3253358 | アナーキストとボルシェヴィキの結合分離 |
(最新見直し2005.12.23日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
いずこの国の史書も、右からのものであれ左からのものであれ官制ものは史実を伝えていない。都合の良いところを抜き出し、その流れを記述する。強権的に圧殺したものは記さない。それが為に当時の実情とそぐわない記述になっても意に介さない。そう、史書は政権擁護の教本として使われるためにのみある。 だから、そういうものを鵜呑みに学べば学ぶほど馬鹿になる。そういう鵜呑み屋が歴史家として講釈するよう体制化されている。もし本当の歴史が知りたければ、時代閉塞のキーを握りたければ、埋もれた歴史からも学ばねばならない。ここで問う「アナーキストとボルシェヴィキの結合分離」もその類のものである。とりあえずスケッチ風にしておく。今は只転載あるのみである。謝させていただく。 2005.12.28日 れんだいこ拝 |
【ロシア革命に果たしたアナーキズムの役割】 | ||||||
労働組合や協同組合、工場委員会や評議会(ロシア語でソビエトという)を作る動きにはアナーキストの果たした役割があった。これらの組織は当初、リコールできる代表が互いに連帯するというアナキストの流儀で組織された。アナキストたちはこの運動に参加して、あらゆる自主管理の試みを促進させた。 フランス人将校のジャック=サドゥールは、1918年初期に次のように書いている。
アナキストたちは特に、労働者による生産の自主管理運動に熱心であった。(M. Brintonの「The Bolsheviks and Workers Contro」l参照)。だが1918年初期、ボルシェヴィキ党の権力的社会主義者たちは、一旦権力を掌握すると、アナキストをライバル視し始め、力づくで弾圧するようになった。最初は、アナキストたちはボルシェヴィキを支持していた。なぜなら、革命前のボルシェヴィキの指導者たちは「ソビエト(評議会)を支持する方針」を打ち出しており、ボルシェヴィキ独裁イデオロギーをの背後に隠していたからだ。 革命政権樹立後、ボルシェヴィキは、ソビエトに依拠した社会主義を探究するのではなく、自派権力確立に汲々とするようになった。この動きが強まるのに応じて、ボルシェヴィキへの支持が急速に色褪せていった。ボルシェヴィキは、土地や生産手段を俗流マルクス主義イデオロギーに沿って国有化を目指し始めた。 ボルシェヴィキは、労働者自主管理運動を排除する一方で、その推進母体であるアナキストたちを逮捕し、殺害し、陥れていった。そして、アナキストがとりわけ擁護している民衆の自由を制限していった。こうして、独立系の組合、政党、ストライキ権、作業場や農場の自主管理もすべてが「ボルシェヴィキ社会主義イデオロギー」によって壊滅させられた。ロシア10月革命の熱気は、ボルシェヴィキが権力を握って僅か数カ月で冷めた。「革命は死んだ」。 1921.2月のクロンシュタット反乱は、アナキストにとって非常に重要であった。クロンシュタット反乱は、もう一つの社会主義の在り方を求めて立ち上がった初めての大きな反乱だった。
ウクライナでは、アナキスト思想の応用が最もうまくいっていた。マフノヴィスト運動の庇護下にある地域では、労働者階級人民が、自らの考えと必要に応じて自分達の生活を直接組織した。独学の農民ネストル=マフノの指導の下に、赤軍白軍双方の独裁と戦うだけでなく、ウクライナ民族主義者たちにも抵抗した。「民族自決」すなわち新しいウクライナ国家創設の呼びかけに反対して、マフノはウクライナの労働者自主管理を維持発展させ、それを全世界に広めようと呼びかけた。マフノヴィストたちは労働者農民評議会(ボルシェヴィキはそれを禁止しようとした)を組織し、また同様に自由ソビエト、組合、共同体を組織した。マフノはウクライナの「ロビン=フッド」として知られるようになった。 マフノヴィストは次のように論じている。
アレクサンドロフスクにおいて、ボルシェヴィキはお互いの勢力範囲を認め合おうじゃないかと提案した。ボルシェヴィキの革命委員会が政治部門を担当し、マフノヴィストは軍事部門を担当すればよい、というわけである。マフノは彼等にこう言った。
マフノヴィストはボルシェヴィキによるソビエトの改悪を拒否し、代りに「権威や専制的法律のない、労働者人民による自由で完全に独立したソビエト組織」を提案した。彼等は次のように宣言する。
