェニーキン軍の背中を鋭く突きさした刃となった。ヂェニーキン軍は、10.20日、オリョールから撤退し、以後、敗北、没落の一途をたどることになる。

  マフノ軍は、マリウポリを一日しか維持できなかったが、10.28日にはエカチェリノスラフを解放し、40日間ここにとどまった。エカチェリノスラフを中心として、マフノのアナーキスト的農民共和国が生まれることになった。11月、マフノ軍支配(赤軍構成部隊として)。1919年の終りの二カ月間つづいたこのマフノと農民の世界は、1920.1月に赤軍を迎えることになる。赤軍は、1.1日、エカチェリノスラフを占領し、6日、アレクサンドロフスクを占領した。アレクサンドロフスクをあけわたしたマフノ軍とここを占領した第一四軍第四五師団は友好的に話しあった。マフノ軍側は、自分たちは共通の敵との闘争のために一定の地域を占拠することに同意する、政治問題については別個に交渉をもちたいと表明した。

  東から迫ったコルチャークと南からのヂェニーキンというブルジョワ=地主的反革命の二つの中心をようやくにして打ちたおした、この時点で、革命派の和解と協力は、人々の願いであったといえよう。だが、事態はそのように進まなかった。

 
12.2〜4日、モスクワでひらかれたロシヤ共産党第八回協議会で、ウクライナにおけるソヴェート権力の再建にあたっての新方針をつくり上げていた。すなわち、マフノを農民が支持した理由を分析し、土地政策を根本的にあらためることを決めている。地主地を農民に分配し、集団農場は、条件に応じてつくることにし、いかなる強制も加えてはならないとしたのである。食糧政策については、基本原則は不変としたが、徴発量を、さしあたり、「ウクライナの農民、労働者、赤軍」の必要とするだけに限定する、と提示している。そのような新政策により農民の支持をえて、「すべての武器を引き出して、労農赤軍の手中に集中すること」−これがウクライナにおけるソヴェート建設の第一の任務である、と宣言された。つまり、「農村の武装解除」である。


【1920年の動き】
 1920.1月、赤軍支配。この後、九か月の間、マフノ軍が短期的断続的に支配。

 
1920.1.7日、マフノ軍は、ウクライナ革命反乱軍(マフノヴィスト)軍事革命評議会・総司令部の宣言を発した。この宣言は、マフノ軍が「ブルジョワ=地主権力」と「ボリシェヴィキ=共産党的独裁」の双方からウクライナの勤労者を完全に解放し、「真の社会主義的秩序」を創出することを目標としていると明らかにしている。

 もっとも、宣言は目標を掲げただけで、実際には漸次的にしていた。ヂェニーキン軍のすべての法令はただちに撤廃されるとしながら、ソヴェート政権の法令については、「農民と労働者の利益に反する」ものを撤廃すると区別していた。どの法令がそのようなものだということになるかを決めるのは、村会や工場の勤労者自身でなければならないとしていた。


 地主地の没収や工場・鉱山を労働者階級全体の所有に移すこと、政党代表をのぞいて労働者と農民だけの自由ソヴェートをつくること、言論、出版、集会、団結の自由を保障すること、とならんで、「チェカー、党委員会や類似の強制的、権威主義的、規律保持制度は農民・労働者の間においては許されない」という一項目がある。
マフノ軍とボルシェヴィキ軍は、ブルジョワ・地主的反革命のヂェニーキン軍を打ちやぶる闘いに於いて共同戦線化していたが、和解していなかったことが判明しよう。

 1.8日、第14軍司令官ウボレーヴィチは、マフノに対し、ポーランド軍とたたかうため、アレクサンドリヤから北上し、チェルニーゴフを通って白ロシヤのゴメリへ移動し、第12軍の指揮下に入れとの命令を発した。この命令を受けとり、それに従って発した指示を翌1.9日の12時までに報告せよと書かれていた。この命令は、ウボレーヴィチが第45師団長ヤキールに語ったように、むしろマフノが拒否することを予期した「一定の政治的マヌーヴアー」にすぎなかった。

 マフノは、農民パルチザンをその根城、根拠地から切りはなすこの命令に答えなかった。1.9日、全ウクライナ革命委員会議長ペトロフスキー他の名で、マフノを「脱走兵、裏切者として法の外におく」と宣言する決定が下された。次のように記されていた。

 「マフノは赤軍の意志に従わず、ポーランド軍と闘うことを拒み、われわれの解放者−労農赤軍に宣戦布告した。かくして、マフノとそのグループは、フリホリエフ、ペトリューラ、その他のウクライナ人民の裏切者と同じく、ウクライナ人民をポーランドのパンに売ったのだ」。

 南部方面革命軍事評議会のメンバー、スターリンがこの決定をすべての部隊が遵守するよう添書きしている。こうしてマフノ軍に対する赤軍の攻撃がはじまった。

 2月、マフノ軍の隊員の中にはチフスが猖獗し、マフノもまたたおれて、グリャイ=ポーレ近くの村々に病いの身をひそめた。2月はじめ、グリャイ=ポーレにあったマフノの本陣は、赤軍の騎兵にけちらされ、本陣黒旗が奪われた。アルシーノフは、次のように証言している。

