3253375 レーニン没後の凄まじい権力闘争

 (最新見直し2005.12.25日)

【レーニン逝去す】
 1924.1.21日、レーニン逝去する。葬儀をOGPU(1923年、チェカの改称)長官のジェルジンスキーが取り仕切った。

 トロイカの陰謀で葬儀の日取りについて騙されたトロツキーは葬儀に出席できなかった。スターリンが葬儀の主役を演じ、後継者としてのイメージを植え付けることに全力を挙げた。誓いの儀式に似た有名なレーニンとの告別演説、レーニン廟設置の決定、「レーニン主義の基礎について」という重要講演がそれであり、レーニン死去祈念の24万人にのぼる大量入党も、党書記局、各級党機関を握るスターリンの立場を強めていった。

 西島栄・氏は、トロツキーと左翼反対派」で概要次のように記している。
 失意のトロツキーが療養のためスフミに向かいつつあったとき、レーニンの死を知らせる衝撃的な電報が舞い込んだ。それは、トロツキーがかすかに抱いていた勝利の希望を決定的に奪う知らせであった。レーニンの死は、いずれにせよ、党内論争を一時的に完全に停止させるに十分な衝撃を全党に与えた。こうして、ソヴィエト・ロシアと世界革命の運命を左右した大論争の第一ラウンドが終結したのである。

 労働組合論争以来の大論争となったこの新路線論争において、レーニンなしでもトロツキー派に勝利を収めたことは、政治局多数派の自信を深め、その結束を強化した。しかし、彼らはトロツキーそのものを排除するまでには至らなかった。すでに述べたように、その噂が流れただけで、トロツキーなしの党活動はありえないという決議を出さざるをえなかった。反対派の組織的基盤は破壊できたが、トロツキーの個人的威信と軍事部門でのそのなお強固な支持は打ち砕くことができなかった。ブハーリンの論文「分派主義打倒!」や12月31日の政治局員の回答などは、トロツキーの個人的威信をも完全に破壊しようとする試みであったが、それはまだ十分党内に浸透させることはできなかった。レーニンの死もあって、彼らはそれ以上の大々的な個人攻撃キャンペーンを中断した(各地方組織では断続的に繰り返されたが)。

 そして、この時の論争からちょうど1年後に勃発する「文献論争」は、まさにこの「新路線論争」の到達点から始まった。それは最初からトロツキーに対する全面的な個人攻撃の形態をとり、トロツキーの政治的生涯の全体が激烈な攻撃と中傷の対象となるのである。それはもはや言葉の本来の意味での「討論」や「論争」と呼べるものではなく、言葉の形をとった一方的な弾圧に他ならなかった。だが、それは次号の特集で取り上げるべき領域である。


 
 西島栄・氏は、トロツキーと左翼反対派」で次のように記している。
 「晩年のレーニンが再びトロツキーに肩入れしたこと、しかも政治局多数派に決定的に対立する形でトロツキーを支持したことは、トロツキーに有利に作用するどころか、決定的に不利に働いた。政治局多数派は、トロツキーを心から恐れるとともに憎悪し、この恐怖と憎悪から、これまでにもまして固く団結するようになった。スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフの「トロイカ」は、大会後、モロトフ、ブハーリン、ルイコフ、トムスキーなどの他の政治局員および候補も仲間に加えて、確固たる権力基盤を築いた。基本的な問題は、政治局で出される以前にすでに、彼らのあいだで議論され話がつけられていた」。

 「こうした権力の凝集過程で決定的であったのは、第12回党大会においてグルジア共産主義者を弁護したブハーリンが「トロイカ」側に完全に移行し、その「棍棒」となったことである。「全党の寵児」であり、中央機関紙『プラウダ』の編集長であったブハーリンのこの転向は、「トロイカ」がトロツキーに対抗するための絶好の知的・理論的武器を獲得したことを意味した。それは、スターリンの組織的権力と並んで、トロツキーに勝利する条件を整えた。ブハーリンはそれ以降、自らがスターリン派の犠牲になるまで、彼特有の熱狂ぶりでもって反対派たたきに邁進するのである」。


