3253358 アナーキストとボルシェヴィキの結合分離

 (最新見直し2005.12.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 いずこの国の史書も、右からのものであれ左からのものであれ官制ものは史実を伝えていない。都合の良いところを抜き出し、その流れを記述する。強権的に圧殺したものは記さない。それが為に当時の実情とそぐわない記述になっても意に介さない。そう、史書は政権擁護の教本として使われるためにのみある。

 だから、そういうものを鵜呑みに学べば学ぶほど馬鹿になる。そういう鵜呑み屋が歴史家として講釈するよう体制化されている。もし本当の歴史が知りたければ、時代閉塞のキーを握りたければ、埋もれた歴史からも学ばねばならない。ここで問う「アナーキストとボルシェヴィキの結合分離」もその類のものである。とりあえずスケッチ風にしておく。今は只転載あるのみである。謝させていただく。

 2005.12.28日 れんだいこ拝


【ロシア革命に果たしたアナーキズムの役割】
 労働組合や協同組合、工場委員会や評議会(ロシア語でソビエトという)を作る動きにはアナーキストの果たした役割があった。これらの組織は当初、リコールできる代表が互いに連帯するというアナキストの流儀で組織された。アナキストたちはこの運動に参加して、あらゆる自主管理の試みを促進させた。

 フランス人将校のジャック=サドゥールは、1918年初期に次のように書いている。
 「アナキストの団体が最も活動的であり、敵対勢力に対して最も戦闘的であり、そしてたぶん最も人気があった。・・・ボルシェヴィキたちはそれを心配していた」。 [ダニエル=ゲランによる引用、Anarchism, pp.95-6]

 アナキストたちは特に、労働者による生産の自主管理運動に熱心であった。(M. Brintonの「The Bolsheviks and Workers Contro」l参照)。だが1918年初期、ボルシェヴィキ党の権力的社会主義者たちは、一旦権力を掌握すると、アナキストをライバル視し始め、力づくで弾圧するようになった。最初は、アナキストたちはボルシェヴィキを支持していた。なぜなら、革命前のボルシェヴィキの指導者たちは「ソビエト(評議会)を支持する方針」を打ち出しており、ボルシェヴィキ独裁イデオロギーをの背後に隠していたからだ。

 革命政権樹立後、ボルシェヴィキは、ソビエトに依拠した社会主義を探究するのではなく、自派権力確立に汲々とするようになった。この動きが強まるのに応じて、ボルシェヴィキへの支持が急速に色褪せていった。ボルシェヴィキは、土地や生産手段を俗流マルクス主義イデオロギーに沿って国有化を目指し始めた。

 それは同時に、労働者の自主管理運動を撲滅する道でもあった。自主管理運動が困難な環境のもとで生産を増大させるのに成功している場合であっても強行された。
レーニンは、「労働生産性を低下させかねない」という大義名分で労働者管理を弾圧した。労働者管理が確立した事例を見れば、「労働生産性を低下させる」という名分は虚偽であった。「労働者管理は生産性を低下させる」なる言辞は、資本主義擁護者たちが弄するものであり、レーニンはこの時同じ側に立っていたことになる。

 ボルシェヴィキは、労働者自主管理運動を排除する一方で、その推進母体であるアナキストたちを逮捕し、殺害し、陥れていった。そして、アナキストがとりわけ擁護している民衆の自由を制限していった。こうして、独立系の組合、政党、ストライキ権、作業場や農場の自主管理もすべてが「ボルシェヴィキ社会主義イデオロギー」によって壊滅させられた。ロシア10月革命の熱気は、ボルシェヴィキが権力を握って僅か数カ月で冷めた。「革命は死んだ」。

 国外的には、ボルシェヴィキとソビエト連邦がますます「社会主義」を代表するようになった。世界各国の左派運動は、ボルシェヴィキとソビエト連邦に憧憬していった。しかし、国内的には、連中こそがロシア10月革命の豊穣さを潰していた。リバータリアン社会主義の要素を根絶し、クロンシュタットの反乱を鎮圧し、ウクライナでは社会主義を最後の一つまで棺桶にぶちこみ、ソビエト屈服させた。

 1921.2月のクロンシュタット反乱は、アナキストにとって非常に重要であった。クロンシュタット反乱は、もう一つの社会主義の在り方を求めて立ち上がった初めての大きな反乱だった。
 「クロンシュタットは、民衆を全ての支配から解放し社会革命を実行する、最初の全く独立した運動だった。この運動は、政治的指導者なしに労働者階級自身によって直接担われたのである。リーダーも助言者もいなかった」。[Voline, The Unknown Revolutionより, ゲランによる引用, 前掲書 p.105]

 ウクライナでは、アナキスト思想の応用が最もうまくいっていた。マフノヴィスト運動の庇護下にある地域では、労働者階級人民が、自らの考えと必要に応じて自分達の生活を直接組織した。独学の農民ネストル=マフノの指導の下に、赤軍白軍双方の独裁と戦うだけでなく、ウクライナ民族主義者たちにも抵抗した。「民族自決」すなわち新しいウクライナ国家創設の呼びかけに反対して、マフノはウクライナの労働者自主管理を維持発展させ、それを全世界に広めようと呼びかけた。マフノヴィストたちは労働者農民評議会(ボルシェヴィキはそれを禁止しようとした)を組織し、また同様に自由ソビエト、組合、共同体を組織した。マフノはウクライナの「ロビン=フッド」として知られるようになった。

 マフノヴィストは次のように論じている。

 「労働者と農民の自由は彼等自身のものであり、どんな制限も受けない。労働者や農民が、どう行動するか、自分達をどう組織するか、生活のあらゆる面において彼等が何を欲し、何が適していると思うか、そういうことは労働者や農民自身が決めることである。マフノヴィストにできるのはそれを援助し、相談にのることだけだ。どんな状況下でも彼等を支配することはできないし、彼等もそんなことを望みはしない」。[Peter Arshinov, ゲランによる引用、前掲書 p.99]

 アレクサンドロフスクにおいて、ボルシェヴィキはお互いの勢力範囲を認め合おうじゃないかと提案した。ボルシェヴィキの革命委員会が政治部門を担当し、マフノヴィストは軍事部門を担当すればよい、というわけである。マフノは彼等にこう言った。

 「労働者にあんたらの意向を押し付けようとするんじゃない。とっとと帰ってもっと正直な話を持って来い」。[Peter Arshinov, The Anarchist Reader, p.141]