 「マフノ軍兵士と赤軍兵士の問に交歓がおこるのをおそれた赤軍司令部は、レット人狙撃兵と中国人部隊をマフノ軍との闘いに投入した」。

 この頃、ボリシェヴィキ革命軍は、反革命軍、自衛軍との闘いに勝ちつつあったが、辛勝というよりも傷だらけの勝利であったといわねばならない。二年余の共同闘争にもかかわらず、労働者と農民の関係は激しい対立の様相を呈しつつあった。

 南部ではマフノの農民軍が広大な地域を支配しており、キエフ近郊ではゼリョーヌイ率いる農民反乱が起こった。黒海沿岸のオデッサには、フランスの援助を受けたデニキン将軍による反革命派の「ロシヤ義勇軍」が上陸。1920.5月にはポーランドのピウスツキ将軍がキエフを一時占領した。

 ウクライナでは、1920年春から夏にかけて、マフノ軍と赤軍は激突していた。しかしながら、秋になると、ふたたび、ヴランゲリ将軍のひきいる反革命軍がクリミア半島よりウクライナに侵入し、9.19日には、アレクサンドロフスクをおとし、9.28日にはマリウポリを占領した。マフノ軍の本拠地はいまや地主的反革命の軍事支配のもとにおかれた。この事情が三度マフノ軍と赤軍との協力への歩みよりを可能にした。

 このころ赤軍第12軍革命軍事評議会が出した「政治的指示」(9.24日付)をみてもわかるが、赤軍側は、「ヴランゲリこそロシヤ反革命の最後の支柱であり」、これをたおせば、マフノフシチーナの一掃に有利な条件が出来ると考えていた。

 「匪徒活動とマフノフシチーナは、うちつづく内乱によびおこされ、ヴランゲリの白衛軍によって意図的に利用されている現象である。ヴランゲリが消えれば、マフノも消えるのである」。であればこそ、ヴランゲリをたおすのに、マフノの力も利用できれば、それにこしたことはなかったのであろう。

 9月、白衛軍(ヴランゲリ軍)支配。

  9月末、マフノ軍側と赤軍側の間で交渉がはじまり、10月上旬のハリコフでの会談で、話がまとまって、ウクライナ共和国政府代表ヤーコヴレフ、赤軍南部方面軍司令官フルンゼとマフノ軍代表クリレンコ、ポポーフとが10.15日、政治協定と軍事協定に調印した。

 政治協定は、(1)ソヴェート共和国全域でのマフノ軍兵士・アナーキストへの大赦、(2)ソヴェート政府の暴力的転覆をよびかけるものをのぞき、マフノ軍兵士とアナーキストの煽動宣伝の自由、(3)ソヴェート選挙への自由参加を定め、軍事協定は、(1)その内部編成を従来通りにしたままでのマフノ軍の赤軍への合流、(2)マフノ軍に赤軍部隊や脱走兵を吸収しないこと、を定めていた。

 これまで深刻な対立があったからこそ、このようなととのった協定がとり結ばれなければ、一切の共同行動は考えられなかったのである。そして、この協定の内容は、赤軍側、ソヴェート権力側からの明らかなる譲歩であった。その意味では、マフノ軍の側でも、永続的な協定、協力がありえないことを、もはや十分承知していたであろう。

 ともあれ、この協定のもと、マフノ軍と赤軍の共同反攻がはじまった。10月、マフノ軍支配(赤軍構成部隊として)。11月のはじめには、両軍は、ヴランゲリ軍をペレコープ地峡にまで追い込んだ。そこからマフノ軍は凍った海をわたり、ヴランゲリ軍の背後をついた。ヴランゲリ軍は総くずれとなり、赤軍はクリミア半島に進出した。11.16日、赤軍はケルチを解放して、南部戦線は消滅した。

 束の間の協力もこれで終りであった。翌11.17日の命令の中で、フルンゼは、マフノ軍を第4軍の指揮下に入れ、カフカースに転戦させるとの方針を示した。これは、農民軍をその本拠から切りはなす考えに発するもので、1920.1月の手口がくりかえされようとしていた。11.23日付でマフノに出されたフルンゼの指令というものがある。これは、対ヴランゲリ戦終了にかんがみ、マフノ軍を正規軍に完全編入するように提案している。マフノ軍を第4軍に編入し、解体再編は第4軍の革命軍事評議会に委ねるとの内容である。マフノ軍側の史書は、この指令はついに伝達されず、のちに発表されたものだと主張している。26日付のフルンゼの決定的な命令には、23日の要求の内容として、暴行を働いたパルチザン部隊の解体再編の要求のみがあげられているにすぎない。