ウクライナにおけるアナキストの自主管理実験は、血の結末を迎えることになった。ボルシェヴィキは、「白軍」や帝政主義者と共に戦ったかっての同盟者であるマフノヴィストが必要なくなると、刃を彼等に向けて来たのである。 モスクワでアナキストのデモが最後に行われたのは、1921年にクロポトキンが死んだとき、彼の棺に続いて1万人が行進した時であり、その後は1987年になるまで跡絶えた。彼等の多くはこの日のために刑務所を保釈されてきた人々であり、後年、レーニン主義者たちによって殺される運命にあった。1921年より、アナキストたちはソビエト連邦を「国家資本主義」の国と呼ぶようになった。なぜなら、個人的なボスこそ排除されたものの、ソビエトの政府官僚が西側の個人ボスと同じ役割を果たしているからである。 ロシア革命とアナキストが演じた役割についてもっと知りたい場合は、次の本がお勧めである。 これらの本の多くは、革命の時に活躍したアナキストによって書かれた。大抵はボルシェヴィキによって投獄され、モスクワに来たアナルコサンジカリストの代表らによる国際的圧力によって西側に追放になった。ボルシェヴィキは彼等をレーニン主義に改宗させようと説得したが、彼等の大多数は自分達のリバータリアンの方針を堅持し、彼等の組合にボルシェヴィズムを拒否することを確信させ、モスクワとの関係を絶った。1920年代初期までに、アナルコサンジカリスト組合の連合全てに、ロシアの「社会主義」は国家資本主義であり党の独裁であるとして拒否するアナキストたちが加わったのである。[FAQ目次に戻る] |
【アナーキズムとボリシェヴィキとの結合から分離過程の経緯】 | |||||||||||||||||||
宮地健一氏の「クロンシュタット1921年 ヴォーリン」、「アナーキー書評3」の「知られざる革命」(ヴォーリン著 野田茂徳・野田千香子訳 現代思潮社 1966年)その他を参照する。「知られざる革命」では次のように説明されている。
「セクション A - アナキズムとは何か?」の「A.5. 4 ロシア革命のアナキストたち」を参照する。ロシア革命に果たしたアナーキストの役割が次のように解説されている。
次のようにも解説している。
これによれば、レーニン主義革命が成功したのは、レーニンがアナーキズムの甘心を買う政策を打ち出し、アナーキストを陣営に引き入れた故にボリシェヴィキ革命が進展したことになる。 アナーキストの実力について次のように語られている。
ここまでが、ボリシェヴィキとアナーキストの結合である。この結合は、ロシア10月革命後分離に向うことになる。その事情は次のようなものであった。
遂に、ボリシェヴィキは、革命の同盟軍であったアナーキスト弾圧に転じた。次のように記されている。
ロシアにいるアナキストがボルシェヴィキ体制に反対し始めたのは1918年のことだった。アナキストはこの新しい「革命的」体制に弾圧された初めての左翼グループだった。ロシアの外では、アナキストはボルシェヴィキを支持し続けていた。だがそれもボルシェヴィキ体制の抑圧的性質についてアナキスト情報筋からニュースが来るまでのことだった(その時まで、多くの人々は、資本主義賛同の情報筋からのものだとしてネガティブな報道を軽視していた)。信頼できる報道がやってくると、世界中のアナキストはボルシェヴィズムとその政党権力と弾圧システムを否定した。ボルシェヴィズムの経験は、次のバクーニンの予測を確認したのである。つまり、マルクス主義とは『本物の学者や偽学者からなる極少数の新興貴族階級が行う高度に専制的な大衆支配』を意味する。『民衆が学習しなければ、政府の世話から解放されても、統治される群衆の中に丸ごと包含されてしまうだろう。』[Statism and Anarchy, pp. 178-9] 1921年以来、ロシア外部のアナキストはUSSRを「国家資本主義」の国だと述べるようになった(ロシア内部のアナキストは1918年以来このように呼んでいた)。個々のボスはいなくなったかも知れないが、西側で個々のボスが行っているのと同じ役割をソヴィエト国家官僚制が果たしているからである。アナキストにとって、『ロシア革命は経済的平等を達成しようとしている。この取り組みは、強力な中央集権主義政党の独裁下にあるロシアで行われているが、一党独裁の鉄則下での強力な中央集権国家共産主義を基に共産主義共和国を建設しようというこの取り組みが失敗に終わるのは必至である。我々は、ロシアにおいて共産主義がどれほど導入されていないのかを理解し始めているのだ。』[Anarchism, p. 254] ロシア革命とアナキストが果たした役割に関するさらに多くの情報は、このFAQの付録「ロシア革命」を参照していただきたい。付録では、クロンシュタット蜂起とマフノ主義だけでなく、この革命が失敗した理由・この失敗にボルシェヴィキのイデオロギーが果たした役割・ボルシェヴィズムに対する代案の存在についても論じている。 以下の本もお薦めである。