 マフノヴィストはボルシェヴィキによるソビエトの改悪を拒否し、代りに「権威や専制的法律のない、労働者人民による自由で完全に独立したソビエト組織」を提案した。彼等は次のように宣言する。

 「働く人々は、彼等自身の欲求や意志を実行するソビエトを自由に選べなければなない。つまりそれは、ソビエト(評議会)を支配するということではなく、自主管理するということだ」。
 「経済的には、この状態において資本主義は廃止される。職場や農地は『そこで働く人々に所属されなければならない。つまり、社会化されなければならないのだ』 」。 [The Historyof the Makhnovist Movement, p.271, p.273]

 ウクライナにおけるアナキストの自主管理実験は、血の結末を迎えることになった。ボルシェヴィキは、「白軍」や帝政主義者と共に戦ったかっての同盟者であるマフノヴィストが必要なくなると、刃を彼等に向けて来たのである。

 モスクワでアナキストのデモが最後に行われたのは、1921年にクロポトキンが死んだとき、彼の棺に続いて1万人が行進した時であり、その後は1987年になるまで跡絶えた。彼等の多くはこの日のために刑務所を保釈されてきた人々であり、後年、レーニン主義者たちによって殺される運命にあった。1921年より、アナキストたちはソビエト連邦を「国家資本主義」の国と呼ぶようになった。なぜなら、個人的なボスこそ排除されたものの、ソビエトの政府官僚が西側の個人ボスと同じ役割を果たしているからである。

 ロシア革命とアナキストが演じた役割についてもっと知りたい場合は、次の本がお勧めである。
 The Unknown Revolution by Voline (邦訳 「知られざる革命」)
 The Guillotine at Work by G.P. Maximov
 The Bolshevik Myth by Alexander Berkman
 The Russian Tragedy by Alexander Berkman
 The Bolsheviks and Worker's Control by M.Brinton
 The Kronstadt Uprising by Ida Mett
 The History of the Makhnovist Movement by Peter Arshinov

 これらの本の多くは、革命の時に活躍したアナキストによって書かれた。大抵はボルシェヴィキによって投獄され、モスクワに来たアナルコサンジカリストの代表らによる国際的圧力によって西側に追放になった。ボルシェヴィキは彼等をレーニン主義に改宗させようと説得したが、彼等の大多数は自分達のリバータリアンの方針を堅持し、彼等の組合にボルシェヴィズムを拒否することを確信させ、モスクワとの関係を絶った。1920年代初期までに、アナルコサンジカリスト組合の連合全てに、ロシアの「社会主義」は国家資本主義であり党の独裁であるとして拒否するアナキストたちが加わったのである。[FAQ目次に戻る]


【アナーキズムとボリシェヴィキとの結合から分離過程の経緯】
 宮地健一氏の「クロンシュタット1921年 ヴォーリン」、「アナーキー書評3」の「知られざる革命」(ヴォーリン著 野田茂徳・野田千香子訳 現代思潮社 1966年)その他を参照する。「知られざる革命」では次のように説明されている。
 20世紀初頭に勃発したロシア革命はボリシェヴィキだけのものだったのか? この問いに否をつきつけるものとして本著がある。ヴォーリンはウクライナ農民の自由革命の先鋭としてたちあらわれたマフノヴィチナ(マフノ運動)の参謀役的存在として活動したアナキスト。と、彼の著作は当然、ボリシェヴィキ一色に塗り込められたロシア革命評価に、アナキズムや他の自由を求める運動を世に問うこととなる。原著では三部構成になっているが、訳書では第三部を全訳したものである。

 クロンシュタット叛乱は反革命ではなく反権力主義の人民の自由革命であったことから説き起こし、現在なおロシア近現代史の評価から取り残されているマフノ運動を叙述すること、これがその第三部のすべてであり、貴重な仕事となっている。ヴォーリン自身は自覚したアナキストであったが、彼自身述べているように、「アナキストがあまりいなかった」ロシアにおいて闘われた人民の革命それ自体が、系譜なきアナキズムのそれとなっていることを、図らずもこの本で照出した。

 ヴォーリンは決してアナキストが正しいなどとは言わない。人民の革命のなかに広がる名もなきアナキズム、これを恬淡と叙述するその姿勢がかえってアナキズムびいきの心を強くするだろう。

 1945年、肺結核に冒され、余命幾ばくもないなかパリで書き上げられたこの「知られざる革命」は2年後にようやく出版されが、ヴォーリンはすでに他界していた。 (noiztrakcer)

 
セクション A - アナキズムとは何か?」の「A.5. 4 ロシア革命のアナキストたち」を参照する。ロシア革命に果たしたアナーキストの役割が次のように解説されている。
 1917年のロシア革命で、ロシアにおけるアナキズムは大きく成長し、アナキズム思想に関する多くの実験を目にすることになった。しかし、一般的には、ロシア革命は、普通の人々が自由を求めて闘った大衆運動ではなく、レーニンがロシアに自分の独裁制を押し付ける手段だったと見なされている。真実は根本的に異なっている。ロシア革命は下からの大衆運動であった。多くの思想潮流が存在し、数百万という労働者(都市や町の労働者だけでなく農民も)が世界をより良い場所に変えようとしていた。悲しいかな、そうした希望と夢はボルシェヴィキ党の−−最初はレーニンの、後にスターリンの−−独裁下で粉砕されてしまったのである。

 大部分の歴史もそうだが、ロシア革命は「歴史は勝者によって書かれる」という格言の良い見本である。資本主義者による歴史の大部分では、1917年から1921年までの、アナキストのヴォーリンが言うところの「知られざる革命」を−−普通の人々の行動によって下から生じた革命を−−無視している。レーニン主義者の説明は、せいぜい、労働者の自律的活動を賞賛している程度であり、それも党の路線と一致している時だけのことであった。党の路線から逸れるやいなや、徹底的に労働者の活動を非難している(そして、それを下劣な動機のせいだとしているのである)。つまり、レーニン主義者の説明は、労働者がボルシェヴィキに先んじているとき(1917年の春と夏のように)には労働者を賞賛するが、ボルシェヴィキが権力を握り、労働者がボルシェヴィキの政策に反対するようになると労働者を非難するのである。さらに悪い場合、レーニン主義者の説明は、大衆運動・大衆闘争を、前衛党の活動の背景に過ぎないと表現しているのである。