 ともあれ、マフノ軍は先の協定にはない、フルンゼの要求に従うはずはなかった。フルンゼは、11.26日、マフノ軍がソヴェート権力と赤軍に対抗し、グリャイ=ポーレで農民の動員を行なっており、赤軍部隊を攻撃しているとの理由で、マフノとその全軍を「ソヴェート共和国と革命の敵」と宣言し、マフノ軍を武装解除すること、抵抗する場合は全滅させることを全軍に指示した。対ヴランゲリ勝利ののち、まだ10日もたっていなかったときに、である。

 11.26日、赤軍の突然の攻撃。
こうして、赤軍とマフノ軍の戦闘が再開された。赤軍はかつてない有利な立場に立っていたが、なお、マフノ軍は、ソヴェート権力の穀物徴発策に対してウクライナ農民の抱く不満を背後にもちつつ、闘いつづけたのである。

 その同じ不満が、1920年の夏以降、中央部ロシヤでも、伝統的農民革命の中心地タムボフ県で、一大農民反乱を顕在化させていた。8月、カメンカ村でおこった勤労農民同盟の反乱は、1905年革命当時、略奪行動に加わっていたテロリストで、エスエルに入ったアントーノフを指導者として急速に拡大し、年末には、タムボフ全県の農村部から、ソヴェート権力と共産党組織を完全に一掃するにいたっていた。反革命との闘いに勝つまでは、と抑えに抑えてきた、穀物徴発政策に対する農民の不満が一時に爆発した。「平等、友愛、自由の名における人馬の解放」をスローガンにかかげる、この農民戦争を前にして、ソヴェート権力は、さしあたり施すすべがない状態であった。この他、農民反乱は、ヴォルガ沿岸地方から西シベリアにもおこっていた。

 12.6日、マフノ軍支配。12月中旬、赤軍支配。


【1921年の動き】

 至るところで穀物の割当徴発制に農民の不満は向けられていた。1921.1月、エセーニンがその農民の苦しみをリアルに歌った詩、「穀物の歌」を書いたとき、彼は国中にひびきわたる反乱の叫びを代弁していた。

 この深刻な危機に、レーニンは、ついに、政策の転換を決意した。彼は、エセーニンの「穀物の歌」が発表された1921.2月、穀物の割当徴発制より食糧税制への移行を求める人々の声に同調することに踏み切った。翌月、クロンシュタット要塞の水兵の反乱と同時にひらかれた第一〇回共産党大会は、この政策転換を決定した。その決定を大義名分として、その決定を力として、反乱する農民への総攻撃が開始された。ウクライナでも、タムボフ県でも、西シベリアでも、ドラスティックな鎮圧作戦が進められていった。

 1921.2月、ロシヤの殆どの諸県で割当徴発は停止されたが、ウクライナでの穀物調達は継続された。しかしながら、燃料不足で穀物貨物列車は至る所で立ち往生し、マフノー運動の主要な攻撃対象となった食糧活動家と食糧機関は崩壊し、実質的にウクライナでの割当徴発も停止した。そして3月末に自由取引の認可に関するロシヤ政府の布告が公表されるや、担ぎ屋の群れや労働者組織が堰を切ったようにウクライナを含む穀物生産地方に溢れた。

 4月には「最近ウクライナの運輸を根本から解体し、未曾有の大量の担ぎ屋が溢れている。特にウクライナに隣接するヴォロネジ、クルスク、ゴメリ、さらにはトゥーラ県から、多くの個々の担ぎ屋、様々な組織は、ロシヤの食糧組織と県執行委の通行許可証を持っている」、「緊急措置が執られないなら、担ぎ屋の波は、ウクライナの主要な穀物諸県での調達活動と、軍隊とドンバスへの供給を最終的に崩壊させる」など、ウクライナ共産党中央委から再三このような非組織的穀物獲得を停止させるようにとの要請が出されたが、5月末にはゲー・ペー・ウー議長によって、ウクライナでの穀物調達活動がこれらの組織によって完全に解体されたことが確認された。ロシヤの飢餓民によって、ウクライナにある余剰はこうして、すっかり汲み出されたのであった。

 やがて、キエフのボルシェヴィキによる「ソヴィエト・ウクライナ政権」が内戦を勝ち抜いていき、1922年、ウクライナはソヴィエト・ロシヤやベラルーシなどと連合したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に組み込まれることになった。名目上はウクライナはロシヤと対等な共和国であったが、実質的にウクライナは再びロシヤの支配下に入ることになった。この内戦で国土は荒廃、飢饉で100万人近くが餓死した。しかしウクライナ人にとっての試練はむしろこれからであった。
  レーニンは、「ネップ」後も、マフノ軍の掃討作戦を行った。ボリシェヴィキ政権・赤軍は、マフノ運動賛同者を、最終的に老若男女ほぼ皆殺しにした。それとともに、飢餓の救援をしないという意図的な餓死政策を採った。餓死500万人中、レーニンによる意図的な政策的餓死数は、250万人という研究文献もある。ウクライナにたいするレーニンらの政策については、梶川伸一が、2006年7月、ソ連崩壊後のアルヒーフ(公文書)に基づき、初めて検証した。