【ジェルジンスキーの暗躍】
 2月、スターリンは、OGPU(1923年、チェカの改称)長官のジェルジンスキーを政治局員候補に引き上げ、最高国民経済会議議長に任命した。ジェルジンスキーは、新経済政策の最高責任者に指名されたことにより、ターリン対トロツキーの闘争にスターリン派として働いていくことになる。

 ジェルジンスキーは、通称トラストと云われた表向き商取引団体にして実態は政敵追放の秘密情報機関の「モスクワ信用協会」を作り、「反革命分祀追放」に血眼になっていった。これにロスチャイルドの下僕ハリマンが関わり、不都合分子を粛清していくことになる。

【凄まじき権力闘争その1、トロツキー派弾圧される】

 スターリンを書記長から更迭せよというレーニンの遺言が党の上層にあまねく知られるようになったときにはすでに、スターリンは第一権力者の地位を確立しており、「レーニンの遺言」レーニンの遺言はもはや有効な武器にはならなくなっていた。むしろ、圧倒的なプロパガンダが「レーニンの遺言」の効力を失わせていった。

 トロツキーは、「我が生涯2」の中で次のように記している。

 「レニングラードで、モスクワで、地方で、『論争』と呼ばれるものを準備するために、つまり、この時以降は、もはや反対派ではなくて、個人を目指す迫害を、組織的方法的に始めるために、無数の秘密会議が開かれた。準備の為の地下作業が終わった時、プラウダによって与えられた合図と共に、反トロツキズム・キャンペーンが、あらゆる地点で、あらゆる演壇の上から、新聞のあらゆるページ、あらゆる段落に、どんな隅々にも、又最も細い裂け目でも、同時に始まった。それは、この類のもののうちでは、圧倒的な見世物だった。悪罵中傷は火山の噴火みたいに見えた。党員大衆も揺り動かされた。私は、熱病の餌食になって横たわり、黙っていた。新聞も演説者どもも、トロツキズムの告発以外のことはしなかった。が、誰にもこの言葉の意味するところを正確に云うことなどできなかったのだ。彼らは日増しに、過ぎ去ったエピソードを思い出させていた。又、既に20年も前に書かれたレーニンの論説を、その原文をごちゃまぜにし、変形し、改竄し、そうして、特に、、それらをつい先日のように見せかけながら引用した。そんな仕組みを誰も理解しなかった。(中略)

 大衆は幻惑され、耳をふさがれ、脅かされた。何も知らない者を誑かすことは、大いに役立った。その効用の大いさによって、それがある種の政治的価値となるまでに、それは耳を聾し、それは圧倒し、それは意気を阻喪させた。党は沈黙を守ることを余儀なくされてしまった。党に対する正真正銘の独裁体制が設立された。言い換えれば、党は党であることを止めた」。

 4月、トロツキーが、東方勤労者共産主義大学の3周年記念集会で「東方における展望と課題」と題して演説し、東方革命の展望について語る。

 5月頃、第13回党大会が開かれる直前、党首脳達はスターリンの解任を求めていたレーニンの遺書の取り扱いに苦慮していた。ジノビエフは党中央委員会でスターリンを庇い、スターリンは辞任を回避することに成功した。逆にトロツキーが糾弾され、トロツキーは自己弁護の演説を行なう。

 大会は党の一枚岩的な統一を強調した。書記局機関の事前工作に因り、大会では反対派は一人も投票権を持つ代議員には選出されなかった。

 6月、コミンテルン第5回大会開催。トロツキー起草の第5回大会の宣言が採択。しかし、大会ではトロツキー派糾弾の決議が挙げられる。また、この大会でジノヴィエフは「各国共産党のボリシェヴィキ化」を打ち出し、コミンテルン内でセクト主義的、極左的傾向が強まる。

 6月、スターリン・ジノヴィエフ・カーメネフの三頭政治にひびが入り、スターリン派が独裁体制を目指し始める。スターリンは、ジノヴィエフの「党中央委全権全能論」を批判し始めた。