 だが、アナキストからすれば、ロシア革命は社会革命の典型例である。そこでは、労働者の自主活動が重要な役目を果たしていた。ソヴィエトや工場委員会などの階級組織によって、ロシア大衆は、階級に支配されたヒエラルキー型国家主義体制の社会から、自由・平等・連帯に基づいた社会へと変換しようとした。このように、革命の最初の数ヶ月は、次のバクーニンの予測を確認していたと思われる。
 『未来の社会組織は、労働者の自由提携や自由連合によってもっぱら下から上へと作られねばならない。当初は組合で、そしてコミューン・地方・全国へ、最後に、国際的で全世界的な大連合へと。』[Michael Bakunin: Selected Writings, p. 206]

 ソヴィエトと工場委員会は、バクーニンの思想を正しく表現し、アナキストはこの闘争で重要な役割を果たしたのだった。

 
次のようにも解説している。
 言うまでもなく、全ての政治政党と政治組織がこのプロセスで一つの役割を果たしていた。マルクス主義社民の二つの党派(メンシェヴィキとボルシェヴィキ)が、社会革命党(農民を支持基盤にした大衆主義政党)とアナキスト同様に活動的だった。アナキストはこの運動に参加し、あらゆる自主管理の傾向を勇気づけ、臨時政府を転覆するよう熱心に説得した。革命を純粋に政治的なものから経済的・社会的なものへと変換することが必要だと主張したのである。レーニンが国外追放から戻ってくるまで、こうした路線で考えていた政治傾向はアナキズムだけだった。

 レーニンは自分の党が『あらゆる権力をソヴィエトへ』というスローガンを採択するように説得し、革命を前進させた。これは、それまでのマルクス主義の立場からハッキリと分岐することを意味していた。元ボルシェヴィキでメンシェビキに転向した人が批判していたように、レーニンは『三十年間空っぽだった欧州の玉座に立候補したのである−−バクーニンの玉座に!』[Alexander Rabinowitch, Prelude to Revolution, p. 40]

 ボルシェヴィキは今や方向転換し、大衆の支持を勝ち取り、直接行動を擁護し、大衆の急進的行動を支援し、それまではアナキズムに関連していた様々な政策を支持したのである(『ボルシェヴィキは、それまでアナキストが特に繰り返し表明していたスローガンを掲げ始めた。』[Voline, The Unknown Revolution, p. 210])。すぐに、ボルシェヴィキはソヴィエトと工場委員会の選挙で多くの票を勝ち取るようになった。アレクサンダー=バークマンは次のように述べている。
 『ボルシェヴィキが声高に述べていたアナキストのモットーは、確実に結果を出していた。大衆はボルシェヴィキの旗を信頼したのだった。』[What is Anarchism?, p. 120]

 これによれば、レーニン主義革命が成功したのは、レーニンがアナーキズムの甘心を買う政策を打ち出し、アナーキストを陣営に引き入れた故にボリシェヴィキ革命が進展したことになる。

 アナーキストの実力について次のように語られている。
 当時、アナキストも影響力を持っていた。アナキストは、工場委員会を中心とする生産の労働者自主管理運動において特に活動的だった(詳細は、モーリス=ブリントン著「ボルシェヴィキと労働者管理 The Bolsheviks and Workers Control」を参照)。アナキストは、労働者と農民が有産階級を収用し、あらゆる形態の政府を廃絶し、自分たちの階級組織−−ソヴィエト・工場委員会・協同組合など−−を使って社会を下から再組織するように主張していた。アナキストは闘争の方向性にも影響を与えることができていた。アレクサンダー=ラビノビッチは(1917年7月蜂起の研究で)次のように述べている。
 一般大衆レベルでは、特に(ペトログラードの)守備隊とクロンシュタットの海軍基地の中では、ボルシェヴィキとアナキストの区別は事実上ほとんどなかった。無政府共産主義者とボルシェヴィキは、無学で元気がなく不満を抱えた同じ人口層の人々から支持を得ようと争っていた。そして事実はといえば、1917年の夏に、無政府共産主義者は、幾つかの重要な工場と連隊で享受していた支持と共に、紛れもなく出来事の方向性に影響を与えるだけの力を持っていたのだった。実際、アナキストのアピールは、幾つかの工場と軍隊においては、ボルシェヴィキ自体の行動に影響を与えるのに充分なほど大きかったのである。[前掲書, p. 64]

 実際、一人の主導的ボルシェヴィキ党員は、1917年6月に(アナキストの影響力の高まりに対して)次のように述べていた。
『自分たちをアナキストから引き離すことは、自分たちを大衆から引き離すことになってしまいかねない。』[Alexander Rabinowitch, 前掲書, p. 102で引用]


 ここまでが、ボリシェヴィキとアナーキストの結合である。この結合は、ロシア10月革命後分離に向うことになる。その事情は次のようなものであった。

 アナキストは10月革命でボルシェヴィキと共に行動し、臨時政府を転覆した。しかし、一旦、ボルシェヴィキ党の権威主義的社会主義者が権力を握ると、事態は一変した。アナキストもボルシェヴィキも多くの場合同じスローガンを使っていたものの、二つの勢力の間には重大な違いがあった。ヴォーリンは次のように論じていた。
 『アナキストの口と筆から出るスローガンは誠実で具体的だった。なぜなら、アナキストの原則に一致し、そうした原則に完全に合致した行動を呼びかけていたからである。だが、ボルシェヴィキの場合、同じスローガンは、リバータリアンのスローガンとは全く異なる現実的解決策を意味しており、スローガンが表現していると思われる思想とは一致していなかったのである。』[The Unknown Revolution, p. 210]

 例えば、「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンを考えてみよう。アナキストにとって、これは、正に文字通りのこと−−任務を命じられたリコール可能な代理人を基礎とし、直接的に社会を運営する労働者階級の組織−−を意味していた。ボルシェヴィキにとって、このスローガンは、ソヴィエトの上にボルシェヴィキ政府を作り出す手段でしかなかった。この違いは重要である。
 『アナキストが宣言したように「権力」が本当にソヴィエトに属すのならば、それがボルシェヴィキ党に属すことなどあり得ず、ボルシェヴィキが想像しているようにボルシェヴィキ党に属すのであれば、ソヴィエトに属すことなどあり得ないのである。』[Voline, 前掲書, p. 213]