 ウクライナ化政策が功を奏しはじめる一方で、そのころソ連の首都モスクワでは、ソ連の中央集権国家化を目指す独裁者、スターリンが登場する。彼はウクライナ化政策を推進してきたウクライナ共産党を、民族主義的偏向を犯したとして強く非難した。そして1930年代のスターリンの「大粛清」の時代には、彼はソビエト連邦の全土において、自分に反対する者(潜在的なものも含めて)を容赦なく虐殺していった。ウクライナ化政策を進めていたウクライナ共産党員も指導者、一般党員も含めて全体の37%が1930年代末までに処刑され、粛清の対象は、富裕農民(クラーク)、知識人、牧師、そしてやがては一般人にまで及んだ。密告が密告を呼び、政治警察である内務人民委員部(NKVD)によって罪のない人々が処刑されたり、強制収容所に送られたりした。この時期、ソ連全土で1000万人以上がスターリンの粛清の犠牲者となった。(このときにウクライナで粛清を指揮していたのは、後のソ連共産党書記長フルシチョフであった)

一九二一年の夏、マフノは数個師団の赤軍騎兵にとりかこまれてルーマニアの国境にまで追われ、ルーマニア政府のために武装解除されて投獄され、危うくモスクワ政府に引き渡されようとしたが、一九二二年の春ルーマニアをのがれ出て、こんどはポーランドの官憲に捕えられた。
 マフノは今まだポーランドの監獄にいる。ソヴィエト政府は、マフノを強盗殺人の刑事犯人として、幾たびかポーランド政府にその引渡しを迫った。が、その容れられそうもないのをみて、さらに手をかえて、マフノの同志と称する一間諜を送って、マフノがポーランドに革命を起こす陰謀を企てていたという嘘の密告をさせた。そして近くマフノはこのいわゆる陰謀罪の被告として裁判されようとしている。

 これは、1・ドイツ・オーストリア占領軍とのパルチザン戦争。2・白衛軍、デニキン軍との戦闘、後退→総突撃。3・ボリシェヴィキ赤軍との2回の共闘。マフノ軍は、マフノがアナキストでありながら、主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因だった。但し、軍事人民委員トロツキー・ウクライナ赤軍司令官フルンゼは、マフノ軍との2回の共闘時に意図的に武器・弾薬の供給を怠った。4・ボリシェヴィキ側からの3回の攻撃との戦闘となった。果敢にたたかい、赤軍に3万人の死者という損害を与えた。マフノ運動は、これら3つの勢力と複雑で臨機応変な戦闘をした。3つの勢力との戦争で、マフノ軍は最大時5万人以上にもなった。

 マフノ運動は、民族解放・独立革命戦争の性質を帯びた。ソ連全土における当時の農民反乱において3大農民反乱の一つに位置づけられる。西シベリアの反乱、タムボフ県におけるアントーノフの反乱などの規模と並ぶ反乱スケールだった。

 マフノ反乱の首都、マフノグラートと呼ばれたグリャイポーレは4年の間に17回、一方、「ウクライナ人民共和国」の首都キエフは3年の間に14回支配者が変わっている(「ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国」の首都はハリコフ)。 

 同12月、ロシヤ共産党第八回協議会で、ウクライナのボリシェヴィキを代表したヤーコヴレフは、ウクライナの農民について、次のように述べた。

 「ウクライナの農民には、個人的意識考強固なアナーキスト的傾向がきわめてはっきりと結晶している。‥…彼らは、実際には、いかなる専門の〔アナーキストの〕学校も出ていない。しかし、無権力の理論は、自立的な経営団体としての自分の村にくらし、事実ほとんど都市なしでやっていけ、都市をほとんど必要としていない、あのウクライナの余裕ある農民に本当にピッタリなのだ。彼らは本当に都市を必要としていない。しかるに、都市は、彼らに無数の不愉快事をもたらすのである。都市からは数十もの権力が彼らに襲いかかって、それぞれがなんらかの要求をもち出し、それぞれが彼らから穀物を取り上げていくのである。だから、アナーキストのイデオロギーが…‥マフノや他の匪徒にあれほどピッタリしたのは驚くべきことではない。」。

【マフノ運動史考】

マフノ農民軍は、ドイツ軍撤退の後、ウクライナ農民の代表としての立場を堅持し、ウクライナ民族派のペトリューラ(1879〜1926)の軍、白衛軍のデニキン、ヴランゲリの軍との戦闘においては、ボリシェヴィキと協力したが、のちに1919年から20年にかけてはソヴィエト政権の穀物徴発政策をめぐってボリシェヴィキと厳しく対立するようになった。この点、()タンボフ県のアントーノフの反乱や、()同じウクライナのゼリョーヌイ(縁)の反乱と同じ性格をもっている。  