 ジノヴィエフは、次のように述べていた。

 「ソヴィエト中執幹部会のソヴィエトに対する関係と『党』中央委の党に対する関係とが同じであるかにみなす奇怪な見解に賛成するわけにはいかない。これは全くまちがっている。『党』中央委が中央委たる所以は、それが『党にとってだけでなく』ソヴィエトにとっても、労組にとっても、協同組合にとっても、県執行委にとっても、全労働者階級にとっても中央委であるという点にこそある。ここにこそその指導的役割があり、ここにこそ党の独裁が表現されているのである」。

 スターリンは名指しではないがジノヴイエフ派を「『ソヴィエト体制』を『プロレタリアートの独裁』でなく、誤って『党の独裁』と規定している」と、批判した。こうして、プロレタリアート独裁論をめぐる論争が闘わされることになった。ジノヴィエフは、スターリンの批判に直ちに反論した。それは、党独裁とプロレタリアート独裁を対置するのは「手のつけられない混乱」であるというレーニンの「共産主義内の『左翼主義』小児病」に依拠したものであった。ジノヴィエフの「党中央委全権全能論」は、「ジノヴィエフは、『プロレタリア独裁の内的機構の複雑さ』という点にふれ、『この機構のいろいろの部分のあいだには一定の分業がある』とものべているが、これはあまり具体的に展開されていない」と評されているように、マルクス主義的プロレタリアート独裁論の恣意的解釈に立脚していた。この論争は、スターリン派とジノヴィエフ派が対立関係に入ったことを証するものとして歴史的意義が認められる。

 秋、トロッキーがび熱病に倒れ退陣。トロツキー派は党を除名され追放された。11ー12月、トロツキーの「10月の教訓」をめぐって、トロイカ側からの猛烈な攻撃キャンペーンが展開される(文献論争)。

 1925.1月、トロツキーが軍事人民委員を解任される。トロツキーは、「我が生涯2」の中で、次のように記している。

 「この決定は、これに先だつ抗争のうちに注意深く整えられたものだった。10月の伝統を怖れるエピゴーネンどもは、中でも、内戦の遺産を、そして軍と私の結びつきを、そのまま存続させることを懸念した。争うこともなく、むしろ肩の荷を下ろしたような気持ちで、私は軍のポストを明け渡した。私ズ、自分の目手に軍を利用しようと企図している、という当てこすりの手段を、敵対者どもから奪い去れると私は思ったのだ」。

 この頃、スターリン、明確な一国社会主義論を打ち出す。

 5月、トロツキーは、最高国民経済会議の利権委員会議長、電気技術局長官、工業科学技術局総裁に任命される。その後、利権問題、科学技術問題、品質問題、ドニエプル発電所建設、世界市場などの経済問題に精力的に取り組み、それに関連した大量の論文を執筆・発表し、新しい視野を切り開く。トロツキーにとって「政治からの休息」期間となった。

 この頃、トロツキーは監視下に置かれた。


【凄まじき権力闘争その2、ジノヴィエフ、カーメネフらの新反対派弾圧される】

 5月、コミンテルン第5回拡大執行委員会総会が開催され、各国共産党のボリシェヴィキ化路線が再度促される。

 秋 トロイカが、ジノヴィエフ、カーメネフらの新反対派(ペトログラード反対派)とスターリン、ブハーリンらの主流派に分裂。激しい分派闘争が展開される。

 12月、第14回党大会が開催された。当時既に西欧の革命運動が沈滞し、資本主義は相対的安定期に入っており、諸外国での革命の勝利は期待しえなくなっていた。そこで大会はソ連での社会主義の建設を党の根本任務であるとし、国の工業化によってその基礎を築くという方針を採択した。いわゆる一国社会主義の建設である。新反対派敗北。ブハーリン、演説の中で「亀の歩みによる社会主義建設」論を展開。又大会は、新しい党規約を採択し、党名を全連邦共産党(ボリシェヴィキ)と改めた。

 第14回党大会では、もう一つの重要な論点として書記局機構の問題があった。これをとりあげたカーメネフは、次のようにスターリン派を批判していた。

 「我々は『指導者』の理論をつくりだすことに反対であり、『指導者』をつくることに反対である。我々は、書記局が実質上政治と組織を結合して政治機関[政治局]の上にたつことに反対である」、
 「同志スターリンはボリシェヴィキ参謀本部を統合する役割を遂行し得ない」。