 ソヴィエトを中央集権(ボルシェヴィキ)政府の布告を実行するだけの機関へと変形し、政府(つまり、現実の権力を持っている人々)を全ロシア−ソヴィエト会議がリコールできるようにしたところで、「あらゆる権力」は平等にはならない。全く逆なのだ。

 「生産の労働者管理」という言葉も同じである。10月革命以前に、レーニンは『労働者管理』を単に『資本家よりも優れた、普遍的で包括的な労働者管理』という点で見なしていた [Will the Bolsheviks Maintain Power?, p. 52]。工場委員会の連合を通じた労働者による生産管理それ自体(つまり賃労働の廃絶)として見てはいなかったのである。アナキストと労働者工場委員会はそのように見なしていた。S=A=スミスは正しく記しているが、レーニンは『この言葉(労働者管理)を工場委員会が使っている意味とは全く別の意味で』使っていたのである。実際、レーニンの『提案は、特徴として、徹底的に国家主義で中央集権主義だった。一方、工場委員会の実践は本質的に現場主義で自律的だったのである。』[Red Petrograd, p. 154]

 アナキストにとって、『労働者組織が(ボスよりも)効果的な管理を行うことができるならば、労働者組織はあらゆる生産を請け負うこともできる。その場合、民間産業の撤廃を即座に漸次的に行い、それを集団的産業に置き換えることができるだろう。従って、アナキストは、「生産の管理」という曖昧で不明瞭なスローガンを拒否したのである。アナキストが支持したのは集団的生産組織による民間産業の−−漸次的だが即時の−−収用であった。』[Voline, 前掲書, p. 221]

 一旦権力を握ると、ボルシェヴィキは、労働者管理が持つ大衆的意味合いを組織的に弱体化させ、自分たちの国家主義概念に置き換えていった。ある歴史家は次のように書いている。
 『ソヴィエト権力の最初の数ヶ月間で三度、(工場)委員会の指導者たちは自分たちのモデルを現実のものにしようとした。それぞれの地点で、党指導部は彼等の発言を封じた。その結果、経営権限と管理権限の双方を、中央当局に従属し中央当局が作り出した様々な国家機関に与えることになったのである。』[Thomas F. Remington, Building Socialism in Bolshevik Russia, p. 38]

 このプロセスのために、結局レーニンは、1918年4月に(国家が上から指名した経営者を使った)「独裁的」権力で身を固めた「ワンマン経営」に賛同し、それを導入したのだった。このプロセスは、モーリス=ブリントン著「ボルシェヴィキと労働者管理 The Bolsheviks and Workers' Control」に記録されている。この本は、同時に、ボルシェヴィキの実践とそのイデオロギーとの明確な繋がりを示しているだけでなく、それが民衆活動や民衆思想とどれほどかけ離れているのかをも示している。

 ロシアのアナキスト、ピーター=アルシーノフは次のように批評している。
 同様に、もう一つの重要な特徴は、1917年の10月革命は二つの意味があったということだ。社会革命に参加した労働者大衆、そして彼等と共にいた無政府共産主義者が一つの意味を与えた。もう一つの意味は、社会革命の情熱から権力を奪い、そこから先の十全な発展を裏切り、革命の息の根を止めた政治政党(マルクス主義共産主義者)が与えた。10月に関するこれら二つの解釈は大きく隔たっている。労働者と農民の10月は、平等と自主管理の名において寄生階級の権力を鎮圧することである。ボルシェヴィキの10月は革命的インテリゲンチャ政党による権力略取、そして「国家社会主義」と大衆を支配する「社会主義的」方法の導入である。[The Two Octobers]

 当初、アナキストはボルシェヴィキを支持していた。なぜなら、ボルシェヴィキはその国家構築イデオロギーを隠してソヴィエトを支持していたからである(社会主義の歴史家サミュエル=ファーバーは、アナキストは『現実に、10月革命におけるボルシェビキの無名の同盟パートナーだった』[Before Stalinism, p. 126] と書いている)。だが、この支持はすぐに萎んでしまった。ボルシェヴィキが、実際には真の社会主義を求めてはおらず、逆に自分たちのために権力を確保しようとしており、土地と生産資源の集団所有ではなく、政府所有を要求していたことがハッキリしたからである。既に述べたとおり、ボルシェヴィキは労働者管理・自主管理運動を組織的に弱体化させ、「独裁的権力」で身を固めた「ワンマン管理」を基盤とした資本主義型仕事場管理形態を望ましいとしたのである。

 ソヴィエトに関して言えば、ボルシェヴィキは、ソヴィエトの独立性と民主主義を律していたものを組織的に弱体化させた。1918年の春と夏の『ソヴィエト選挙におけるボルシェビキの大敗』を受けて、『ボルシェヴィキの軍隊は、大抵、そうした地方選挙の結果を転覆した。』同時に、『1918年3月に終わる任期中、政府はペトログラードソヴィエトの総選挙を絶えず延期していた。明らかに、政府は野党が票を多く獲得することを恐れていたのだった。』[Samuel Farber, 前掲書, p. 24, p. 22]

 ペトログラードの選挙で、ボルシェビキは『それまで享受していたソヴィエトでの過半数を失った』が、なおも最大の政党であり続けていた。しかし、ペトログラードソヴィエトの選挙結果は無意味だった。
 『ボルシェヴィキが圧倒的な強さを持っていた労組・地区ソヴィエト・工場委員会・地区労働者会議・赤軍部隊・海軍部隊にかなりの数の代表がおかれ、ボルシェヴィキの勝利が保証されていた』からである [Alexander Rabinowitch, "The Evolution of Local Soviets in Petrograd", pp. 20-37, Slavic Review, Vol. 36, No. 1, p. 36f] 。

 つまり、ボルシェヴィキは、自分たちの代理人でソヴィエトを圧倒することで、ソヴィエトが持つ民主的性質の土台を崩したのである。ソヴィエトで拒否されそうになって、ボルシェヴィキは自分たちにとって「ソヴィエト権力」は党の権力なのだということを示したのである。権力の座に留まるために、ボルシェヴィキはソヴィエトを破壊せねばならなかった。そして、破壊したのだ。ソヴィエトシステムは、名前だけの「ソヴィエト」にされた。事実、1919年以降、レーニンやトロツキーなどの主導的ボルシェヴィキは、自分たちが党の独裁を創り上げたことを認め、それ以上に、そうした独裁はいかなる革命にとっても必須のものだと認めたのだった(トロツキーは、スターリニズムの勃興後であっても党の独裁を支持していた)。