 
18〜21年の内戦のなかで、マフノ軍は常に農民に支持され、食糧や隠れ家を提供されながら戦闘を続けた。ときには農民家族とともに1000kmにおよぶ移動を行った。

 1919年後半の最盛期にはマフノは5万人以上の勢力を擁し、ウクライナ農民の強い支持を受け、<パチコ(父)>の愛称で呼ばれた。20〜21年のマフノ軍とソヴィエト軍の戦闘は凄惨をきわめ、双方に数万の犠牲者を出した。21年夏、マフノはソヴィエト軍に追われてルーマニア国境を越え、パリに亡命。34年病死するまでパリで妻と娘とともに亡命生活を送り、ペール・ラシューズ墓地に葬られた。3巻の回想録(1929−36)をはじめとしていくつかの著作がある。マフノを題材にした小説、歴史書などもある。日本では大杉栄による紹介(《無政府主義将軍ネストル・マフノ》1923)以来知られている。

 一方、ハプスブルク帝国支配下のガリツィア地方も、1918.11月、独立して「西ウクライナ人民共和国」を成立させる。しかしガリツィア地方にはウクライナ人だけでなくポーランド人やユダヤ人も住んでいた。ポーランド人は戦後に復興したポーランド国家への併合を主張し、ウクライナ人との間に熾烈な民族紛争を展開。しかし結局、ポーランド側には本国からピウスツキ将軍率いる援軍がやってきて、ガリツィアはポーランド領となってしまう(1921年のリガ条約で正式に確定)。内戦で混乱しているウクライナからは援軍は来なかった。

 内戦終結後、ウクライナではウクライナ共産党(ウクライナ国内のボルシェヴィキ)の指導下において、「ウクライナ化」政策が行われた。これはウクライナ一般人民とソヴィエト・ウクライナ政府を一体化させようとするもので、具体的にはウクライナ語による教育、公務員へのウクライナ人の採用などである。それまでウクライナ社会の上層階級のほとんど、および都市部はロシヤ人が多数派であり、ウクライナ人のほとんどは貧しい農民で、政治面では局外者だったのである。

 かくして1919.6月から1920.1月までにマフノ軍はウクライナのデニキン軍をまったく独力で打ち破ってしまった。するとボルシェヴィキ軍はふたたびのこのことウクライナにはいってきて、またもやマフノおよびマフノ軍に戦いを挑んだ。しかしその間に、さらにまた反革命のポーランド軍とウランゲル軍とが起ち上がった。そしてふたたびマフノ軍は白軍と赤軍との間に挟まって、1920.9月、赤軍との協約を余儀なくされた。

 ボルシェヴィキ軍はいたるところでウランゲル軍に打ちまかされて、メリトポル、アレキサンドロフスク、ベルディアンスク、シニエルニコヴォ等の諸都市を占領され、ドネツ河畔の全石炭鉱区を脅かされるまでにいたった。その結果マフノの黒軍に和睦を申しこんだのだ。そしてモスクワ政府は、マフノ軍がその全力をつくしてクリミヤの奥深くにまで転戦し、まったくウランゲル軍を打ち破った時、三たびまたマフノに赤軍の大軍を向けた。

 マフノビチナとは、要するに、ロシア革命を僕らのいう本当の意味の社会革命に導こうとした、ウクライナの農民の本能的な運動である。マフノビチナは、極力反革命や外国の侵入軍と戦ってロシア革命そのものを防護しつつ、同時にまた民衆の上にある革命綱領を強制するいわゆる革命政府とも戦って、あくまでも民衆自身の創造的運動でなければならない社会革命そのものをも防護しようとした。マフノビチナは、まったく自主自治な自由ソヴィエトの平和な組織者であるとともに、その自由を侵そうとするあらゆる敵に対する勇敢なパルチザンであった。そして無政府主義者ネストル・マフノはこのマフノビチナのもっとも有力な代表者であったのだ。

 二

 ロシアの民衆は、その革命によって、まずツァーの虐政と地主や資本家の掠奪とからのがれ出た。しかしこの旧主人からの解放は、革命のただの第一歩というよりもむしろ、その下準備にすぎなかった。[四十七字欠] が、旧主人が倒れるか倒れないうちに、すでにもう、新主人の自選候補者どもが群がり集まってきた。火事場泥棒の山師どもの群が、胡麻の蝿どもが、四方八方から民衆の上に迫ってきた。権力を追うあらゆる傾向あらゆる色合いの政治狂どもがおのおの民衆の上に自己の党派の覇権を握ろうとしてきた。みんなできるだけ革命的な言葉を用意して、民衆の自由や幸福のためと称して、民衆対主人の内乱の中に入ってきた。

 
しかし山師どもの本当の目的は、この民衆対主人の内乱ではない。新主人の席の奪い合いなのだ。民衆対主人の内乱を新主人どもの内乱に堕落さすことなのだ。彼らの求めるところはただ、自分の党派の独裁、すなわち民衆の上の権力の独占にあるのだ。
 かくしてこの山師どもは、おのおの、武器を手にして、あらゆる手段をつくして、彼ら自身の目的のために民衆を利用しつつ、さらに彼ら自身のいわゆる革命綱領を民衆に強制しようとした。しかもその革命綱領なるものは、山師どもの群によってそれぞれ異なるのだが、それが民衆の本能と自由とに相反していることにはみな同じだ。本当の社会革命に背く反革命的綱領であることにはみな同じだ。どの党派も、みな、民衆の運動を自分の党派の狭い規律の中におしこめて、民衆の革命的精神とその直接行動とを絞め殺そうとする。