ヴォーリン著「知られざる革命 The Unknown Revolution」・G=P=マキシーモフ著「稼働中のギロチン The Guillotine at Work」・アレクサンダー=バークマン著「ボルシェヴィキの神話 The Bolshevik Myth」と「ロシアの悲劇 The Russian Tragedy」・モーリス=ブリントン著「ボルシェヴィキと労働者管理 The Bolsheviks and Workers Control」・イダ=メット著「クロンシュタット蜂起 The Kronstadt Uprising」・ピーター=アルシーノフ著「マフノ主義運動史 The History of the Makhnovist Movement」・エマ=ゴールドマン著「ロシアに対する私の幻滅 My Disillusionment in Russia」と「自叙伝 Living My Life」。 これらの本の多くを書いたのは、ロシア革命時に活躍したアナキストである。大抵はボルシェヴィキによって投獄され、西側に追放になった。追放で済んだのは、モスクワに来たアナルコサンジカリストの代表団が国際的圧力を掛けてくれたおかげであった。ボルシェヴィキはアナルコサンジカリストをレーニン主義に引き入れるべく説得しようとしていた。だが、代表団の大部分はリバータリアン政治に忠実であり続け、ボルシェヴィズムを拒否するように自分たちの組合を説得し、モスクワとの関係を絶った。1920年代初頭までに、全てのアナルコサンジカリスト組合連合がアナキストと一緒になって、ロシアの「社会主義」は国家資本主義であり党の独裁であるとして拒否したのだった。 |
【アナーキズムとボリシェヴィキの思想的確執】 | |||||
ボルシェヴィキが民衆労働者階級政党から労働者階級に対する独裁者へと堕落したのは偶然ではなかった。国家権力の現実と政治思想の結合(そして、それが生み出す社会関係)は、こうした堕落を生み出さずにはいられなかった。前衛主義・自発性の恐怖・政党権力と労働者階級権力との同一視を伴うボルシェヴィズム政治思想は、必然的に、この政党が、それが代表していると公言している人々と衝突するということを意味していた。結局、この政党が前衛であれば、自動的に、他の人々は「後衛」になる。つまり、労働者階級がボルシェヴィキの政策に抵抗したり、ソヴィエト選挙でボルシェヴィキを拒否したりすれば、労働者階級は「動揺して」おり、「プチブル」と「後衛」分子に影響されていると解釈される。前衛主義はエリート主義を生みだし、国家権力と結合して独裁になるのである。 アナキストは常に強調しているが、国家権力とは、権力を少数者の手に委ねることを意味する。このことは自動的に社会における階級分断を生み出す。権力を持つものと持たないものの分断である。従って、ボルシェヴィキは、一旦権力を握ると、労働者階級から分離したのである。ロシア革命は、マラテスタの次の主張を確認したのだ。
ボルシェヴィキが構築したような高度に中央集権型の国家は、説明責任を最小限に抑え、同時に、支配者と非支配者との分離を加速する。大衆はもはやインスピレーションと権力の源泉ではなく、「規律」(つまり、命令に従う能力」)が欠如し、革命を危機に陥れいる異質な集団だと見なされてしまう。ロシアのあるアナキストは次のように述べていた。
この理由で、アナキストは、労働者階級内部での政治思想の発展が一様ではないことに同意しながら、「革命家」が労働者のために権力奪取するべきだという考えを拒否する。労働者が自分たちで実際に社会を運営するときにのみ、革命は成功する。アナキストにとって、これは次のことを意味している。
労働者権力を党の権力で置き換えることで、ロシア革命は最初の致命的ステップを踏んだ。ロシアにいるアナキストが次に(1917年11月以降に)何が起こるか予測したことが現実になったのは驚くに当たらない。
いわゆる「労働者の国家」は参加型のものにも、労働者階級人民に権能を与えるもの(マルクス主義者はそのように主張していた)にもなり得なかった。理由は単純だ。国家構造はそのようになるように作られていないからだ。少数派支配の道具として作られているため、国家構造を労働者階級を解放する手段へと転換することは(また、解放の手段となる「新しい」構造を創り出すことも)不可能である。クロポトキンが述べていたように、アナキストは『国家組織は、少数者が大衆に及ぼす権力を確立し組織化する勢力なのだから、こうした特権を破壊する働きをする勢力にはなり得ない、と主張する。』[Anarchism, p. 170] 1918年に書かれたアナキストのパンフレットの言葉を引用しよう。