 さらに、赤軍はもはや民主的組織ではなかった。1918年3月に、トロツキーは将校と兵士の委員会の選挙を廃止した。
 選挙の原理は政治的に無益であり、技術的に不適当であり、これまでも現実に法令によって廃止されてきた。[Work, Discipline, Order]

 モーリス=ブリントンは正しく次のように要約している。
 ブレスト−リトフスク講和の後に軍事コミッサールに任命されたトロツキーは、すぐに赤軍を再編成した。不服従に対する死刑は、それまでは非難されていたが、復活した。さらに段階的に、将校は、敬礼・特別な敬称・別個の兵舎といった特権を持つようになった。将校の選挙を含む民主的組織形態は、すぐさま撤廃されたのである。[The Bolsheviks and Workers' Control, p. 37]

 驚くなかれ、サミュエル=ファーバーは次のように記している。
 『レーニンなどのボルシェヴィキ本流の指導者が、労働者管理の喪失やソヴィエトにおける民主主義の喪失を嘆いたという証拠はなく、少なくとも、レーニンが1921年に戦時共産主義がNEPに置き換えられたときに明言したように、こうした喪失を後退だとして言及したという証拠もない。』[Before Stalinism, p. 44]

 10月革命後に、アナキストはボルシェヴィキ体制を非難し、あらゆるボス(資本主義であれ社会主義であれ)から大衆を最終的に自由にする「第三革命」を呼びかけ始めた。アナキストは、ボルシェヴィズムのレトリック(例えば、レーニンの「国家と革命 State and Revolution」に書かれているような)とその現実との根本的矛盾を暴露した。権力を持ったボルシェヴィズムは、バクーニンの予言を証明した。『プロレタリア階級の独裁』は、共産党指導部による『プロレタリア階級に対する独裁』になったのだ。

 アナキストの影響力は強くなり始めていた。フランス人将校のジャック=サドゥールは、1918年初頭に次のように書いている。
 野党の中で、アナキスト団体が最も活動的で、最も戦闘的であり、多分、最も人気があると思われる。ボルシェヴィキは不安なのだ。[Daniel Guerin, Anarchism, pp. 95-6で引用]


 遂に、ボリシェヴィキは、革命の同盟軍であったアナーキスト弾圧に転じた。次のように記されている。
 1918年4月、ボルシェヴィキは競争相手であるアナキストを物理的に弾圧し始めた。1918年4月12日、チェカ(1917年12月にレーニンが創設した秘密警察)がモスクワのアナキストセンターを攻撃した。他の都市にいるアナキストもその後すぐに攻撃された。左翼にいる最もうるさい敵を弾圧すると同時に、ボルシェヴィキは、自分たちが守っていると公言している大衆の自由を制限し始めた。民主的ソヴィエト・言論の自由・敵対する政治政党や政治団体・仕事場や大地での自主管理−−これら全てが、「社会主義」の名の下に破壊された。強調しなければならないが、これら全てが起こったのは、1918年5月終わりに内戦が始まるだったのだ。レーニン主義支持者の大部分はボルシェヴィキの権威主義を非難した。内戦中、この過程は加速し、ボルシェヴィキはあらゆる方面の反対者を組織的に弾圧した。権力を握ればその「独裁」を行使すると公言していた正にその階級のストライキや抗議行動をも弾圧したのだ!

 この過程が内戦勃発よりもずっと前に始まっていたことは強調されねばならない。これは「労働者の国家」など言葉の矛盾だというアナキズム理論を追認している。ボルシェヴィキが労働者の権力を党の権力に置き換えたこと(そして、この二つが闘争したこと)を、アナキストは驚きはしなかった。国家とは権力の委任である。つまり、「労働者の権力」を発現する「労働者の国家」という考えは論理的に不可能なのである。労働者が社会を運営しているのならば、権力は労働者の手にある。国家が存在するならば、権力は、万人の手ではなく、トップにいる一握りの人々の手の中にある。国家は少数者支配のために設計されている。この基本的性質・構造・設計のために、いかなる国家も労働者階級(つまり、大多数)自主管理の機関にはなり得ないのだ。だからこそ、アナキストは、労働者評議会からなる下からの連合に賛同しているのである。これが革命の媒体であり、資本主義と国家が廃絶された後に社会を管理する手段なのである。

 ロシアにいるアナキストがボルシェヴィキ体制に反対し始めたのは1918年のことだった。アナキストはこの新しい「革命的」体制に弾圧された初めての左翼グループだった。ロシアの外では、アナキストはボルシェヴィキを支持し続けていた。だがそれもボルシェヴィキ体制の抑圧的性質についてアナキスト情報筋からニュースが来るまでのことだった(その時まで、多くの人々は、資本主義賛同の情報筋からのものだとしてネガティブな報道を軽視していた)。信頼できる報道がやってくると、世界中のアナキストはボルシェヴィズムとその政党権力と弾圧システムを否定した。ボルシェヴィズムの経験は、次のバクーニンの予測を確認したのである。つまり、マルクス主義とは『本物の学者や偽学者からなる極少数の新興貴族階級が行う高度に専制的な大衆支配』を意味する。『民衆が学習しなければ、政府の世話から解放されても、統治される群衆の中に丸ごと包含されてしまうだろう。』[Statism and Anarchy, pp. 178-9]

 1921年以来、ロシア外部のアナキストはUSSRを「国家資本主義」の国だと述べるようになった(ロシア内部のアナキストは1918年以来このように呼んでいた)。個々のボスはいなくなったかも知れないが、西側で個々のボスが行っているのと同じ役割をソヴィエト国家官僚制が果たしているからである。アナキストにとって、『ロシア革命は経済的平等を達成しようとしている。この取り組みは、強力な中央集権主義政党の独裁下にあるロシアで行われているが、一党独裁の鉄則下での強力な中央集権国家共産主義を基に共産主義共和国を建設しようというこの取り組みが失敗に終わるのは必至である。我々は、ロシアにおいて共産主義がどれほど導入されていないのかを理解し始めているのだ。』[Anarchism, p. 254]

 ロシア革命とアナキストが果たした役割に関するさらに多くの情報は、このFAQの付録「ロシア革命」を参照していただきたい。付録では、クロンシュタット蜂起とマフノ主義だけでなく、この革命が失敗した理由・この失敗にボルシェヴィキのイデオロギーが果たした役割・ボルシェヴィズムに対する代案の存在についても論じている。