 だがこの論争は圧倒的多数がスターリンらを支持する。このことは単にスターリン個人によって書記局位階制が形成されたことを意味しない。スターリン的思想傾向が書記局を中心に拡大していることを意味する。したがって、書記局の性格、役割、その権能をかえないで、形式的に政治局の従属化においてもなんらの改善にもならない。政治局員を選出する中央委員会、またこれを選出する大会代議員を選出・操作する力を書記局機構がもつ限り、全く同じことであるからである。

 問題は党内の官僚主義をいかに抑制・チェックしつつ、将来的には分業への固定的隷属を解放する諸条件をいかに作り出すかということである。これは近代国家が「行政国家」として肥大化する問題、共産主義の観点からいうと、国家死滅の諸条件をいかに作り出すかという問題と相即的な問題である。

 この大会で、今度は、スターリン・ブハーリン派とジノヴィエフ・カーメネフ派が全面衝突した。ここでもジノヴィエフ・カーメネフ派は党独裁問題を自己に有利な論点として、とりあげた。しかし、スターリンは相手の論点に長々と反論したが、ついに党独裁問題にはふれなかった。ジノヴィエフらの反論がレーニンに依拠していたこと、当時、党独裁がボリシェヴィキでは常識であったことなどにより、スターリンとしても簡単には反論しにくいものであった。

 1926.1月、スターリンは、第14回党大会直後より全面的な反論を開始した。有名な「レーニン主義の諸問題によせて」を発表し、プロレタリアート独裁について次のように述べた。

 「プロレタリアートの独裁は、本質的には、プロレタリアートの前衛の『独裁』であり、プロレタリアートの基本的な指導力としての、彼らの党の『独裁』であるといっても、さしつかえないであろう」。

 これは、ジノヴィエフの「党中央委全権全能論」の見地を踏襲している。その上で、「プロレタリアートの独裁と党の独裁は、同一視できず、イコールではない」と述べていた。したがって、スターリンは、党独裁の「独裁」はすべてカッコ付きで表記し、しかもそれを「党の指導的役割」に言い換えている。そして、プロレタリアート独裁の内的機構について伝導ベルト論を展開した。


【凄まじき権力闘争その3、トロツキーとジノヴィエフ、カーメネフらが合同し抗争するも敗北する

 4月、トロツキー、ルイコフの経済案に対する修正を出し、農村上層部への課税強化を主張。合同反対派結成へ。4−5月、病気治療のためにベルリンに赴く。

 5月、イギリスでゼネスト発生。

 7月、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、クルプスカヤらの「13人の声明」が発表され、党主流派を批判。合同反対派とスターリン・ブハーリン派との公然たる党内闘争始まる。

 7.20日、ジェルジンスキーが、工業投資率を廻る論争の最中に急逝した。党中央委員会は、同志ジェルジンスキーは心臓発作の為に急逝したと簡単な発表をした。

 10月、トロツキー、ジノヴィエフ声明を発表し、一時休戦。

 12月、コミンテルン第7回拡大執行委員会総会。トロツキー、世界経済の見地から一国社会主義を批判する「演説」を行なう。

 1927.4ー5月、中国革命をめぐって分派闘争が激化。中国共産党は、スターリン派の指導により国民党に加わり、その軍隊的規律下に従わされていた。ソビエトの創設が禁じられ、労働者の武装を抑制するよう指導させられていた。

 9月、第15回大会に向け反対派の政綱が執筆され、地下出版。

 10月、中央執行委員会がレニングラードで開催され、大衆の示威運動が行われた。トロツキーは、ジノヴィエフらと共に演壇に向おうとしたところ、民兵により通行止めされた。聞きつけた大衆が押し寄せ、臨時集会となった。これは、スターリン派に恐怖を与えた。

 11.7日、10月革命10周年のこの日、モスクワ、レニングラードで反対派のデモ行進が敢行されたが、当局の仕立てたデモ隊により襲撃された。トロツキー心酔派のアドルフ・ヨッフェが自殺。





(私論.私見)