 ある者は民主主義の名のもとに、ある者は社会主義の名のもとに、ある者は共産主義の名のもとに、ある者は民族自決主義の名のもとに、ある者は帝政復興の名のもとに、ある者はまたこれらのあらゆる牛馬どもを同じ一つの秣桶の中に集めるという名のもとに、いずれもみな掠奪者を解放するのだと広言しつつ容赦なく民衆を圧迫し、動員し、劫掠し、攻撃し、銃殺し、また村落を焼き払う。そしてついに、この強盗放火殺人の犯罪人どもの中で一番狡猾でそして一番凶暴なやつらがクレムリンの王座に坐りこんで、無産階級の独裁の名のもとに、いったん解放された労働者や農民をふたたびまた前にもました奴隷状態に蹴落として、完全にロシア革命を圧殺してしまった。これがいわゆるロシア革命なのだ。ボルシェヴィキ革命なのだ。  けれどもこの強盗放火殺人の犯罪人どもがお互いに、また民衆に対して、その凶行をほしいままにしている間に、ロシアの民衆はただそれに利用され、またそれを甘受していたのだろうか。


 決してそうじゃない。ロシアのあちこちで、この犯罪人どもに対する民衆の自衛運動が組織され、ことに中央ロシアやシベリアやウクライナでは、民衆のこの自衛運動が革命的一揆の形となって現われた。そしてそのもっとも強大な運動がマフノビチナであったのだ。
 由来ロシアの中でも一番自由を愛するといわれていたウクライナの民衆は、いったん彼らが破り棄てた鎖をふたたび彼らにゆわいつけようとするところの、あらゆる国家主義的権威に反逆して立った。彼らは自由を求めたのだ。そして自己保存の本能と、革命のいっさいの獲得物を維持していきたい熱望と、どんな権威にも対する憎しみと蔑みとが、彼らを駆ってこの反権威主義的闘争に、無政府主義的闘争に走らしめたのだ。
 しかもウクライナの民衆のこの革命的運動は、後に無政府主義者ネストル・マフノの名をその頭にかぶせられてはいるが、実際はこのマフノ自身が数名の同志とともにはじめてドイツやオーストリアの侵略軍を襲うた以前に、すでにあちこちでスコロパドスキーやペトリュウナの反革命軍に対する武力的抵抗を試みていたのだ。そしてこの運動はまた、ウクライナの各地で、相期せずしてほとんど同時に勃発したのだ。
 されば無政府主義者マフノがこのマフノビチナを創めたのではなく、ウクライナの民衆の本能的自衛にもとづく革命的一揆運動がマフノを駆り出したにすぎない。そしてマフノの革命的性格とその無政府主義思想とが、この運動の性質とぴったり合致して、彼をしてその中のもっとも傑出した人物にまで作り上げたのにすぎない。
 しかし文字で書かれた歴史の習慣から、僕には今、このマフノという一人物を中心としたマフノビチナを描くほかの材料がない。


 四

 五

 かくのごとくマフノおよびマフノビチナのロシア革命における功績は実に偉大なものであった。ヨーロッパ・ロシアのほとんどあらゆる反革命軍と外国侵入軍とは大部分彼らの手で逐い払われた。彼らなしにはボルシェヴィキ政府の確立すらもほとんど考えられないくらいだ。彼らばかりではない。ロシアの多くの無政府主義者はあるいはボルシェヴィキと手を携えあるいは独立して革命の成功のために働いた。もっとも熱心にそしてまたもっとも勇敢に戦った。
[四行欠]
 そして他の革命諸政党がいずれも新権力の樹立に汲々としている間に、ほとんどひとり無政府主義者だけがこの民衆運動の中へはいっていった。地主から土地を資本家から工場を奪いとって、労働者自治の基礎の上に生産を組織しようとする運動の中にはいっていった。
 また、一九一七年七月三日から五日の、クロンスタットやペトログラードの労働者と水兵との一揆にも、無政府主義者はその先頭に立って進んでいった。このペトログラードやその他の諸都市で、資本家の印刷所を襲ってそこで労働者の革命的新聞を発行する先例を作った。そしてその夏、ブルジョワジーに対するボルシェヴィキの態度が諸政党の中で一番革命的になった時、無政府主義者はそれに味方して、レーニンやその他のボルシェヴィキ首領をドイツの手先だと言って中傷したブルジョワ諸政府や社会主義諸政党の虚偽を暴露して、その革命家的義務をつくした。