 以下の本もお薦めである。ヴォーリン著「知られざる革命 The Unknown Revolution」・G=P=マキシーモフ著「稼働中のギロチン The Guillotine at Work」・アレクサンダー=バークマン著「ボルシェヴィキの神話 The Bolshevik Myth」と「ロシアの悲劇 The Russian Tragedy」・モーリス=ブリントン著「ボルシェヴィキと労働者管理 The Bolsheviks and Workers Control」・イダ=メット著「クロンシュタット蜂起 The Kronstadt Uprising」・ピーター=アルシーノフ著「マフノ主義運動史 The History of the Makhnovist Movement」・エマ=ゴールドマン著「ロシアに対する私の幻滅 My Disillusionment in Russia」と「自叙伝 Living My Life」。

 これらの本の多くを書いたのは、ロシア革命時に活躍したアナキストである。大抵はボルシェヴィキによって投獄され、西側に追放になった。追放で済んだのは、モスクワに来たアナルコサンジカリストの代表団が国際的圧力を掛けてくれたおかげであった。ボルシェヴィキはアナルコサンジカリストをレーニン主義に引き入れるべく説得しようとしていた。だが、代表団の大部分はリバータリアン政治に忠実であり続け、ボルシェヴィズムを拒否するように自分たちの組合を説得し、モスクワとの関係を絶った。1920年代初頭までに、全てのアナルコサンジカリスト組合連合がアナキストと一緒になって、ロシアの「社会主義」は国家資本主義であり党の独裁であるとして拒否したのだった。

【アナーキズムとボリシェヴィキの思想的確執】
 ボルシェヴィキが民衆労働者階級政党から労働者階級に対する独裁者へと堕落したのは偶然ではなかった。国家権力の現実と政治思想の結合(そして、それが生み出す社会関係)は、こうした堕落を生み出さずにはいられなかった。前衛主義・自発性の恐怖・政党権力と労働者階級権力との同一視を伴うボルシェヴィズム政治思想は、必然的に、この政党が、それが代表していると公言している人々と衝突するということを意味していた。結局、この政党が前衛であれば、自動的に、他の人々は「後衛」になる。つまり、労働者階級がボルシェヴィキの政策に抵抗したり、ソヴィエト選挙でボルシェヴィキを拒否したりすれば、労働者階級は「動揺して」おり、「プチブル」と「後衛」分子に影響されていると解釈される。前衛主義はエリート主義を生みだし、国家権力と結合して独裁になるのである。

 アナキストは常に強調しているが、国家権力とは、権力を少数者の手に委ねることを意味する。このことは自動的に社会における階級分断を生み出す。権力を持つものと持たないものの分断である。従って、ボルシェヴィキは、一旦権力を握ると、労働者階級から分離したのである。ロシア革命は、マラテスタの次の主張を確認したのだ。
 『政府とは、法制定を委任され、個々人を法に従うようにさせる集団的権力を使用する権限を与えられた一群の人々であり、既に特権階級であり、民衆から分離している。いかなる当局機関もそうするだろうが、政府は本能的にその権力を拡大し、民衆による管理を凌駕し、政府の政策を押し付け、政府の特殊利権を優先しようとする。特権的立場におかれることで、政府は既に民衆と対立する。民衆の長所は政府によって処分されてしまうのだ。』[Anarchy, p. 34]

 ボルシェヴィキが構築したような高度に中央集権型の国家は、説明責任を最小限に抑え、同時に、支配者と非支配者との分離を加速する。大衆はもはやインスピレーションと権力の源泉ではなく、「規律」(つまり、命令に従う能力」)が欠如し、革命を危機に陥れいる異質な集団だと見なされてしまう。ロシアのあるアナキストは次のように述べていた。
 プロレタリア階級は国家によって徐々に奴隷にされている。民衆は、新しく勃興した行政者階級の召使いに変えられている。この新しい階級が主としていわゆるインテリゲンチャの母胎となっている。だからといって、ボルシェヴィキ党が新しい階級システムを創り出すことを目差していたと述べているのではない。最良の意図と情熱も中央集権型権力システムに内在する諸悪によって必ず粉砕される、と述べているのだ。経営者と労働者との分離、管理職と労働者との分断は、中央集権化と論理的に直結しているのである。[The Anarchists in the Russian Revolution, pp. 123-4]

 この理由で、アナキストは、労働者階級内部での政治思想の発展が一様ではないことに同意しながら、「革命家」が労働者のために権力奪取するべきだという考えを拒否する。労働者が自分たちで実際に社会を運営するときにのみ、革命は成功する。アナキストにとって、これは次のことを意味している。
 『有効な解放を達成できるのは、労働者自身の直接的で広範囲に及ぶ自主的な行動によってのみである。労働者は、具体的な行動と自治を基盤とした自分たち自身の階級組織でまとまり、革命家によって支配されるのではなく、支援される。革命家は、大衆の上ではなく大衆のただ中で、専門職・技術職・防衛などの各部門で活動するのである。』[Voline, 前掲書, p. 197]

 労働者権力を党の権力で置き換えることで、ロシア革命は最初の致命的ステップを踏んだ。ロシアにいるアナキストが次に(1917年11月以降に)何が起こるか予測したことが現実になったのは驚くに当たらない。
 自分たちの権力が強化され、「合法化され」るならば、ボルシェヴィキ(中央集権主義で権威主義の行動を行う人々)は、中央によって課せられた政府の独裁的方法を使って、この国と民衆の生活を再整理し始めるだろう。ボルシェヴィキは、全ロシアに党の意志を指示し、全国に命令を出すだろう。君たちのソヴィエトやその他の様々な地元組織は、次第に、中央政府の意志を伝える単なる実行機関になってしまうだろう。労働者大衆による健康的で建設的な仕事に代わり、下からの自由結合に代わり、権威主義的・国家主義的装置の導入を目にすることになろう。これは、上から作用し、圧制を使って立ちはだかるもの全てを一層しようとするであろう。[Voline, 前掲書, p. 235による引用]