内部にいる者にとっては、ボルシェヴィキが権力を掌握して数カ月で革命は死んだ。外の世界に対しては、ボルシェヴィキとUSSRが「社会主義」を代表するようになった。たとえそれが本当の社会主義の基盤を組織的に破壊していたとしても。ソヴィエトを国家機構に変換することで、ソヴィエト権力を政党権力に取り替えることで、工場委員会の土台を破壊することで、軍隊と仕事場の民主主義を排除することで、政治的敵対者と労働者の抗議行動を弾圧することで、ボルシェヴィキは労働者階級を労働者階級自身の革命から効果的に排除したのである。ボルシェヴィキのイデオロギーと実践とは、それ自体で、革命の堕落と最終的なスターリン主義の勃興に関わる重大な要因であり、時として決定的な要因になっていたのだった。 |
【クロンシュタット蜂起とアナーキズムの関係】 | |
1921年2月のクロンシュタット蜂起は、アナキストにとって莫大な重要性を持っている(この蜂起に関する十全な議論については、付録の「クロンシュタット叛乱とは何だったのか?」を参照)。1921年2月、ペトログラードでストライキをしている労働者を支援すべく、クロンシュタット水兵が蜂起した。彼等は十五項目の決議を掲げ、その第一項目はソヴィエト民主主義の要求であった。ボルシェヴィキはクロンシュタット叛乱を反革命だと中傷し、叛乱を粉砕した。アナキストにとってこれは重大であった。内戦という観点ではこの弾圧を正当化することなどできず(内戦は数ヶ月前に終わっていたのだから)、また、この叛乱は「真の」社会主義を求めた普通の人々の大規模な蜂起だったからである。ヴォーリンは次のように述べている。
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【ウクライナに於けるマフノ主義運動】 | ||||
ウクライナでは、アナキズム思想が最も上手く応用されていた。マフノ主義運動の庇護下にある地域では、労働者階級の民衆が自らの考えと必要に応じて自分たちの生活を直接組織していた。これこそが真の社会自決である。独学の農民ネストル=マフノの指導の下、この運動は赤と白双方の独裁と戦うだけでなく、ウクライナ民族主義者にも抵抗した。「民族自決」すなわち新しいウクライナ国家創設の呼びかけに反対して、マフノはウクライナと全世界の労働者階級自決を呼びかけた。マフノは仲間の農民と労働者に真の自由のために闘うよう鼓舞したのだった。
この目的を保証するために、マフノ主義者は自分たちが解放した町と都市に政府を樹立せず、自由ソヴィエトを創設させた。そのことで、労働者は自治できたのだった。アレクサンドロフスクの例を見てみよう。マフノ主義者がこの都市を解放すると、彼等は『即座に、労働者に会議に参加するように勧めた。労働者がこの都市の生活を組織し、自分たち自身の力と自身の組織で工場の機能を編成するように提案された。最初の会議の後、すぐに次の会議が行われた。労働者による自主管理の原則に従って生活を組織するときの問題点が吟味され、労働者大衆によって活発に議論された。労働者大衆は皆、自主管理の考えを最大の熱意を持って歓迎した。鉄道労働者が第一歩を踏み出した。彼等は、この地方の鉄道ネットワークを組織する責任を持った委員会を組織した。この段階から、アレクサンドロフスクのプロレタリア階級は、自主管理の諸機関を創設するという問題に組織的に目を向け始めたのだった。』[前掲書,
p.
149]
同時に、マフノ主義者は自由農業コミューンを組織した。
マフノは地主貴族の財産を廃絶する上で重要な役割を果たした。地元のソヴィエトとその地区会議・地方会議が、農民コミュニティの全区画で土地の使用を平等にしたのだった
[前掲書, pp. 53-4]。
さらに、マフノ主義者は『言論・思想・出版・政治結社の自由という革命的原理を十全に採用した。マフノ主義者が占拠した全ての都市や町で、彼等は、あらゆる禁止事項を撤廃し、某かの権力によって報道機関と政治組織に課せられていたあらゆる制限を破棄し始めた。』実際、『民衆に対する独裁を強制しようとする「革命委員会」の形成を禁止すること、マフノ主義者が考えた唯一の制限はこれであり、ボルシェヴィキ・社会革命党左派・その他の国家主義者たちに課す必要があると見なされたのだった。』[前掲書,
p. 153, p.
154] |
【その後の反体制運動】 |
その後、1987年まで一度もモスクワでアナキストのデモは行われなかった。最後のデモ行進は、1921年にクロポトキンが死んだときだった。このデモでは、クロポトキンの棺の後を一万人以上が行進した。デモ行進を行った人々は、「権威あるところに自由なし」・「労働者階級の解放は労働者自身の仕事である」と示した黒旗を掲げた。行進がブチルキ刑務所を通りかかったとき、受刑者たちはアナキストの唄を歌い、独房の鉄格子をふるわせた。 |
宮地健一氏が続篇として「マフノ運動とボリシェヴィキ政権との関係」を書き上げている。 |
(私論.私見)