 さらにその年の十月、連立政府を倒す時にも、無政府主義者はペトログラードやモスクワやその他の諸都市でいつも先頭になって戦った。ペトログラードでは、そのもっとも重大な役目をしたのは、クロンスタットの水兵であった。そしてその中には多数の無政府主義者がもっとも活動的な分子として働いていたのだ。また、モスクワでは、もっとも決定的なそしてもっとも危険な役目を勤めたのは、かつてケレンスキー時代にドイツ・オーストリアの戦線につくことを拒絶して、全部牢獄に投ぜられたことのある、あの有名な「ドヴィンスク」連隊であった。この連隊はクレムリンやメトロポールやその他の諸要部からカデット軍を逐い払うのにもっとも危険なあらゆる場所で戦った。そしてその兵士の全部は無政府主義者と名乗って、無政府主義の老革命家グラチョフとフェドトフとの指揮のもとに進んだのであった。モスクワの無政府主義同盟は、このドヴィンスク連隊の一部分に加わって、連立政府攻撃の先頭に立った。モスクワの諸区、ことにプレニアやソコルニキヤやサモスクヴォレチェの労働者らは、無政府主義者の一団を先頭にしてこの攻撃に加わった。そしてこれらの多くの戦いで、無政府主義はその幾百の最高の闘士を失った。

 もちろん無政府主義者は、なんら新権力の名のもとに、それらの戦闘に従ったのではない。ただ労働者の大衆がみずからその経済的および社会的の新生活を創(はじ)める権利の名のもとに進んだのだ。そして十月革命後、いわゆる共産党の新権力が確立した時にも、その思想や方法がまったく相反しているのにもかかわらず、彼らはまだ同じ熱心と同じ忍耐とでロシア革命のために働くことを続けた。
[三行欠]
 また無政府主義者は、マフノと同じように、反革命の攻撃に対してあらゆる戦線で戦った。
 一九一七年八月、コルニロフ将軍がペトログラードを襲った時にも、またその翌年のカレディン将軍が南ロシアに兵を挙げた時にも、無政府主義者は極力それと奮戦した。
 無政府主義者の組織した大小幾多のパルチザンがいたるところで反革命軍を悩ました。デニキンやウランゲルが北方の赤軍によって破られずに、南方のパルチザンマフノビチナによって倒れたことは、さきに言った。無政府主義者はまた、ウラルやシベリアやその他の地方で、コルチャクの反革命軍に対して同様に戦った。実際、これらの反革命軍に対して正規軍である赤軍よりもパルチザンのほうがはるかに有力であったのだ。そして数千の無政府主義者がこの革命擁護のためにその生命を失った。

 六

 しかるにロシアの無政府主義者らは、革命のためのその絶大な努力に対してなにを報いられたか。
 彼らの運命は、ほとんどみなマフノのそれと同じだ。彼らはただボルシェヴィキ政府確立のもっとも有力な道具となっただけだ。そしてその任務を終えたあとで、ちょうど野犬狩りでもされるように、ボルシェヴィキ政府の陰険きわまるそして残忍きわまる手段で、あるいは殺戮され、あるいは追放され、あるいは投獄されている。
 ボルシェヴィキの革命委員会がモスクワに成立した時、モスクワ・ソヴィエトの管内にあるドヴィンスク連隊が、まずこの委員会の一番の邪魔者になった。連隊の主なる指導者らのまわりは無数のスパイがとりかこんだ。そしてその幾重もの封鎖で彼らのあらゆる運動を妨げた。グラチョフはロシア革命を殺そうとするこの新権力の魔の手を防ぐために、急いで民衆を武装させようとして、各工場に三つ四つずつの機関銃と若干の小銃と弾薬とを分配した。が、その間にグラチョフは軍事上の要務という名の下にニジニ・ノヴゴロドに呼びよせられて、そこでボルシェヴィキの廻し者の一兵卒のために不意に銃殺された。つづいてドヴィンスク連隊をはじめ、ペトログラードやモスクワの革命諸軍隊はすべて武装解除されてしまった。
 その他無政府主義軍の有力な軍事指導者で、このグラチョフと同じように、軍務の名のもとにボルシェヴィキ政府に呼び寄せられて、その途中で行方不明になったり、行った先で捕縛されたり殺されたりしたものがいくらあるかしれない。
 そして一九一八年の春、ブレスト・リトウスクの条約が結ばれて、新政府の基礎が確立した時、ボルシェヴィキはいわゆるその無政府主義者狩りを公然と始めだした。そして新政府の暴政がいたるところに農民や労働者の不満と反抗とに出会った時、政府は全力をつくして全国にわたるこの無政府主義者狩りを組織した。
 無政府主義者は、いつでもそしてまたどこでも、この権力によって欺瞞され圧迫されている民衆の味方だったのだ。彼らは労働者と一緒に、労働者みずから生産を管理する権利を叫んだ。農民と一緒に、自然の権利と、都会の労働者との自由な直接の交渉を結ぶ権利とを主張した。そしてこれらの労働者や農民と一緒に、無産階級が革命によって得た、そして共産党の新権力がそれを詐欺しとったいっさいのものを無産階級に返すことを要求した。自由ソヴィエトへの復帰、革命的諸思想のための自由の復帰を要求した。十月革命における民衆みずからの獲得物を、民衆自身にすなわち労働者や農民との団体の手に返すことを要求した。これがボルシェヴィキ政府に対する無政府主義者の唯一の罪悪であったのだ。
 しかも、このいわゆる罪悪は、その思想をきわめて忠実に固守した無政府主義者にのみでなく、多少の妥協をあえてした無政府主義者にまでも負わされてしまった。