 いわゆる「労働者の国家」は参加型のものにも、労働者階級人民に権能を与えるもの(マルクス主義者はそのように主張していた)にもなり得なかった。理由は単純だ。国家構造はそのようになるように作られていないからだ。少数派支配の道具として作られているため、国家構造を労働者階級を解放する手段へと転換することは(また、解放の手段となる「新しい」構造を創り出すことも)不可能である。クロポトキンが述べていたように、アナキストは『国家組織は、少数者が大衆に及ぼす権力を確立し組織化する勢力なのだから、こうした特権を破壊する働きをする勢力にはなり得ない、と主張する。』[Anarchism, p. 170] 1918年に書かれたアナキストのパンフレットの言葉を引用しよう。
 ボルシェヴィズムは、日に日に、一歩一歩、国家権力が不可分の特徴を持っていることを証明している。その名前・その「理論」・その従者を変化させることはできるが、本質的に新しい形態の権力であり、専制政治であることには何ら変わりはないのだ。[Paul Avrich, "The Anarchists in the Russian Revolution," pp. 341-350, Russian Review, vol. 26, issue no. 4, p. 347で引用]

 内部にいる者にとっては、ボルシェヴィキが権力を掌握して数カ月で革命は死んだ。外の世界に対しては、ボルシェヴィキとUSSRが「社会主義」を代表するようになった。たとえそれが本当の社会主義の基盤を組織的に破壊していたとしても。ソヴィエトを国家機構に変換することで、ソヴィエト権力を政党権力に取り替えることで、工場委員会の土台を破壊することで、軍隊と仕事場の民主主義を排除することで、政治的敵対者と労働者の抗議行動を弾圧することで、ボルシェヴィキは労働者階級を労働者階級自身の革命から効果的に排除したのである。ボルシェヴィキのイデオロギーと実践とは、それ自体で、革命の堕落と最終的なスターリン主義の勃興に関わる重大な要因であり、時として決定的な要因になっていたのだった。

 アナキストが数十年前に予測していたように、内戦開始以前の数ヶ月間で、ボルシェヴィキの「労働者の国家」は、他の国家と同じように、労働者階級に対する権力となり、労働者とは縁もゆかりもなくなり、少数者支配(この場合は党による支配)の道具となった。内戦がこの過程を加速させ、すぐに党の独裁体制が導入された(実際に、指導的なボルシェヴィキは、党の独裁はいかなる革命でも必須であると論じ始めた)。ボルシェヴィキは自国内でリバータリアン社会主義者を鎮圧した。クロンシュタットの蜂起とウクライナのマフノ主義運動を粉砕することで、社会主義にとどめを刺し、ソヴィエトを征服したのである。


【クロンシュタット蜂起とアナーキズムの関係】

 1921年2月のクロンシュタット蜂起は、アナキストにとって莫大な重要性を持っている(この蜂起に関する十全な議論については、付録の「クロンシュタット叛乱とは何だったのか?」を参照)。1921年2月、ペトログラードでストライキをしている労働者を支援すべく、クロンシュタット水兵が蜂起した。彼等は十五項目の決議を掲げ、その第一項目はソヴィエト民主主義の要求であった。ボルシェヴィキはクロンシュタット叛乱を反革命だと中傷し、叛乱を粉砕した。アナキストにとってこれは重大であった。内戦という観点ではこの弾圧を正当化することなどできず(内戦は数ヶ月前に終わっていたのだから)、また、この叛乱は「真の」社会主義を求めた普通の人々の大規模な蜂起だったからである。ヴォーリンは次のように述べている。
 クロンシュタットは、民衆があらゆる拘束から自分自身を解放し、社会革命を実行しようとする全く初めての独自の試みだった。これは労働者大衆が自身で直接行ったのだ。政治的羊飼い、つまり指導者や助言者などいなかったのである。これは、第三革命、社会革命への第一歩だったのだ。[Voline, 前掲書, pp. 537-8]


【ウクライナに於けるマフノ主義運動】

 ウクライナでは、アナキズム思想が最も上手く応用されていた。マフノ主義運動の庇護下にある地域では、労働者階級の民衆が自らの考えと必要に応じて自分たちの生活を直接組織していた。これこそが真の社会自決である。独学の農民ネストル=マフノの指導の下、この運動は赤と白双方の独裁と戦うだけでなく、ウクライナ民族主義者にも抵抗した。「民族自決」すなわち新しいウクライナ国家創設の呼びかけに反対して、マフノはウクライナと全世界の労働者階級自決を呼びかけた。マフノは仲間の農民と労働者に真の自由のために闘うよう鼓舞したのだった。
 征服するか死ぬか−−これこそが、この歴史的瞬間に、ウクライナ農民と労働者が直面しているジレンマである。だが、我々は、過去数年間の失敗を、新しい主人の手に運命を委ねるという失敗を繰り返すために征服するのではない。我々が征服するのは、自分の運命を自分の手でつかむためであり、自分自身の意志と、真実に関する自分自身の観念に従って、自分自身の生活を行うためなのである。[Peter Arshinov, History of the Makhnovist Movement, p. 58で引用]

 この目的を保証するために、マフノ主義者は自分たちが解放した町と都市に政府を樹立せず、自由ソヴィエトを創設させた。そのことで、労働者は自治できたのだった。アレクサンドロフスクの例を見てみよう。マフノ主義者がこの都市を解放すると、彼等は『即座に、労働者に会議に参加するように勧めた。労働者がこの都市の生活を組織し、自分たち自身の力と自身の組織で工場の機能を編成するように提案された。最初の会議の後、すぐに次の会議が行われた。労働者による自主管理の原則に従って生活を組織するときの問題点が吟味され、労働者大衆によって活発に議論された。労働者大衆は皆、自主管理の考えを最大の熱意を持って歓迎した。鉄道労働者が第一歩を踏み出した。彼等は、この地方の鉄道ネットワークを組織する責任を持った委員会を組織した。この段階から、アレクサンドロフスクのプロレタリア階級は、自主管理の諸機関を創設するという問題に組織的に目を向け始めたのだった。』[前掲書, p. 149]

 マフノ主義者は次のように論じていた。

 『労働者と農民の自由は彼等自身のものであり、どんな制限も受けはしない。自分たちに適しており望ましいと思うように行動し、自分たちの組織を作り、生活の全面でお互いに合意しあうこと、これは労働者や農民自身にお任せすればよい。マフノ主義者にできるのは支援することと、相談にのることだけだ。どんな状況下でも、彼等を支配することはできないし、そんなことを望みはしないのだ。』[Peter Arshinov, Guerin, 前掲書, p. 99で引用] アレクサンドロフスクにおいて、ボルシェヴィキはマフノ主義者に互いの活動範囲について提案した。ボルシェヴィキのレヴコム(革命委員会)が政治的業務を担当し、マフノ主義者は軍事業務を担当すればよい、というわけである。マフノは彼等に助言した。『労働者に奴等の意向を押し付けるなんてやめて、もっとまともな仕事をしに行ったらどうだ。』[Peter Arshinov in The Anarchist Reader, p. 141]