 しかし僕の目的は、かくしてロシア革命における無政府主義者の功績を並べたてることではない。またこの無政府主義者に対するボルシェヴィキ政府の悪辣と残虐に泣き言を並べたてることではない。僕はただ、ボルシェヴィズムと無政府主義とがその本質においてどう違うかを事実の上で見たいのだ。そしてその上になお、[四十五字欠]

 七

 さすがにボルシェヴィキは炯眼であった。彼らは最初から、ボルシェヴィズムと無政府主義とが相反するものであることを知っていた。社会主義的権力と民衆的革命とがとうてい一致することも調和することもできないものであることを知っていた。そして彼らはしばらくもそれを忘れることをしないで、実はその敵である無政府主義者や民衆をただの革命の初期における旧勢力の破壊にもっとも有力なものとして利用することに努めた。
 もちろん無政府主義者といえども十分それは知っていた。先見もしていた。それを先見することが無政府主義そのものでもあるのだ。けれども彼らは、革命に熱心なあまりに、その利用をむしろ甘んじて受けた。そしてこの甘んじてという中には、十月革命当時のボルシェヴィキのまったく民衆的な革命的喊声に多少眩惑された形があった。
 この眩惑がまず第一に無政府主義者を誤らしたのだ。革命の当初もっとも有力な武装団体であった無政府主義労働者の軍隊が、共産党の新権力に一指を触れることもあえてしなかったのみでなく、おめおめと解散されてしまったのもそのためだ。そして無政府主義者は、その間に、労働者や農民の大衆の中にまったく反権力的な団体を十分発達させることに、その力を十分組織し集中する時機を失ってしまった。立ち遅れたのだ。
 そして多くの無政府主義者は、この眩惑から目覚めた時、彼らのいつもの悪い癖の夢想と抽象的理論とに走っていった。
 僕がマフノビチナについて最初の信じていい報道を得た時、僕が驚いたのは、ロシアのほとんどあらゆる無政府主義団体がそれに反対しているということであった。
「アナルコ・サンジカリスト同盟はマフノ運動を無政府主義運動と認めていない。したがって決してそれを助けもしなければ、またそれと何の関係もなかった。この同盟はロシアの民衆が革命の用意ができるだろうその時まで、ボルシェヴィキ政府に対する武力的一揆に反対する」
「ゴーラス・トウルダ[民声]団もいつもマフノ運動には反対して、厳しくそれを非難し、そして武力的一揆に反対している」
 そしてこの二団体とともにもっとも革命的でありかつマフノビチナと密接な関係にあったウクライナのナバト団ですらも、「マフノビチナは無政府主義運動ではない。そして無政府主義運動はマフノビチナではない」と言っている。 僕はその団員の多くがマフノビチナの教育部や宣伝部で活動したこのナバト団の意見をもっとも尊重したいと思った。が、それについてですらも、一九二○年九月のその大会における議論のほんの大体を書いたものしか、僕はフランスで手に入れることができなかった。
 マフノビチナについての大会の討論は、いろんな議論にわかれて、だいぶ猛烈なものであったらしい。ある同志は、マフノビチナはロシアの農民運動に第三革命の曙光をもたらすものだと主張して、その意味の決議の通過を要求し、大会はまさに分裂しそうな勢いにまで進んだ。そして要するに、マフノの人格には多少同情することのできない点があること、マフノビチナにも多くの欠点があることに落ちついたらしい。
 しかしそれだけのことなら僕も最初から予想していた。きまりきったことなのだ。
 ナバトの大会は、無政府主義的傾向の革命から無政府主義社会にいたるまでには、多少の年月のかかることを肯定している。そしてこの過失と誤謬と不断の完成との時代を、過渡時代という権力的意味の言葉で言い現わすことを避けて、非権力的経験の蓄積時代とか、あるいは社会革命を深めてゆく時代とか呼ぶことに決議している。
 大衆のこの不断の完成を助けることが無政府主義者の任務なのだ。そして、ナバト団の多くの同志はそれをその実際の任務としていたのだ。また、ロシアの各地に散在する無政府主義諸団体からも、政府の迫害から逐われてきた幾多の同志が、そこに彼らの本当の任務を見いだしたのだ。そしてまたマフノ自身もそのために、「われわれの中に来い。諸君の思想を宣伝し、諸君の理論を適用するために、われわれの中に来い」とその同志を招いたのだ。







(私論.私見)