 同時に、マフノ主義者は自由農業コミューンを組織した。

 これは『確かに、数は多くなく、少数の人々だけが参画していた。しかし、最も素晴らしかったことは、貧しい農民だけでこうしたコミューンを作っていたことだった。マフノ主義者は農民にいかなる圧力も加えず、自由コミューンの思想を宣伝することだけに自分の役割を限定していた。』[Arshinov, History of the Makhnovist Movement, p. 87]

 マフノは地主貴族の財産を廃絶する上で重要な役割を果たした。地元のソヴィエトとその地区会議・地方会議が、農民コミュニティの全区画で土地の使用を平等にしたのだった [前掲書, pp. 53-4]。

 それ以上に、マフノ主義者は時間とエネルギーを割いて、革命の発展・軍事活動・社会政策に関する議論に全住民が参加するようにした。彼等は、政治的・社会的問題だけでなく自由ソヴィエト・労組・コミューンといったことを論じるために、労働者・兵士・農民の代理人たちの会議を何度となく開催した。アレクサンドロフスクを解放した際には、農民と労働者の地方会議を開催した。マフノ主義者が1919年4月に農民・労働者・反政府活動家の第三回地方会議を開催しようとしたとき、そして、1919年6月に幾つかの地方で臨時会議を開催しようとしたとき、ボルシェヴィキはこれらの会議を反革命だと見なし、禁止しようとし、法律に違反しているとしてそのオルガナイザーと代理人を公表した。

 マフノ主義者は、これらの会議を開催することでボルシェヴィキに応じ、次のように問うていた。

 『数人の自称革命家が作った法律など、自称革命家よりももっと革命的な民衆全体を追放できるようにする法律など、存在しうるのか?』そして『革命が防衛しなければならないのは誰の利益なのか?党の利益か?それとも、自分の血で革命を動かしている民衆の利益なのか?』マフノ自身は次のように述べていた。『自分たち自身の根拠で会議を招集し、自分たちの事柄を議論することは、労働者と農民が持つ不可侵の権利であり、革命によって勝ち取られた権利だと思う。』[前掲書, p. 103 and p. 129]

 さらに、マフノ主義者は『言論・思想・出版・政治結社の自由という革命的原理を十全に採用した。マフノ主義者が占拠した全ての都市や町で、彼等は、あらゆる禁止事項を撤廃し、某かの権力によって報道機関と政治組織に課せられていたあらゆる制限を破棄し始めた。』実際、『民衆に対する独裁を強制しようとする「革命委員会」の形成を禁止すること、マフノ主義者が考えた唯一の制限はこれであり、ボルシェヴィキ・社会革命党左派・その他の国家主義者たちに課す必要があると見なされたのだった。』[前掲書, p. 153, p. 154]

 マフノ主義者はボルシェヴィキによるソビエト改悪を拒否し、代りに『権威や独断的法律のない、労働者の自由で完全に独立したソビエト制』を提案した。彼等は次のように宣言した。『労働者自身が、自分のソヴィエトを自由に選ばねばならない。ソヴィエトは労働者自身の意志と願望を実行するのである。つまり、支配するソヴィエトではなく、<行政上の>ソヴィエトなのである。』経済的には、資本主義は国家と共に廃止される。大地と職場は『そこで働く人々、労働者にのものでなければならない。つまり、社会化されねばならないのだ。』[前掲書, p. 271, p. 273]

 軍隊それ自体は、赤軍とは全く対照的に、根本的に民主的だった(もちろん、内戦の恐るべき性質の結果、幾つかの点で理想からはかけ離れたものとなっていたが−−しかし、トロツキーの赤軍が強制していた体制と比較すれば、マフノ主義者は遙かに民主的な運動であった)。

 ウクライナにおけるアナキストの自主管理実験は、血の結末を迎えることになった。ボルシェヴィキはマフノ主義者(「白軍」や帝政支持者に対して戦ったかつての同盟者)が必要なくなると、敵意を向けて来たのである。この重要な運動は、このFAQの付録「何故、マフノ主義運動はボルシェヴィズムに対する代案の存在を示しているのか?」で十全に論じる。ただ、ここでは、マフノ主義運動が示している一つの明白な教訓を強調しておこう。つまり、ボルシェヴィキが達成しようとした独裁政策は、客観的情況のためにマフノ主義運動に押し付けられなかったのである。むしろ、ボルシェヴィズムの政治思想はマフノ主義者の決定に明確な影響力を持っていたのだった。結局、同じ内戦で活動的だったものの、マフノ主義者はボルシェヴィキがそうしたように政党権力という同じ政策を追求せず、むしろ、労働者階級の自由・民主主義・権力を促すことに、極度に困難な情況で(そして、そうした政策に対するボルシェヴィキの強い反対に直面しながら)成功したのだった。左翼で一般に認められた見識からすれば、ボルシェヴィキに対してはいかなる代案もあり得なかったことになっている。マフノ主義の経験はこのことに対する反証である。権力の座にいる人々同様に、多くの人々が政治的に行動し、思考する。このことは、利用可能な選択肢を制限している客観的障害物と同じぐらい、歴史の結果を決定するプロセスの一部なのである。明らかに、思想は確かに重要であり、だからこそ、マフノ主義者はボルシェヴィズムに対する実践的代案があった(今もある)ことを示している。その代案がアナキズムなのである。


【その後の反体制運動】
 その後、1987年まで一度もモスクワでアナキストのデモは行われなかった。最後のデモ行進は、1921年にクロポトキンが死んだときだった。このデモでは、クロポトキンの棺の後を一万人以上が行進した。デモ行進を行った人々は、「権威あるところに自由なし」・「労働者階級の解放は労働者自身の仕事である」と示した黒旗を掲げた。行進がブチルキ刑務所を通りかかったとき、受刑者たちはアナキストの唄を歌い、独房の鉄格子をふるわせた。

 宮地健一氏が続篇として「マフノ運動とボリシェヴィキ政権との関係」を書き上げている。




(私論.私見)